December 9 (Sun.) -3-
詩織はそろりと首を巡らせた。視界の隅に長身の、まっ白なコート姿が映った。
一瞬、相手と目が合った――気がした。
と思ったところでぐいと腕を引かれる。あやうく前へつんのめりそうになり、そのままアズマに頭を抱きかかえられた。
「元気そうで何よりだ。怪我をしたというから心配していたんだよ」
驚いて声も上げられない詩織の鼓膜を、異様によく通る声が貫いた。対するアズマの返答は、乾いてひび割れていた。
「なんで……ここに……!」
「兄として、かわいい弟の様子を見に来たことが、そんなにおかしいことかな」
意味ありげな空白。次いで。
「さあ帰ろう。お前がいるべき場所は、ここではない」
急激に気配がふくれあがった。
詩織は思わずアズマのコートをつかんだ。背中から全身を圧迫されているようで、息が苦しい。
「そろそろ理解した頃だろう。僕の元にいてこそ、お前には価値がある。他に何をするる? 何ができる? さあ、答えてごらん?」
ざり、と気配が1歩前へ出た。
詩織の頭をおさえる力が強くなる。冷たい手は小刻みに震えている。
「こちらへ、おいで。“トール”――」
その時。急ブレーキをかけたような摩擦音に続き、凛とした声が響いた。
「あなたが、“神崎ツカサ”ね?」
アンジュだ。
認識したと同時に、圧迫感がふっと消えた。それでもまだ頭を離してもらえず、詩織は全神経を耳に集中させる。
アンジュの声も、いつもよりずっと硬い。
「アズマ君のお兄さんね。こんにちは」
「黒井アンジュさん、と……クリスちゃんだったかな。はじめまして」
「はじめましてー!」
「思ったより早く戻ってきたね。タナトは何をしていたんだろう」
「棚戸君というの。彼はしっかりと役目を果たしていたわよ? ただ、私達の好みではなかっただけ」
「……それならよかったよ」
そんなやりとりの合間に、クリスが詩織のそでをつんつんと引っ張った。
「ただーいまっ」
「く、クリス、ちゃん」
「はい、どーどー。おにーさんも落ち着いてねー」
やっと解放された詩織は、まずクリスの顔を見た。予想した通り眼の色は金色だ。
続いてアズマを見上げる。蒼白な顔のアズマは、石像のようにじっと“ツカサ”を凝視していた。
「それはともかく。神崎ツカサさん、あなたはアズマ君を連れ戻しに来たのかしら?」
アンジュが詩織達とツカサの間に回り込んだ。ふと見ればツカサは思っていたよりも離れた場所にいて、詩織は少し驚いた。
「だとしたらどうするつもりかな、アンジュさん」
「邪魔をさせてもらうわ。彼の力があなたの手にあるのは危険と判断しました」
「興味を持ってくれたということだね。光栄だよ」
「ええ。あなた方が噂の犯罪グループだとするなら。とても興味があるわ」
挑発的なアンジュの言に、ツカサは気障っぽく肩をすくめた。
と同時に、再び存在感が膨張する。硬直する詩織の横でアズマが肩を震わせた。
「ただの犯罪組織と思われるのは心外だ。解放を望む者、狩られ得ぬ魔女――それが我々“ヘクセ”だ」
認めた。
詩織がどきりとするより早く、アンジュがきつく言い返す。
「その解放とやらのために、一体何をしでかしているというのかしら」
「手段が手荒と罵られるなら甘んじて受けよう。しかし、仮にもMの系譜が、解放『とやら』か。本気かい。君達は現状に満足しているとでも?」
「おかしいかしら?」
「……いや。そうだね、人前では言いにくいこともあると思っているよ」
初めてツカサが詩織を一瞥した。詩織は、反射的に目をそらしてしまった。
ツカサの失笑が聞こえた。
「僕も、君達のことをもっと知りたいと思っているけどね。特にそちらの――」
途端にアンジュがぱっと腕を伸ばし、詩織達をかばうようにした。その向こうからわざとらしいため息が聞こえた。
「いいさ。今日のところは失礼するよ。また、近いうちにお会いしよう」
「あら。もう少し粘られるかと思っていたわ」
「今日は最初から挨拶程度のつもりだったよ。君達も、どうせ僕達のことを公表できないだろう。Mが矢面に立つことなんて、どうしたってできないんだ」
「……」
「では僕は行くよ、トール」
ツカサのおだやかな声がまっすぐに飛んできた。
――本当に兄弟なら、なぜ違う名を呼びかけるのか。詩織はひどく気になったが、到底聞ける雰囲気ではない。
「信じているよ。お前はきっと、自分の意志で、僕の元へ戻ってきてくれると。……ああ、ほら。ごらん」
ツカサはふと、公園の外を指さした。ちょうど入り口の辺りを、散歩中の茶色い毛色の犬が通りすぎた。
「犬がいるよ。かわいいね……」
ぐ、と奇妙なうめき声がして、詩織がふり返ると、アズマが片手で顔を覆っていた。
すぐに詩織は異常に気付く。呼吸音が聞こえてこない。
「アズマさんっ……」
「もういいんでしょ! 早く、行って!」
唐突にクリスが叫んだ。ツカサは「はいはい」と目を閉じた。
次の瞬間――その姿が消えた。
「……え?」
「あんの男っ!!」
「それでどうだったの、何かわかった?」
腹立たしげに地面を蹴ったクリスとアンジュが向かい合う。クリスは金の眼を上げて吐き捨てた。
「精神感応系の中でも、自分からも影響を与えられる厄介なタイプだ。ヤバいね。能力値はあたしより上かもしれない」
「まさか!」
「冗談じゃない。このあたしが、自分と姉さんを『読ませない』だけで精いっぱいだったなんて!」
アンジュが絶句し、クリスはがしがしと頭をかいた。
それを視界の隅に置き、詩織は大急ぎで自分のリュックを開いた。
「腹立つ! 自分に都合のいいとこだけ、わざと『読ませ』てきたし!」
「そこまで、なの」
「詳しくは後でね。もうしばらく“出”てることにする。とにかく帰ろう……なんか疲れちゃった」
「……あんた達、平気……か」
不意に、アズマがつぶやいた。今にも死にそうな声だ。詩織は1本だけ持ってきていたペットボトルを差しだしたが、アズマの目には入っていないようだった。
クリスが腰に手を当て、胸を張った。
「平気。シャットアウトしてやったもん」
「あんたは」
「……え」
「何も……されてないか」
指の間から視線を向けられ、詩織はこくこくとうなずいた。
長く息を吐いたアズマが、ゆっくりと膝をつき、うずくまるように背を丸める。詩織はあわてて顔をのぞき込もうとしたが、クリスに止められた。
「帰る方法、考えよ。今日は貴島さん呼べる?」
「え、と。今日はお休みって……」
「あちゃ」
「タクシーを呼ぶしかないのかしらね」
「あー。詩織ちゃん名義でなら呼べるのか」
黒井姉妹が同時に詩織を見た。
「詩織ちゃん。お願いできる?」
「わたし、ですか? 呼んだことないです、けど」
と、アンジュが苦笑した。
「タクシー予約にも国民コードが必要なのよ。……私達は持っていないから。たぶん、アズマ君も」
「え? ……え!?」
「言っちゃうとね、あたし達“M”は、生活面一切を保証してもらう代わりに国に身分を預けてるの。くだらないオトナの事情ってやつでさー」
横からクリスが皮肉っぽく口をはさんだ。
詩織は信じられない思いで3人を見比べた。国民コードは出生届と引き替えに渡されて、公的機関やら諸手続やらで使用する。おそらく一生涯お世話になるものだ。それがない生活など想像できない。
「ふふ。だからね、さっきのあいつの言いたいこと、わからないわけじゃないんだなあ……困ったことに」
何がおかしいのか、クリスがくっくっとのどを鳴らした。
「“M”が居られる場所は限られてる。それは掛け値なしに事実だからね」
冷気がゆらゆらと立ちのぼる。
それは、冬の冷たさだけではなく――




