December 15 (Sat.) -1-
飾り棚の置時計が、ぴったり12時を指した。
詩織は思わずドキリとして背筋をのばした。しかしアンジュとアズマ、そして父には動じた様子もない。木目調の高級そうな丸テーブルを囲み、そろって紅茶を飲む光景は、まさに平和そのものだった。
ただし。その場所はエントランスホールで、扉の正面だ。スペースがあるため屋敷内で1番立ち回りがしやすいのだとアンジュが言っていた。それで他の部屋からテーブルと椅子を運んできたというのが現在の状況だ。
「……あの。静かですね」
「そうね」
貴島をはじめとした警備以外の使用人は、これもアンジュの指示により、屋敷を出された。警備の人間も近くにはいないようだ。聞こえてくるのはティーカップの鳴る音、そしてこの場にいる5人の呼吸音くらいだった。
「不安かしら?」
カチャリ。アンジュがカップを置く音が、妙に耳についた。
「仕方がないのよ。連中に対抗できない者がここにいたとしても、足手まといなだけ」
「あ。はい――」
「ねえねえ、シオリちゃん」
となりの席のクリスが急に顔をのぞきこんできた。反射的に、詩織は頭を後ろに引いた。それからすぐ、今のクリスが詩織のよく知るクリスに戻っているのだと思い出す。
脅迫メールがきて以来“もう1人”になっていることも多かったため、つい警戒モードになってしまった。詩織は反省した。
「なに? クリスちゃん」
「シオリちゃん、顔青いよ。だいじょうぶ? 具合悪くない?」
詩織がはっと頬に片手を当てると、顔は熱く、指は冷たくなっていた。
クリスはにこりとした。詩織の手をとって両手で包み、ぎゅっと握ってくれる。
温かい。
と、アンジュが詩織に向き直った。
「無理はしないで。事前に我慢をしていて、いざという時にパニックになってしまうのが一番困るのよ」
言っていることはわかるので詩織はうなずいた。しかしどうすればいいのかよくわからない。困惑していると、クリスが今度は腕に抱きついてきた。
「あのね。怖い時に『怖い』って言っちゃえばいいんだよ。今のうちに怖いと思ってたら、あとで怖くなくなるよ、きっと!」
「クリスちゃん……」
本当に心配してくれているのがわかった。それだけで嬉しくて、気持ちが楽になるようだった。
だから笑顔で「大丈夫だよ」と答える。クリスは嬉しそうに笑い返してくれた。父とアズマはちらちらとこちらをうかがっていて、その仕草がそっくりだったため、詩織はそのことでも和んでしまった。
アンジュだけはもの憂げな表情のままだった。カップに添えた指がゆっくりと、しかし間断なく動き続けている。
「あまりのんきなことを言っていないで」
「お姉ちゃんてば。こわい顔ー!」
「杏樹君。今から気を張りすぎていては後々もたないのではないかな」
意外にも父が加勢し、アンジュも驚いた顔をした。
父は詩織が記憶していたよりも、いくぶん穏やかな調子で続けた。
「それにしても、ただ座っているだけでは退屈だ。眠くもなる。何か、話をしないか。君達と顔を合わせるのもひさしぶりだ。特に――」
父は座り直し、テーブルの上で指を組んだ。
「雷君。君に何があったかを聞いておきたい」
アズマがはっと顔を上げた。しかしすぐに、父から目を背ける。
「直接の担当ではなかったから、君と直接話した回数など数えるほどだが。気になってはいたんだ。会うごとに、君の表情は暗くなっていくようだった」
「……」
「実を言えばあの頃は、あまり踏み込むべきではないと考えていた。しかし今、それは間違いだったと悔やんでいるよ。そんな眼をした子を……私はまだ、他に知らない」
「……子……?」
ちょっとした違和感に、声が出てしまった。
父から見れば二十歳前くらいでも“子供”なのかな、などと、思った矢先。
「詩織ちゃん。アズマくんは16歳、あなたとふたつ違いよ」
「!?」
「まだ言っていなかったわね。ごめんなさい?」
一瞬息が止まった。
てっきり、アズマはアンジュと同じくらいのオトナだと思っていた。口を開けたままアンジュを見れば、頬杖をつき、少し意地悪げににこにこしている。
「……杏樹君、もしや君は、君達のことも――」
「先生?」
脅迫的な一言に遮られ、父がかすかに苦笑する。詩織は一層わけがわからなくなって、アンジュと父を交互に見た。
「話がそれてしまったようだ。雷君、……話してくれる気はないのかな」
アズマは手元のティーカップに目を落としている。口を開きそうな気配は、ない。
やや長めの沈黙の後、父は短く息を吐き、クリスに視線を移した。
「玖璃須君。今の生活はどうかね」
「楽しいよ! お姉ちゃんとシオリちゃんと、今はお兄さんと、家のお仕事したり遊んでもらったり!」
クリスは詩織から離れ、勢いよく身を乗り出した。父の口元がゆるんだ。
「そうか」
「でもほんとはね、シオリちゃんが学校に行ってるときはちょっとつまらない」
「そうか。体の具合は?」
「だいじょうぶ! 元気だよ! ……ときどき、ちょっとだけ頭が痛くなるけど」
「……頭痛?」
父は、また真顔になった。
「それは――良くないな。今日の件が無事に済んだら1度診てみよう」
「けんこーしんだん?」
「そう、健康診断だ。悪いところがみつかれば治せるかもしれない」
「はーい!」
クリスが元気に手を上げた、その時。
不意に影が差した。
かっちりとした動作で歩み寄ってきたのは、オリーブ色の制服姿。相川家の私設警備員だ。
「失礼、いたします。旦那様」
「どうした」
「ご報告がございまし、て」
急に空気が張りつめた。クリスまでが笑顔を消し、体格のいい警備員を真剣な目で見上げた。
「何かあったのか」
「はい、で、伝言、が」
「……何を言っている?」
「で――ででででん、ご」
様子がおかしい。
詩織が恐怖を感じたその瞬間には、アンジュとアズマが椅子を蹴り、詩織達の腕を肩を強引に引いて下がらせる。ティーカップがひとつ、ふたつ。床に落ちて割れた。
警備員がぴたりと静止した。首を「かくん」と前に落とす。
そして。
「やあ……おそろいだね。今の時間なら『こんばんは』、かな?」
低く太い声はそのままに。がらりと口調が変化した。
それが“ツカサ”の口調だと気づいた詩織は、血の気が引くのを感じながら立ちすくんだ。




