December 16 (Sun.) -2-
詩織は自分が今立っているのか座っているのかさえ、よくわからなかった。
ふわふわとした感覚。頭がはっきりしない。まるで夢の中にいるようだ。
ただツカサの声だけが、やけにクリアに響いていた。
『黒川麻里。彼女が国際研究所に研究を申し出たときに、こんなことになるとは思っていなかっただろう』
淡々とした口調。その端々に苦いものがにじむ。
こんなこと、とは――
『純粋に、SPMを解明するための研究に対する協力だったはずなんだ、黒川麻里が国際研究所と交わした契約というのは。それを歪めたのが……当時のニホン政府だ』
もしかして。前にアンジュ達が言っていたような。
『彼らは“M”に脅威を感じたようだね。それまで彼らはSPMの存在さえ無視していたというのに。国際機関が動いていると知った途端、保護という名目でMの系譜から国民コードを取り上げ、従うほかない状況に追い込んだ』
……!
『まあ、その時の政権はとっくにつぶれて、与党でさえなくなっているけどね』
含み笑う気配。
詩織は急に泣きたくなった。
『新政権にいたっては、僕達をどう扱えばいいかさえわからなかったようだ。“M”の存在は今さら公にできない。だから口をつぐんだまま、すべてをなかったことにした。――僕達“M”の存在さえ否定したんだ』
じわりと、目の端が濡れる。指一本動かせないため、それをぬぐうことはできない。
『僕達は生きられる場所がほしいだけだ。引け目を感じることなく、自由に生きたい』
今、口が動いたとしても。詩織には何を言えば良いかがわからない。
こんな闇を抱える彼らに、どんな言葉なら届くのだろう。
『だからまずは、この国に僕達を認めさせる』
頬に冷たいものが触れた。視界はくもっていてよく見えない。固い、金属のようだ。
『誰にも……邪魔はさせない』
それはするりと手の中にすべり込んできた。
詩織の意志に関わらず、詩織の手は“それ”を握りしめた。
* * * * *
外は重苦しい曇り空だった。またあの日のように、雪でも降りそうな雰囲気だ。
「初めて会ってから、まだ2週間と少ししか経っていないのね」
アンジュがひとりごとのようにつぶやいた。アズマはちらりと視線だけを動かし、また暗い車窓を見た。
2人の乗るタクシーは首都郊外を目指して走っていく。そこそこに年を食った運転手はミラー越しにこちらの様子をうかがっていて、幹線道路をはずれたところで、とうとう話しかけてきた。
「ねえお客さん。こっちの方って、何に使ってんだかわからない工場みたいのがあるだけですよ。本当に行き先合ってます?」
「ええ、合っています。進めるところまででかまいませんので、お願いします」
アンジュがにこりと笑って見せた。運転手は小さく肩をすくめ、それ以上は何も聞かなかった。アズマもアンジュも黙ったままだった。
ヘッドライトが照らす道は、だんだんと細くさびしくなっていく。
そして、かろうじて舗装されている道のどん詰まり、いかめしい鉄門の前でタクシーは停車した。
「……ここが……」
車が走り去ると、アンジュは門を、ずっと向こうまで連なる高い白壁を見渡した。奥の方は闇に溶けてよく見えない。ところどころに設置されている灯りのほとんどが消えているのは、おそらく故意にだろう。
「“M”は週に一度、ここで検査を受けにくると決まってた。あいつが中の人間ごと乗っ取るまで」
「それはいつから?」
「今年のはじめ頃、だと思う」
「はっきりとはわからないの?」
問われたアズマの表情が、一瞬歪んだ。
「……葉沼達が、そう話してたのを聞いた」
「そう」
それだけ言って門の方へ視線を戻し、アンジュは透かすように奥の建物を凝視した。
「中の構造はわかる?」
「少し」
「では何かあったときには、対処は各自その場で判断するのね。いっそその方が神崎ツカサに『読まれない』という点ではいいのかしら」
「……」
「ふざけているわけではないわ。どのみち、そういう心構えでいくしかないということでしょう?」
アンジュはその場でワインレッドのコートを脱ぎ、ぱさりと地面に落とした。アズマも同じようにジャケットを脱ぎ捨てる。
「これまではこちらに出向いてもらってばかりで、考えてみれば申し訳なかったわね」
ふわりと、アンジュは笑んだ。
「今度は私達の番。もう、彼らの好きにはさせない」
アンジュの拳が門を殴りつけた。凄まじい金属音と共に合わせ部分がひしゃげる。
続けてもう1撃。
門は内側へ向けて勢いよく開いた。錠が飛んだようだ。
「さあ、行きましょうか」
返事を待たずにアンジュは駆けだした。アズマがその後を追う。2人の去り際に、扉の鉄板が風に軋み、悲鳴のような音を上げた。
* * * * *




