第10話 首輪
必要だとは分かっているが、眠るのが嫌いだ。脳裏と瞼の裏に、歪んだ忌々しい過去の幻影が、何度も何度も顔を出す。それがたまらなくしんどい。
ゴミの山と、偽物だらけのボロボロなブランドバッグ、雑に散らばったコスメ、放り捨てられて少しばかり汁が飛び散っているカップラーメン、酒瓶。ゴミ捨て場と見間違えそうな部屋だった。蠅が飛び交い、ゴキブリが薄汚いフローリングから現れてはまた消える。そこに横たわっている自分。ほつれだらけのトレーナーの襟を掴まれて引き摺り上げられ、腹を蹴られた。ヤニとアルコールの混じった悪臭を撒き散らし、黄色く薄汚い歯を見せながら女が何か叫んでいる。自分を見降ろすその顔は慈悲の心とは程遠い、憎悪の宿る鬼畜の形相だった。そのまま顔を踏まれ、時にはタバコを体の、服で隠せる場所に押し付けられる。泣かなかった。前に泣いた時、酒瓶で脇腹や腕を殴られた事を覚えているからだ。
時々、吊り目の男がやって来て、二人で笑いながら自分を裸にして悪戯をした。違法改造したエアガンの的にされ、カッターで体に文字を刻まれ、唾や尿入りの牛乳を、抑え込まれた状態で鼻や口に流し込まれる。吐き出せば罰ゲームとして、プロレスごっことは名ばかりのリンチが待っている。浴槽に沈められ、意識を失った後に殴って叩き起こされた事もあった。慣れているのだろうか。二人とも必ず、病院の世話にならないよう手加減をしてくる。テーブルに白い粉やライター、スプーンなどが散らばっていた。ああ、あれのせいか。それ以外もあるが、思い出せない。いや、思い出したくない。色んな人間が、あの女の友達らしい男や女が出入りし、玩具にされた。吐き気と、穴という穴に感じる苦痛と、男女問わない人間の抱える悪意。それを一身に受けた。
ある日、女が消えた。何日も戻ってこない。食べ物は無い。飲み物も無い。泣き叫び、壁を叩き、やがて力が尽きると、腐っているのであろうマヨネーズや床に落ちている菓子の食べかすを口に入れて飢えを凌いだ。少しずつ暗くなる視界だったが、次に目が覚めた時にはくすんだ色の天井が目立つ病室で寝かせられていた。看護師や皺だらけの医師が、自分の頭を撫でてくれたのが印象に残っている。思わずゾッとし、手を振り払ったのは申し訳なかった。でも仕方がない。怖かったんだから。
児童養護施設では基本一人だった。誰も構わないため、逆に気が楽であり、する事も無いので本を読んだり勉強に打ち込めた。物心がついた頃には金も無い上に大学へ行くつもりも無かったため、たまたま見かけた軍への入隊希望の募集にそのまま応募した。恐らく、人生の中で比較的充実した時期だったと思う。体を動かし、武器を扱うだけで金が貰える。銃は勿論だが、特にナイフの扱いが上手いと上官が褒めてくれたのが嬉しかった。人に触れられるのは嫌だったが、このあたりから少しづつ克服しようと頑張っていた。
平穏がまた崩れた。しわがれた見覚えのある女が、わざとらしい涙声で「実の息子にレイプされた」と叫んでいる姿をネットで見た。警察に連行され、何かの間違いだ。児童養護施設に入ってからは一度も会ってない。第一証拠が無いと訴えたが聞き入れてすら貰えない。なぜか分からないが、検察は俺を狭く陰気臭い部屋で殴り倒し、灰皿や椅子で何度もぶってきた。「間違いありません」と言うまで続けると言いきられ、俺は耐える事を選んだ。この手の状況に慣れているからだ。だがやはり、他人というものに対する恐怖心と疑心暗鬼を呼び起こすのには十分だった。
ある日、俺の父を名乗る人間が面会に来た。吊り目の男を始めとした、あの女の連れ達とは全くの別人であり、泣きながら何度もガラス越しに謝っているのを、ぼんやりと眺めていた気がする。貯金を使って弁護士も呼んだ。母さんに逃げられて行方が分からなかった。言われるがままに慰謝料は払い続けていたが、こんな事ならもっと早く助けてやるべきだったと何度も机に頭を打ち続ける父を見て、なぜかこちらまで泣きたくなった。ついでにその時の話から、自分がネットで話題沸騰となっているらしく、実は日本人を偽っている外国人で、軍の評判を落とすために潜入したスパイというデマが囁かれている。おまけにあの女については、活動家や政治家御用達の非営利活動法人と一緒に実の息子による性被害と、それを放置した男尊女卑社会へ挑戦するとまで会見で叫んでいる。そんなゴシップの数々が蔓延っている事を知った。
弁護士には感謝している。裁判で最後の最後まで、自分を無実だと庇ってくれた。証拠が無い上に、被害者である女の主張する日時については被告人にアリバイがあり、物理的に不可能な犯行だと言い切ってくれた。検察はといえば、彼女の持ち物や自宅には被告人の遺伝子情報が付着している物品もあり、何らかの方法で家にいた可能性は十分にある。それに被害者…ましてや女性が嘘をつくとは思えないなどとほざき、後で聞かされた話だが、裁判員や判事…特に男どもは皆が自称被害者である女の肩を持とうとしていたらしい。
だが次第に事実が明るみになり、同時にリンチを行っていたという検察側の仕打ちがマスコミにすっぱ抜かれた。更にそこから、軍の品位を落とさないために、本気で自分を外国から送り込まれたスパイという設定にするつもりだったという告発を政府側から聞いた時には身震いさえした。それが重なって司法も、無罪を認めざるを得なくなった。だが女には何の批判も浴びせられなかったらしい。「彼女もまた、日本社会が産んだ哀れな被害者の一人であり、責めるのは可哀そうだ」とメディアどもが言っていたのを覚えている。
無罪判決が言い渡された後、父が自殺した。判決を受け入れられない活動家やフェミニスト、更にはその他の国民による誹謗中傷に耐えられなくなったのが原因だった。弁護士やその家族も、既に判決が言い渡されているにもかかわらず、異常性愛者の味方をしたとして家への放火未遂が起きるだけでなく、職場への殺害予告が届いたりと苦労したらしい。自分の頭の中に定められた”正義”が崩されそうになると、人は言い訳と共に、それを守るために残忍になる。肝心の女については謝る事も無く逃げ延び、活動家たちと仲良くフェミニストごっこに勤しみながら金を稼いでいると聞かされた時、生まれて初めて「メス豚」という単語が頭に浮かんだ。
軍への復帰も考えたが、あれだけの騒動を起こした人間を今更戻したくないと拒否をされた。世論はこの一連の状況について、掌を返したように弱者男性への風当たりやら何やら言い争っていたらしいが、最早どうでも良かった。日本という国への、僅かに持っていた温かい感情が死んだのは、丁度その時期である。同時に、あの会社からの誘いがあったのもそれと同じ頃であった。
――――薄暗く照明を設定した部屋で、簡易的なベッドの上でヒロシは横になっていた。ブランケットは使わない主義である。使うと熟睡しやすいため、どうしても使う気にならない。とくにこういった、すぐに目覚められるような心構えが欲しい時は特に。
唯一の出入り口であるドアが、自動で横に開いた。外の灯りに照らされてシルエットのような姿になっていたが、その長身とうっすら見える顔立ちから何となく分かる。恐らく、自分を連行したあのサイボーグだろう。
「お目覚めですか」
照明が白く輝き、セバスチャンの姿がはっきりとヒロシの視界に映る。袖を捲ったワイシャツからは義体の腕が出ており、それを後ろに回して凛々しくこちらを向いている。見下されているような気がした。
「ここに入れられてから何時間経った ?」
起き上がり、ベッドに腰を掛けたヒロシが尋ねた。
「現在は午前六時二十三分。ちょうど五時間です」
セバスチャンはそれだけ言うと、部屋の外へと出て行く。そして入り口の前に立ち止まり、方向を示すように通路の方へ手を向けながらヒロシを見た。
「ご案内します。こちらへ」
無機質なコンクリートによる圧迫感のある通路を抜け、配下らしい兵士が敬礼とと共にエレベーターを開く。腕をかざして生体認証を行い、「プライベートルームへ」と一声かけただけで動き出した。少しむず痒く、上から押し込まれる重圧を感じながら高速で上昇し続けるエレベーターの中を無言で過ごしていると、ようやく目的地に着いた。
殺風景なリビング。そこに昇ったばかりの日が差し込んできている。大理石の床を汚す事を申し訳なく思いながらブーツで踏み入り、不気味なほど清潔な部屋の中央にあるテーブルへ近づいた時、左手の窓の外で気配がした。庭が付いているそのバルコニーに大型のプールが備えられており、そこで水しぶきが小さく立ち続けている。水泳にありがちな動きだった。やがてその縁を掴んで、一人の女性が上がって来る。髪を絞りながら現れた彼女は、競泳用の水着のシルエットから分かる程度に引き締まった健康的な身体をしていた。
「あら、捨て犬さんがようやくお目覚め ?」
窓の隅に備えられた出入口から、タオルを羽織った彼女が話しかけてきた。エレーナ・フカワ。だが、その言動の雰囲気は以前にホログラムで見かけた時とは大き異なっている。快活、そして挑発的なユーモア。
「シャワーを浴びるから、少し寛いでて。要望があればセバスチャンにお願い」
彼女はこちらを一度だけ見降ろしながら歩き去り、別の部屋へと続くドアに消えていく。リビングに残されたヒロシは、キッチンで何やら仕込んでいるセバスチャンを尻目に、辺りをうろついて様子を確認した。その間も、背後を取られない様に警戒を怠らず、壁に身体を近づけて、なるべく窓には近づかない様にしていた。見晴らしが良い上に、付近に狙撃に使えそうな建物が無いビルの高所。心配はないかもしれないが、万が一の事態だけは想定しておかなければいけない。
「もし可能であれば、席について頂けると助かります。気が散りますので」
オムレツを作りながらセバスチャンが言った。
「ナノロボットとアテナの機能を使えばいい。体内の血液中におけるホルモンの分泌量と成分濃度を調整すれば、集中力も高められるだろ。周りの事も気にならない筈だ。それとも、俺に動かれると困るのか ?」
「…部屋のインテリアの中には高価な物もあります。それを壊されて、大目玉を食らう事になるのは私です」
「何を気にする事がある ? 富川工業のトップにして令嬢が、花瓶やライトを割られたぐらいでメンヘラみたくヒステリーを起こすと ? それとも思っている以上に節約家なのか ?」
「金額の問題ではありません。その程度の事すら防げないという危機管理意識の欠如は、報酬を貰って仕事をしている私にとってあるまじき失態です。そして…一つ勘違いされているようですが、あなたはお客様であると同時に余所者です。もてなしこそすれど、この場を管理している我々の要望が呑めないというのであれば、こちらもあなた様のデリカシーに欠けた傍若無人で下劣な品性に相応しい対応をしなければならない」
セバスチャンが皿を持ってテーブルに近づきながら、ヒロシに警告をする。ほどよく焼けたオムレツとカットされた果物。そして全粒粉のトースト。それらを丁寧に置く彼からは、その身体も相まって明瞭な威圧感があった。ここはアウェーであり、敵対すると面倒でしかない。ヒロシは今一度周辺を一望し、それから壁側の席に着いた。
バスローブを羽織ったエレーナが間もなく姿を見せ、テーブルに備わっているホログラムを起動してネットニュースを流し始める。カップに注がれたコーヒーを手元に近づけ、そしてヒロシの方を見た。
「今日は久々の休みなの。三ヵ月ぶりに、朝からのんびりさせてもらっている。でもまさか、来客のもてなしとセットになるなんて」
エレーナが淹れたてのコーヒーが入ったガラス容器をセバスチャンから拝借し、ヒロシのカップに注ごうとする。だが、ヒロシはカップを手で塞いでそれを拒否した。それもそうかと、彼女は小さく頷いてセバスチャンに容器を返す。それを見てから、彼もカップから手をどかした。
「…オッケー、朝食にしましょう」
「その前にアンタの皿を貸してくれ」
ヒロシからの突然の要望だったが、彼女は嫌がる事なくそれに応じる。皿の中にあるオムレツを、ヒロシ側の方へと回して向けさせてから押して近づけてやった。すると、彼はフォークを手に取って互いのオムレツを半分に切り分け、彼女の分を自分へ、逆に自分の皿にあったオムレツの半分を移し替え始める。果物も同じく半分ずつ盛り直し、トーストも半分ずつ千切ってそれを互いの皿に乗せてやる。
「今移した、俺の皿にあった分から食べろ。そしてこの場から動かず、俺の目の届く範囲にいてくれ。一時間経って何も起きなければ俺も手を付ける」
人間不信が行き過ぎている。意図は分かるが、初対面の人間相手にこれ見よがしに行う仕打ちではない。だがそれは、却って彼という人物が信頼に足る事を示してくれていた。それでいい。エレーナは少し微笑み、お望み通りに手を付け始める。同時にその姿は、ヒロシの中にあった疑念をテーブルの片隅程度に拭ってくれた。少なくとも、毒を盛るなどしてこの場で自分を陥れる意図はない。同時に、わざわざ自分にこの様な姿を見せないといけない程度に、彼女達は事情を抱えている。話を聞く価値はあるかもしれない。
「自己紹介は恐らくいらないわよね」
「エレーナ・フカワ。富川工業グループ代表取締役兼会長。ブラジル人の母親と日本人の父を持ち、祖父であるトウキチロウ・フカワの強い推薦により今の地位に就いた。その血筋ゆえに、排外主義が特に苛烈だった当時の日本では幼い頃から内外問わず強烈なバッシングに遭い、就任当初はピークに達する。だがグループ内で起きたブレーキと車載システムに関する不正問題による国会への召集を皮切りに、必要とあれば自らが矢面に立とうとするその覚悟の決まり方がネットで人気を博し、今ではエリュシオン企業連合の三大派閥の一角を司っている」
「及第点かしら。あなたの事も一通り把握している」
「どうやって ?」
「不正アクセスを利用して口座情報やネットサービスのアドレスを片っ端から抑えた…誤解しないで。この島におけるあなたの個人情報が消去されているのはフェンファンの仕業よ。私達は、彼等が余計な事をする前に動いただけ」
ヒロシは舌打ちした。どうりで対応が早いわけである。
「……それで俺を捕まえた。殺さず、生け捕りにした。なぜだ ?」
「あなたに起きている異変については、断片的ではあるけど調べてある。殺しても死なない人間がいるなんていうのは、今の人類が到達しようとしつつあるゴールだけど、あなたはそのタイムリミットを更に早めるだけじゃない。我々が作り出した肉体の移植技術。そのコストも時間も大幅に短縮してしまっている。まさに特異点。そんな逸材がいると知れ渡れば、このエリュシオンどころか世界のありとあらゆる国家を巻き込む事になる」
「この間のブリーフィング通りだな。不死身こそが、権力者たちの最終目標だったか ?」
「ただ不死身になるんじゃない。その利益と力を一部の人間で独占し、エリュシオンによる企業統治と支配を未来永劫絶対的な物にする。自身の身体的、精神的な能力を維持しながら、永遠に覇者として居座り続ける事が出来る…いや、あなたを見れば、恐らくそれ以上の領域に至る事だって可能かもしれない」
既にエレーナは食事を平らげていた。早食いの気があるのか、それとも食事を悠長にしている場合ではないと判断しているのか。なるべく動揺は見せない方が良い。
「それで、全員を出し抜いて俺を捕まえたのか。自分達が利益を独占するために」
「そこは少し違うわね。利益が欲しいのは山々だけど、私は…構築が進行し続けている社会体制に思う所がある。あなたをこのままフェンファンに引き渡せば、それも叶わない。それにあなたも、今回の様な事があってはフェンファン側に付く気もしないでしょう ? ノコノコとあいさつに行けば、何をされるか分からないわよ」
「……フェンファンを信頼していない点については同意しよう。だが、そのフェンファンに媚びへつらっている連中を信頼しろと言われても無理だな」
「仕事を与える。報酬もフェンファンと同等…もしくはあなたの言い値で出す。あなたが身を隠せる住居も、身分も、必要な物資についても融通する。私の下で働きなさい。ちょうど、 番犬をもう一匹欲しい所だった」
報酬があるという時点で、ヒロシの中では既に今後の動向が確定していた。だが、目先の餌にかまけて、その背後ある影を捉えない人間は早死にする。そうまでして自分を囲い込みたい目的が知りたかった。完璧な答えである必要は無い。こちらに対し、騙そうとする意志が無い。それを知る必要がある。これも能力の一つだろうか。体の中から音が聞こえる。空調による空気の震えも、セバスチャンとかいう男の義体の駆動音も、エレーナの息遣いも、全てがスピーカーでボリュームを上げられたようにヒロシの耳と脳髄に響き渡る。
「お前の目的は何だ ? 俺を使って何をしたい ?」
そのヒロシの問いに、彼女は呼吸を一度だけ入れて口を開いた。事前に用意していた回答をするときにありがちな、一息入れる事すらしない緊張を感じる素振りでも無ければ、返事に困って頭の中の選択肢を決めあぐねているような躊躇もない。落ち着いた、それでいて確かに確固とした自信がある。
「いけ好かない奴らが作った、ハリボテだらけの王国をぶっ壊したい」
彼女は汗一つかいていない、耳に伝わる心拍数も至って穏やかであり、表情にも迷いと機嫌を窺うような忖度を見受けられない。嘘はついていない。
「……最初の仕事はいつだ ?」
コーヒーカップを静かに前に出してから、ヒロシは尋ねた。エレーナはセバスチャンへ目配せし、そのカップにコーヒーを注がせる。契約の成立。しかし、ヒロシが飲み物と食事に手を付けたのは、そこから実に一時間三十分後であった。
作者のコメント:今年のバレンタインデーの戦果は、いつも通り職場でベテランの先輩がばら撒いてくれる小粒チョコレート一つでした…
※次は恐らく、三月中旬辺りになるかと思います。




