December 16 (Sun.) -1-
……ねえ、マリア。
なに?
どうしてわたしたち、外に出ちゃいけないのかな?
オトナの事情ってやつでしょうね。アンジュは外に出たいの?
わかんない。
そう。――あたしは出たいな。外の世界ってのを、自分の目で見てみたい。
え……?
なに泣きそうな顔してるの? バカね、あんたを置いて行ったりしないよ。
行くときは2人いっしょ。ずっといっしょだから。あたしがいなくなるまでは、ね。
うん、わかった! 約束ね!
自分より少し早く生まれた“双子”の姉で、なんでもできて、なんでも知っている。
アンジュにとってのマリアは最初からそんなイメージだった。
だからこそつらいこともあるのだと気付いてから、しばらく経った頃。マリアがいたずらっぽく耳打ちしてきたことがあった。
“もうすぐ、ここから出られるかもしれないよ”
ただしそれは“マリア”という人格の喪失と引き替えだった。
本音では寂しかった。しかし、マリアの望みが叶うのならそれでもいいと、自分に言い聞かせて納得させた。
自分の世界があまりに狭いことは知っていた。
加えて外の世界は思った以上に広大で。
信じられるのは、マリア1人だけだった。
* * * * *
まぶたがかすかに震え、ゆっくりと開いた。ぱちぱちとまたたいた黒い眼は、焦点を結んだと同時に金に染まる。
「マリア!」
「ああ、おはよ。今日って何曜?」
「……日曜日、夕方4時になったわ」
「寝坊だね。もう起きるから」
「お願いだから寝ていてちょうだい!」
アンジュは、ベッドから起きあがろうとするマリアの肩を押さえた。もがきかけた身体はすぐに力を失った。
仕方なさそうなため息をついて、マリアは抵抗をやめた。
「あーぁあ。あいつに詩織ちゃん取られちゃったんだねぇ。負けだわ完全に。今回は、だけど」
「……ええ」
「で、ここはまだ先生のお屋敷だよね? 先生は……海外出張の準備?」
答える前に答えを『読んで』、マリアが苦笑する。
「せんせーは忙しいもんねぇ」
「そうね」
「ほっときたいわけじゃないとは思うけどね。さて、どうしようか」
アンジュは笑えなかった。マリアから目をそらしてうつむく。と、部屋のドアが静かに開き、貴島とアズマ、そして詩織の父が入ってきた。
「マリア君。目を覚ましたのか」
「せんせ、おはよう。――アズマ君。行く気なんだ?」
アズマがうなずいた。
「あんたは無理そうだな」
「残念だけどねー」
「黒井は」
アンジュは、とっさに答えられなかった。アズマから視線をはずす。自然とうつむき加減になる。
ふと、手に温かいものがふれた。見るとマリアが、自分の手を重ねていた。
「あたしは大丈夫だから。行っていいよ、アンジュ」
「……」
「今度は本当だってば」
前日の件があるため、信用しろという方が無理だ。にも関わらず、アンジュはそれを口にできなかった。
ふとマリアの手に力がこもり、アンジュの手を引き寄せた。
「そろそろ認めちゃいなって。あなたも結局、詩織ちゃんが心配なんでしょ? でもって動揺した自分にまた動揺してる」
「……。そうなのかしら」
――あの時。ほんの一時目を離した間に、詩織の姿は消えていた。
それに気付いた瞬間、血の気の引いていくのがわかった。マリアが見えなくなったときほどではなかったものの、衝撃で思考が止まった。
もうたくさんだ、と――そんな言葉が脳裏をよぎる程度には。
「たぶんね。まったく、そういうところまだまだ子供なんだから」
マリアの発言と同時にアズマが怪訝な顔をした。それを見て、マリアがにやりと唇を上げる。
「あたしと逆で身体の成長が早かったもんだから、不自然に見えないようにちょっとだけサバ読んだのね。アンジュの実年齢、16歳。アズマ君といっしょ」
「!」
「まあ話戻すけどね? つまり、さ」
マリアがアンジュに目を向ける。彼女らしからぬ優しい表情だ。
「アンジュは結局、好きなんでしょ。詩織ちゃんのこと」
あっさりと、マリアはまとめてみせた。
アンジュは無言でマリアを見返す。マリアを否定することはできない。しかし、肯定もしたくない。そんな初めての感情に困惑する。
マリアがふとんの中で肩をすくめた。
「仕方ないな。じゃあ今日のところは“命令”ね。――行って。あいつから詩織ちゃんを取り戻してきてよ、アンジュ」
その言葉で一気に心が凪いだ。
アンジュはうなずき、アズマに向き直った。
「同行するわ。よろしく」
「……ああ」
「あ、アズマ君てば勘違いしてない? あたしが詩織ちゃんの悪口ばっか言うクセにとか思ってたでしょ、今」
マリアが、今度はいつもと同じいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あたしも詩織ちゃんのことは好きなんだからね? アンジュと“クリス”は、詩織ちゃんのおかげで普通の生活ってやつを体験できたんだし、意外と楽しんでたし。それを他の奴に取られるなんて……許せない」
最後の声は低かった。そんなマリアを、続いてアンジュを見たアズマは、その視線を床に落とした。
「俺も相川には借りがある」
「しかし、雷君、杏樹君。本当に2人だけで――」
詩織の父がこの場で初めて口を開いた。アズマがふり返った。
「昨日のSPM発動。最低でも鳥戸と棚戸はつぶれてる。たぶんツカサも、まだ本調子じゃない」
「ユノさんとシバさんはひとまず閉じこめてあるしね。むしろ仕掛けるなら今のうち。全員が回復してからじゃ、こっちが圧倒的に数不足だからねー」
「……そうか……」
問いが続かないことを確認し。マリアは表情を引き締めた。
「場所はSPM国際研究所ニホン支部。神崎ツカサ本人がそう言った。アズマ君は場所知ってるんでしょ?」
「ああ」
「善は急げだね。ってことで、ゴー!」
アンジュとアズマは同時に身をひるがえした。
足音さえほとんどたてず、風のように駆けていった2人を、詩織の父と貴島は言葉ひとつなく見送った。
「ふう」と気力を使い切ったように息を吐き、マリアも静かになった。
少しして、詩織の父がぽつりとつぶやいた。
「私は……父親失格だな」
「旦那様」
気遣うように貴島が遮った。マリアはだるそうに片目だけ開いた。
「自分でそう思うんなら、そうかもね」
返答はなかった。マリアが次に耳にしたのは、2人分の足音と、静かに扉が閉まる音だけだった。
* * * * *




