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雨の収蔵庫(The Rain Archive)  作者: テレン


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1/7

投函された記憶

雨が降っていた。

秋の雨は、音よりも匂いが先に届く。

金木犀の甘さに、濡れたアスファルトの鉄の香りが混ざって、息を吸うたびに記憶の底を撫でてくる。

その朝の僕――陸は、透明な傘の先端にぶら下がっていた“青い封筒”を拾った。


市役所へ向かう途中の坂道。

信号の角に立って傘をすぼめたとき、傘の骨に何かが当たって、かすかな重みがあった。

見れば、糸のような金色の紐で結ばれた封筒が一枚。雨を吸って、ほんのりと重くなっている。

糸の結び方は、奇妙に整っていた。ひと結びのあとに、もう一回だけ回している。几帳面で、けれど少し遊び心のある手。


封筒には宛名があった。


Rへ

また来い


筆跡は丸みを帯びた癖字。

見覚えはないのに、胸の奥がひどくざわめいた。

僕の名前の頭文字はR。

それだけの偶然のはずなのに、見知らぬ誰かが、僕のために残したような気がした。



僕の勤務先は、市役所の地下にある「遺失物対策室」。

名前ほど大げさな部署じゃない。落とし物の管理、掲示、返却。

駅や公園から集まってくる忘れ物たちは、毎日十数件。

財布、傘、学生証、スマホ、指輪。

どれも、誰かの一瞬の不注意と、誰かの大切をはさんで眠っている。


僕はそれらを棚に分類しながら、時々、持ち主を想像する。

“この鍵の主は、今、部屋に入れずにいるだろうか”

“この指輪の持ち主は、探すのをやめただろうか”

そんなことを考えていると、時間が少しだけ静かに流れる気がする。


「また変なもん拾ってきたの?」

声をかけてきたのは同僚の円谷さん。三十代半ば、いつもお菓子を配って歩いている人だ。


「傘にぶら下がってて」

僕は封筒を見せた。「中は濡れてなかったんです」


「“Rへ”……って、あなたのことじゃない? もしかして恋文とか?」


「いや、そんなわけ――」

言いかけてやめた。

「また来い」という言葉が、どうしても引っかかる。

「来い」とは、どこへ? 誰が? 僕に?


円谷さんは笑って、「とりあえず乾かしときなさい」と言って、自分の席に戻っていった。

僕は封筒をデスクランプの下に置いて、しばらく見つめていた。

水滴が蒸発するごとに、青が少しずつ淡くなっていく。まるで、記憶の層が剥がれていくみたいに。



昼休み。

雨脚は弱まっていた。職員用通路を抜けて外に出ると、庁舎の裏手の植え込みから、金木犀の香りが一気に押し寄せてきた。

街全体がその香りに包まれているようだった。

僕はポケットの中の封筒を指でなぞる。

その香りと封筒の青が、なぜか繋がる気がして仕方ない。


記憶のどこかに、この青があった気がする。

たとえば、誰かの手帳の色。

たとえば、古い郵便ポストに投函した手紙の封筒の色。

でも、思い出そうとするたびに、輪郭が霞む。

記憶の霧が濃くなって、核心だけが手前に残る。

“僕はこの青を知っている”――その確信だけ。


昼食を取る気になれず、僕は市役所のすぐ隣にある古い郵便局跡のカフェに入った。

今は改装されていて、コーヒーの香りが漂う。

奥の席に座ると、壁際に古びたポストが飾られていた。

その横のプレートには、こう書かれていた。


MNEMO-POST

失われたものは、ここに眠る。


英語の部分は擦れて読みにくい。

店員に聞くと、「昔のアート企画ですよ」と答えた。

「“MNEMO”って、記憶の女神から取った名前らしいです。

 “失われた記憶をポストに投函する”っていうコンセプトだったとか」


“記憶を投函する”

それはつまり、誰かが思い出を封筒に入れて、どこかに預けるということだろうか。


僕はカップを手に取りながら、青い封筒を見つめた。

そこにはまだ雨の跡が残っている。

乾いても、跡は消えない。

まるで、時間そのものがそこに閉じ込められているみたいに。



夜になって、雨は再び強くなった。

僕は残業を終えて、封筒を封入リストに登録しようとした。

だが、登録システムの入力欄で手が止まった。

「拾得場所」を入力する段になって、どうしても思い出せないのだ。

坂道だった。信号もあった。だが、その坂の名前が出てこない。

いつも通るはずの通勤路なのに、風景の一部が抜け落ちている。


代わりに、耳の奥に微かな音が浮かんだ。

雨の音の向こうから、かすれた女性の声。


――また来い。


空耳かと思った。

でも、その声には明確な温度があった。

僕の名前を呼ぶような、遠い音だった。



その夜、夢を見た。

見知らぬ街角。

雨の匂い。

透明な傘。

誰かが笑っている。

その笑い声のすぐ後ろで、猫が鳴いた。


目が覚めると、枕元にあの封筒があった。

机に置いていたはずなのに。

薄明の光の中で、金色の糸が淡く光っていた。


僕はそのとき、ようやく気づいた。

――この封筒は、ただの落とし物じゃない。

“誰かの記憶”そのものなんだ。



翌朝。

市役所へ出勤すると、机の上に見慣れない紙が置かれていた。

「拾得物登録:MNEMO-POST連携確認」

差出人は、「市文化推進課/記憶資料管理係」。


そんな部署、聞いたことがない。

添えられたメモには、手書きでこうあった。


本件は通常処理を行わず、下記の場所へ持参ください。

坂上郵便館・旧3番窓口

※担当:みお


――澪。

読んだ瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

知らない名前なのに、懐かしい。

まるで遠い昔、夢の中で何度も呼んだ名前のように。


外は、また雨が降り始めていた。


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