表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨の収蔵庫(The Rain Archive)  作者: テレン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/7

知らない記憶が動き出す

日曜日の朝。

目を覚ますと、部屋の空気が静かに変わっていた。

窓を打つ雨は細く、音というよりは、空気の粒が擦れるような気配。

昨日までの重たい雨と違って、どこか“整っている”。

まるで、何かが終わって、次が始まる音。


机の上には、封筒たちが並んでいた。

夜のあいだに触れた形跡がある。

角が少し濡れていて、並び順が変わっていた。

誰かが置き直したような――けれど、ここには僕しかいない。


ポケットを探ると、一枚のメモが入っていた。

昨夜まで無かったもの。

文字は柔らかく、インクが雨に滲んでいる。


12番のゴンドラ。夜、20時12分。

あの日の続きが、そこにある。


読んだ瞬間、胸の内側が小さく跳ねた。

“あの日”がいつなのかは思い出せない。

けれど、知らないはずの懐かしさが、雨の音に溶けて流れていく。



昼過ぎ、観覧車のある遊園地へ向かった。

休日のはずなのに、園内は人がまばらだった。

灰色の空と濡れたアスファルトが、遠い記憶の風景みたいに感じられる。


売り場の窓口でチケットを買うと、受付の女性が微笑んだ。

「12番ゴンドラ、人気ですよ。今日はまだ誰も乗ってません。」

彼女の言葉に、理由のない胸騒ぎを覚えた。


ゴンドラの扉が閉まり、足元の金属がきしむ。

ゆっくりと地面が離れていく。

雨に煙る街が、丸いレンズ越しに滲む。

傘をさした人々が小さな点になり、観覧車の軸が鳴く音だけが耳に残る。


――この音、知っている。


思わずポケットの中のカセットを取り出した。

再生ボタンを押す。


古い磁気のノイズ。

次いで、雨と笑い声。

そのあとに、少し震えた声が重なる。


陸、これで最後。もしこれを聴いているなら、

たぶん私は、もう思い出せないところにいる。


名前を呼ばれた瞬間、呼吸が止まった。

それが自分の名前であることよりも、

呼ばれ方の“柔らかさ”に心が反応した。

誰かが自分の存在を知っていたという実感。

それが胸の奥で熱を持った。


思い出すのが怖いんじゃない。

思い出したら、またあなたを探してしまうから。


ノイズに混じって、彼女の笑い声が小さく滲んだ。

涙のにおいを含んだ笑い声。

ゴンドラの天井に水滴が当たる音と混ざって、世界が一瞬だけ静まった。



降りたあとの空気は、ひどく冷たかった。

観覧車の支柱に手を触れると、冷たい金属の感触が指に残る。

視線を下げると、足元に灰色の猫がいた。

昨日、公園で見かけた猫だ。

猫は小さく鳴き、こちらを見上げると、どこか懐かしい場所へ歩き出した。

ついていくと、商店街の角に出た。


アーケードの奥から、澪の声が聞こえた気がした。

反射的に振り向く。

そこには誰もいない。

けれど、街のあちこちに“彼女の痕跡”が散らばっていた。


観覧車のポスター。

チラシの角に書かれた「M」のサイン。

カフェの窓に貼られた「雨の日割引」のシール。

どれも、昨日まで気にも留めなかったもの。

今はすべてが“誰かの手紙”のように思える。



夕方。

陸は再び坂上郵便館の前に立っていた。

ドア越しに漏れる灯りは、雨の粒でやわらかく滲んでいる。

中に入ると、澪がカウンターにいた。

白いカーディガンの袖を少しめくり、帳簿にペンを走らせている。

顔を上げると、驚いたように笑った。


「やっぱり来た。あなた、雨の日に来ると思ってました。」


「観覧車に行きました。……“12番”の。」


澪は手を止めた。

その瞬間、室内の空気がわずかに変わる。

雨の音が遠のいて、記憶の扉が開く気配がした。


「MNEMOの記録では、あなたが触れた瞬間に“反応”がありました。

 封じられたデータが、少し動いたんです。」


「データ?」


「記憶の断片です。

 あのプロジェクトは、ただの保存装置じゃありません。

 “忘れること”を実現するための実験でもありました。

 でも、一部の人は“双方向型”を選んだんです。」


「双方向……?」


「送り主と受取人の記憶が、互いに干渉するタイプ。

 一方が思い出せば、もう一方も引き戻される。

 あなたが動かしているのは、“あなた自身の記憶”でもある。」


陸は息を呑んだ。

胸の奥で何かがざわめいた。

“自分の記憶”――。


「でも、それは危険です」

澪は静かに言った。

「思い出すほど、心の負荷も増えていく。

 忘れたくて預けたものを、無理に取り戻せば、壊れることもある。」


陸は彼女を見つめた。

その表情に、どこか懐かしい影を見つけた。

笑うときの目の端の皺。

言葉を選ぶときの間。

――どれも、どこかで見たことがある。


「……澪さん、僕たち、前に会ってますか?」


澪は驚いたように瞬きをして、すぐに目を伏せた。

「どうして、そう思うんですか?」


「わかりません。

 でも、あなたの声を聞くと、昔の景色が浮かぶんです。

 金木犀の香りと、雨と……あなたの名前。」


沈黙。

雨の音が遠くで鳴っている。

澪はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。

その笑みは、懐かしさと悲しみが混じったような、

どこにも戻れない場所からの微笑みだった。


「……もしも、そうだったとしても、思い出さないほうがいい時もあります。

 記憶は、幸せのために残されるものばかりじゃないから。」


その声には、優しさよりも“願い”が滲んでいた。

彼女が誰かを守るために、そう言っていると分かる声。



外に出ると、雨が本格的に降り始めていた。

傘を開き、街を歩く。

舗道に映る光が揺れる。

遠くで観覧車の明かりがぼんやりと回っている。


ポケットの中のカセットが、再び震えた。

音はしないのに、脈のように温かい。

まるで、中で“記憶”が目を覚まそうとしているみたいだった。


陸は立ち止まり、空を仰いだ。

雨粒が頬に当たるたび、

知らない景色がフラッシュのように脳裏をかすめた。


猫の鳴き声。

傘越しの笑顔。

観覧車の窓に映る自分。

そして――「また来い」と笑う女の声。


どれも、昨日まで知らなかったはずの記憶。

それなのに、確かに“自分のもの”として胸の奥に収まっていく。


知らない記憶が、動き出していた。

それはもう、止められない流れのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ