December 15 (Sat.) -5-
きしみながらゆっくりと開いていく扉に、詩織は凍りついた。まず目に入るのは夜明け前の闇。人の姿はまだ見えない。詩織はもう少し様子をうかがおうとしたが、その前に、アズマが進み出た。
上階で「どん、どんっ」と重い音が響いた。あれはアンジュ達だろうか。
詩織の緊張は高まった。
「……シバ」
アズマの固い声。そして、まだ見たことのない男の顔が現れた。
これまで出会ってきた“M”とは少し雰囲気が違う。とっさにそう感じたのは、まず30前後という年齢のせいかもしれなかった。
「ご無沙汰しました。先生」
「君も……なのか」
「おっしゃりたいことは、わかるつもりです」
痩せぎすで、気が強くなさそうな風貌だ。しかしその言葉には迷いもためらいもなかった。
「それでも私は、ツカサさんに従うと、決めましたので」
突然アズマがふり返った。父を突き飛ばし、詩織の肩を抱いて逆方向に転がった。
ということがあったのだと理解できたのは、詩織達のそばにあった机が吹き飛んで壁にぶつかり、耳を覆うような音を立てた後だった。
まるで夢を見ているような気分だった。
もしアズマがいなければ。今頃どうなっていただろう。
「……お前は来ると思ってた」
アズマは身を起こしたようだ。詩織はうつぶせで背中を押さえつけられていて、話を聞くことしかできない。
「オレがこねーで誰がくんだよ!」
「……」
「んだその目は! バカにしてんのかぁ!?」
覚えのある乱暴そうな声。確か名前は『湯野』だったろうか。
と思ったところで、背中にかかる力が消えた。
「おぅあっ!?」
裏返った悲鳴にぱっと顔を上げる。アズマは2人を相手に中段蹴りを仕掛けたところだった。湯野が芝をかばいながら必死によけている。見かけどおり、芝は格闘向きではないようだ。
「おまっ、ちょ、まっ」
息もつかせぬ連続攻撃を続けるアズマと、逃げる湯野。完全にアズマが押している。
湯野が足をもつれさせた。機を逃さず突きだしたアズマの拳が湯野のこめかみをかすめた。湯野がたまらず膝をつく。アズマはさらに畳みかけようとした。
しかし寸前で手を止め、後方に跳ぶ。一瞬前までアズマが場所に光が閃いた。光はすぐに落ちて固い音を立てる。それはよくみかける市販の食事用ナイフだった。
「トオル……いつそんなことができるようになったんです」
また知った声だ。少し遠くから聞こえた。どこかに隠れているのだろうか。詩織は見える範囲を懸命に探したが、姿をみつけることはできない。
アズマが虚空を睨んだ。
「トリトか」
「挨拶も済まさないうちに襲ってくるとは、感心しませんね」
「……どの口が」
「湯野も何をしているのですか」
「そんなこと言われてもよぉっ――」
言い返しかけた湯野の側頭に、アズマが容赦なく蹴りを見舞った。
湯野は横ざまに飛んで昏倒した。残された芝が立ち上がり、後じさる。怯えているようにも見えたが、アズマもまた慎重な様子で退がってきた。
「先生」
詩織には「動くな」というように手を上げて見せ、父の方へ移動していく。
「私は大丈夫だ」
「離れないでください、先生」
「トオル。君とはあまり訓練を一緒にしたことはなかったね」
芝が、ゆらりと身体を揺らした。
アズマは眉根を寄せた。
「そのはずだよね。僕は“師”に聞いているから、君の能力について、よく知っているよ。だけど君は、僕のことをあまり知らないよね?」
「……」
「それで君は、僕に手を出せないんだよね……?」
「だからどうした」
「僕はね……こういうこともできるんだ」
芝は静かに目を閉じた。
「えっ……?」
直後、アズマと父が同時にうめき声を上げ、頭を抱えて膝を落とした。詩織も少しだけ違和感を覚えて思わず耳をふさぐ。しかし何が起きているかはさっぱりわからない。
わかるのは、今も2人が苦しんでいるらしいことだけだ。
「――助かったよ、トオル」
芝が目を開いたと同時に、父が崩れ落ちた。アズマの方はかろうじて意識を保っているようだ。床に両手をつき、大きく息をついている。
「手加減してくれて、ありがとう。僕も君と同じで、能力の制御に、けっこう苦労するタイプでね。暴発すれば、必要以上に害が及んだかもしれないね」
「先生……!」
「手加減したよ。気絶していただいた、だけ」
遠目ながら父親の背がゆっくりと上下しているのはわかった。それを確認するまで自分の呼吸が止まっていたことに気付き、詩織は無理やり息を吸いこんだ。
「君だって、身動きできないくらいだろう? そういう風に、神経を“震わせた”」
芝はそろりと身を乗り出した。アズマが半ばほど顔を上げる。
「ねえトオル……そろそろ、戻っておいでよ。“師”は、君を心配しておられる」
「まさか」
アズマは低く、低く吐き捨てた。芝がびくりと肩を震わせた。
それでも意を決したように、もう半歩前へ出る。
「“師”を疑うのかい? あの方は君の、たった1人のお兄様じゃないか」
「そんなことは関係ない」
「僕達には公的な身分がないんだ。あの方の下以外に、僕達の居場所なんて、どこにもないじゃないか。君だって――」
「勝手に決めるな!!」
ゆらりと、アズマが立ち上がった。芝が口を開けて大きく目を見張る。
「も、もう動けるのかい」
「少し“軌道”を外した。……もう覚えた」
黒い瞳が芝を捉えた。
「次は、利かない」
詩織の視界からアズマが消えた。と思った次の瞬間、アズマは芝を殴っていた。芝は文字通りふき飛んで動かなくなった。
それを見届けたアズマは、つと天井を見上げる。
「……逃げたな」
詩織もつられて上を見た。どこかでこちらの様子を伺っていたはずの鳥戸が、完全に気配を絶っている。
アズマがふっと力を抜いた。それでひとまず安全らしいとわかった。
崩れるように、詩織はその場でうずくまってしまった。




