December 15 (Sat.) -3-
詩織はしばらく、その場にぼうっと突っ立っていた。
が、後ろからかちゃかちゃと音が聞こえ、我にかえってあわててふり返る。それはアズマが割れたティーカップを拾い集める音だった。
「て、手伝います」
「ああ」
返事は少しばかり不機嫌そうだった。その様子をちらちらと見ていると、不意にアズマが声を上げた。
「先生。離れないでください」
何やら周囲を見回していた父が、こちらを向いて苦笑した。
「さすがに割れ物を入れるようなものは用意しなかった」
「後でいいですから」
「そうか」
「……すいませんでした」
まだ床に膝をついたまま、アズマが頭を下げた。父が絶句する気配が伝わってきた。
「何がだね」
「巻き込むつもりじゃなかった」
「それは、君が謝ることではないだろう」
アズマはもう答えず、黙ったまま立ち上がった。
父は小さく頭を振った。
拾える程度の破片の回収は終わった。詩織は手を切らないよう気をつけながら、それをテーブルに乗せる。アズマもそれに倣った。
しばし、沈黙。
「――詩織。聞かないのか」
唐突な父の問いに、詩織はぴくりと姿勢を正す。
「はいっ」
「何か聞きたいことはないのか」
聞きたいこと。それなら山のようにある。
しかし、詩織はかぶりを振った。
「だいじょうぶです」
下手に踏み込んだことを尋ねれば、アンジュやアズマの気を散らせてしまいそうな気がする。そうして邪魔になるくらいなら聞かなくてもいい。聞かなくても詩織は困らない。少なくとも今のところは。
と、父はかえって困ったような表情になった。詩織はきょとんと目を見開いた。
「あの。わたし、何か」
「香織から聞いていたとおりだ。お前は聞き分けがよすぎる」
褒められているわけではないようだった。
そしてそれ以上に母の――“香織”の名が出たことで、詩織の胸はざわめいた。
亡くしてからまだ2年。決して、忘れられたわけではない。
「ともかく座ろう。『今日』は、まだ始まったばかりだ」
父が促した。詩織はおとなしく椅子の背に手をかけた。
ところが。
「来た」
アズマがつぶやいた。
かちん、と正面扉の鍵の開く音がした。
* * * * *
2階東側の廊下に足を踏み入れると、どの室内からも複数の気配が伝わってきた。アンジュは立ち止まり、注意深く周囲を見渡す。
警備の人数を増やしたことが完全に裏目に出てしまったようだ。
「元々ただの煙幕のつもりだったんでしょ? アテがはずれて残念だったねぇ」
「そうね……」
数をあてにしたわけではなかった。“ヘクセ”はその性質上、人目につくような行動は敬遠するだろうと、それを見込んでの増員だったのだ。
「そこを逆手にとってくるなんて、なかなかやるよねぇツカサ君。あの人数に暗示をかけてほぼ自在に操るとか。さすがに動きの精度は大したことないけど」
「そうね」
「先生はここまでの能力値があるって知らなかったっぽいよね? 実験中は隠してたってことかな?」
「そうね……あなたと一緒で」
「やだなぁ仏頂面。怒ってるの?」
少女の小さな手がアンジュの頭をなでた。腹を立てているわけではないし、彼女もそれはわかっているはずだ。
知らず知らずのうちに苦笑が浮かんだ。
「……マリア」
「ん、なに?」
「また呼べたことが嬉しいの」
「先生にもバレちゃったからね。もういいよ、呼んでも」
気分も表情もゆるみかかったのを、アンジュは無理やり引き締めた。
一番近い部屋のドアが緩慢に開く。ぬっと制服の腕が伸びる。アンジュは迷わずそれをつかんで思いきり引いた。本体がつんのめるように部屋から出てくる。その足に足をかけて駒のように転がしてやる。
跳躍する。仰向けに倒れた男のみぞおちを、落下の加速つきで踏みつけた。
ぐえ、と妙な声を上げ、男は気絶した。
「ごめんなさいね、間が悪くて」
「手加減してるー?」
「もちろんよ」
本気を出せば腹を踏み抜くくらいのことはできる。
などと、“マリア”が当然知っていることなど口にしない。
「ああ。さっそく次が来たようね」
次々と扉が開いていった。アンジュは奇妙な高揚感に口の端を上げた。
「ここはとりあえず、8人かな」
マリアが金の眼を細めながら断言した。その間にも順次、制服やスーツの男達が部屋の中から姿を現す。誰も彼も焦点の合わない不気味な目をしていた。
「わー! キモーい!」
「いつか観たゾンビ映画みたいね」
「詩織ちゃんが怖がって逃げちゃったやつね!」
大喜びのマリアを床に下ろし、軽く肩を回して、ぐっと脚に力を矯める。
「それでは。端から片づけましょうか」




