真夜中のヘクセンハウス
登場する作家の体験・苦悩はフィクションです。
…が、一部リアルが混じっております。
『楓山先生の新作企画を進めたい気持ちは編集部一同もちろんあるのですが、只今すぐには動き出すことができない状況です。今後もお仕事をご一緒できる機会を窺って参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます』
底冷えの京都のクリスマスイヴの夜。
ブルーライトに焼かれた眼球をズキズキと痛ませながら、デスクトップに表示された文章を泣きそうな目で睨む。
お伺いを立てることでようやく返って来た担当編集からのメールは、丁寧だが残極さで満ちていた。
(機会を窺うって……それって、遠回しにもう僕の新作は受け付けへんってことちゃうん?)
支倉の頭の中で、大手出版社の担当編集・五十嵐のメールがぐにゃりと歪む。
もしかしたら五十嵐は本当のことを言っていて、心から申し訳ないと思っているのかもしれない。
だが、彼の言葉を作家と縁を切るための常套句ではないかと疑ってしまうくらいには、支倉の心はすっかりすさんでしまっていた。
支倉楓は小学生の頃から読書が大好きで、いつか書く側になりたいと願い続けてきた二十八歳の会社員だ。
昨年、趣味で書いていた異世界ファンタジー小説『勇者を狩る聖女』がWEB小説投稿サイトのコンテストで受賞。書籍化が決まり、必死に改稿を重ねて、今年の秋に晴れて「楓山もみじ」としてデビューし、一歩踏み出したばかりの新人作家だ。
ところがだ。
華々しいと思い込んでいたデビューは、苦い思い出となってしまった。
コンテストの優秀賞と銘打って刊行された支倉の書籍は売り上げが芳しくなく、発売から一か月後には一巻打ち切りが決定したのである。
出版業界においては、小説の一巻打ち切りは珍しいことではない。
毎日たくさんの書籍が発売され、以前に出たものはどんどん埋もれていってしまう。奥底に埋もれ、日の目を見ることがなくなった作品に出版社がかけてくれるお金などあるわけがなく、謎が残っていようが、主人公カップルが結ばれる手前であろうが関係ない。商業小説は強制的に終わりになる。
もともと本好きの支倉だって、そのくらいのことは分かっていた。
しかし、書籍化作業中に担当編集の五十嵐から、「できれば続刊しやすいように謎を残しておきましょう!」と言われ、支倉は受賞作だからきっと出版社が目を掛けて売ってくれるに違いないと都合よく思い込んでしまった。
実際、蓋を開けてみると、編集部の事前宣伝はSNS上のみの小ざっぱりしたもの(しかも発売日寸前)だったし、当たり前に作ってもらえると思っていた小説投稿サイトのバナーや特設サイトは、影も形も見当たらなかった。
それでも、支倉は書店に書籍が並べば他作と勝負ができると信じ切っていたために、発売日に自著が一冊もない棚を見た時に受けたダメージは、想像以上に大きかった。
書店によっては取り扱わないレーベルがあることはもちろん知っていたし、今回もそうなのかもしれないと思って、自分を納得させようとした。
だが、同レーベルの人気作家の書籍は新刊コーナーで大量に平積みされていたので、支倉は無名の新人作家である自分の期待値の低さを思い知らされてしまったのだ。
デビューが決まってから慌てて作ったSNSアカウントで足掻いてみたものの、感覚としては糠に釘状態。
エゴサーチをしてみても、支倉の書籍についての購入報告や感想は片手指で数えられるほどしかなかったし、ネットショッピングサイトのランキングは常に圏外だった。
(僕のん、売れてへん……?)
支倉がそのことを実感したのは、自著の評価よりもむしろ、同日に発売した同レーベル書籍が大人気らしいと気が付いた時だった。
例の書店で大量に平積みされていた書籍である。支倉が優秀賞をもらったコンテストで、佳作だった作品だった。
その書籍はひと月経った辺りで重版と続刊、そしてコミカライズが決定した。書店でも注目作コーナーに置かれ、ネットショッピングサイトのレビューは気が付けばゆうに二百件を超えていた。
一方支倉はというと、刊行からひと月経っても、「続刊できそうなら、すぐにご連絡しますね!」と言っていた五十嵐からはメールの一通も来なかった。
佳作の作品が続刊を発表しているということは、自著はその資格を得ることができなかったのだろうと薄っすらと感じながらも、実際に結果を聞くまでは……と、支倉はわずかな希望を持って五十嵐に連絡を入れた。「『勇者を狩る聖女』は、続刊はできませんでしょうか?」と。
『この売上ラインでは難しいですね……。後に電子の売上も計上いたしますので、売り伸ばしに尽力させていただきますね!』
五十嵐の返事はあっさりとしたものだった。
電子書籍が売れるような導線なんて一本もないやんかと、支倉は唇を噛み締めながら、そのメールを目が痛くなるほど何度も読み返した。
この時点で、支倉のデビュー作『勇者を狩る聖女』は事実上の一巻打ち切り。五十嵐に勧められて張った伏線は、書籍で回収されることはなくなってしまったのだった。
こんなことなら、WEB版通りに引き伸ばさずにすっきりと事件を解決させておけばよかったと、支倉は何度も後悔した。
数少ないSNSで呟かれていた感想に「未解決のネタがあるけど、二巻はいつ出るのかな」と書かれていたことが心苦しくてたまらず、自分の実力不足を棚に上げることはよくないとは思いつつも、正直、五十嵐を恨まずにはいられなかった。
それでも、支倉には五十嵐しかいなかった。
他所の編集部との繋がりを持たない無名の新人である支倉は、五十嵐に縋りつくしか作家として生き残る方法を見出すことができず、めげずに新作の企画書を提出した。
これは商業作家たちがしている仕事の取り方であるとSNSで知って、すぐに実行に移したことだった。
自分はまだ終わっていない。まだまだ書ける。可能性を持った作家なのだということを証明したかった。
企画書を見てもらって、担当編集の意見を織り交ぜながら推敲していけば、きっと自分が描きたいものと編集部が売りたいものが絶妙にマッチングした新作を作ることができるはずだ――そう思っていたのが二か月前。
かろうじて受領連絡をくれた五十嵐は、その後、待てど暮らせど返事をくれることはなく、気が付けば年の瀬も近づくクリスマスイヴになっていた。
そして支倉はつい今しがた、ようやく届いた返信を見て、自分の見通しの甘さを突きつけられたのだった。
こうしている間にも、ライバルたちはどんどん新作を執筆し、書籍化やコミカライズ決定、受賞報告に新刊発売のお知らせがSNSを賑わせ、支倉はそれをスマートフォンの画面越しに眺めているだけ。そしてさらに気落ちするという負のループに陥っていた。
(あかん……。僕、消えてまう……)
五十嵐からの返信を待っている間にも、次の公募に応募するための新作を書こうとはした。
だが、どこからか新作打診のメールは来ていないだろうか? あぁ、来てないと、一日に何度もメールフォルダを覗いてしまったり、ネットでエゴサーチをしてしまったりと、まったく執筆に集中することができなかった。
しかも、偶然見つけてしまったレビューは星1。「ストレス展開が多くて読むのがしんどい」という、辛口なものだった。
せっかく掴んだ作家になるという夢が、儚く終わってしまうかもしれない。
楓山もみじは、デビュー作だけで消えてしまうのかもしれない。
そんな暗い不安に駆られるたびに、支倉の視界はどんよりと陰り、胸の奥はヒリヒリとした焦りに吞まれていった。
打ち切り宣告後、もう何度目かの心がずぅぅんと重くなる現象を味わいながらも、原稿は真っ白のまま。
不安な現状を相談できる家族や友人、ましてや恋人などいない支倉は、暗澹たる気持ちを一人で抱え込みながら、ただパソコンの前に座っていた。
(よう知らん新人作家の本よりも、売れとる人気作家に人が集まるんは当然やん……。出版社も書店も読者も、ホンマそれ。僕もそうしてきたし……。なら、僕が必死こいて書く意味ってあんのかな……)
心も寒いし、体も寒い。
おんぼろのエアコンから吹くぬるい風のせいで、体はすっかり冷えていたし、腰も痛い。支倉は重い腰を上げて、熱めのシャワーでも浴びようかと浴室に向かった。
執筆用の椅子は、今ではすっかりクッション部分がぺたんこだ。デビュー作が跳ねたら新しいものを買おうと思っていたのだが、それも叶わないと思うと、支倉の虚しさはいっそう増した。
気が付くと、夜がすっかり更けていた。
支倉は大学生の頃から、京都の四条にある築四十年のおんぼろワンルームアパートで暮らしている。立地の良さを打ち消す程度にはあちこちにガタがきている物件なのだが、歩いて行ける範囲にコンビニや薬局があることが非常にありがたく、ここを離れられずにいた。
(シャワー浴びたらコンビニ行こ……。せめてケーキとか……いや、一人でなんのお祝いやねん……)
甘いものが好物である支倉は、クリスマスのコンビニスイーツの誘惑を洗い流してやろうと、シャワーの蛇口をひねろうとしたのだが――。
バキッと嫌な音がしたかと思うと、浴室に勢いよく水柱が上がった。
水道管が破裂したのだ。
「げぇぇぇッ‼ なんでやねん‼」
支倉の悲鳴によく似たツッコミが浴室に響く。
だが、なんでやねんと問うたところで、答えは水道管の劣化以外にあり得ない。
ノーリフォームの築四十年物件の現実を受け入れるほかなく、支倉は頭から冷たい水を被りながらも大慌てで大家に電話を入れたのだった。
◆◆◆
アパートの大家の森野は深夜にも関わらず、すぐに対応してくれた。
支倉は七十代の森野を叩き起こすことに若干気が引けたのだが、彼は「古い建物でごめんねぇ」と、申し訳なさそうに業者を手配してくれた。業者の手配は迅速で、水道管破裂から一時間後には溢れ出る水は止められた。
だが、浴室から漏れてしまった水は、支倉の居住空間まで蝕み。それどころか下の階の天井にまで浸水してしまった。幸い、下の階には誰も住んでおらず、床などの修繕費用は出してもらえるとのことだった。
けれど、修繕期間中は部屋を出なければいけないという宣告を受け、支倉の擦り減っていたメンタルは限界にまで叩きのめされることとなった。
(頼れる友達もいいひんし、ネカフェとかホテル……? うわ、なんぼかかんねん。オトンとオカンのとこは不便やし……)
のんびりとした暮らしに憧れた両親は、数年前に田舎に引っ越してしまった。職業柄、パソコンさえあればどこででも仕事ができる支倉だが、Wi-Fi環境に不安のある場所に行くことは躊躇われた。
ならばどうする……と顔面蒼白になって悩んでいた支倉を見兼ねた大家の森野は、ある提案をしてくれた。
「私の孫が、近くでお店を始めてね。古民家を改築したんだけど、二階に部屋が余っているんだよ。いずれ誰かに貸しだそうと思って準備していたから、ちょうどいい。支倉さん、しばらくそこに住むのはどうだい? もちろん、家賃はいらないし、申し訳ないからご飯もつけるよ。孫は料理が得意なんだ」
家賃不要、食事付きとは、たいへん魅力的である。
大通りからは外れた中の道に面した場所にあるが、四条駅からそう遠くはないことも聞かされ、支倉は食い気味にその提案を受け入れた。
ひとまず今夜は寝床の整備を優先し、部屋の片付けは明日の朝から森野と協力して行うこととなり、支倉は例の孫の店を目指した。
コンセントを使うのが怖くてドライヤーを使うこともできず、濡れ髪のまま四条駅から綾小路通を東に歩き、堺町通をすぎた辺り――。カタカタと寒さに震える支倉は、森野の孫――森野千尋が営むという店【ヘクセンハウス】に辿り着いた。
濃い茶色の木造の壁、味わい深い瓦屋根、白い暖簾に店の名が記されている古民家からは、オレンジ色の温かい明かりが漏れていた。
あったかそうな光やな、と支倉はぼんやりとその明かりに見とれた。
深夜まで営業しているということは、バーか何かの店だろうか。こじゃれた外観は、女性に好まれそうだな、などと想像を巡らせながら、支倉は「すみません」と声を掛けながら引き戸を横に滑らせた。
「いらっしゃいませ」
ややハスキーな声の主が支倉を出迎えてくれたのだが、相手の容姿に面を食らってしまった。
(き……金髪美女!)
にこりと愛想のいい笑顔を向けてくれた二十代前半と思しき女性は、金髪に青い目をした美女だった。すらりとした体にフリルの多めなエプロンドレスがよく似合っていて、同じ生地を使ったヘッドドレスとネックリングとが可愛らしい。まるで表情のある高級ドールのように見える。素朴な純日本人の見た目をした森野とは似ても似つかない、可憐で華やかな女性だ。
「こ、こんばんは……!」
「あぁ! 祖父から話は聞きました。どうも、孫の千尋です。災難でしたね、支倉さん。お部屋に行かれる前に、ひとまず掛けてください」
緊張気味に挨拶をした支倉に、千尋は着席を促した。
店にいるのは千尋一人で、他の従業員がいる気配はない。
店内は四つの椅子が並ぶカウンター席と、その向かいに二人席、奥にソファが向かい合った四人席が設けられていた。アンティーク調で統一された家具が上品で可愛らしく、彼女の雰囲気にあっている。
支倉がそわそわとしながらカウンター席に衣類などの入った大きなバッグを置いていると、千尋は開けたカウンターキッチンに入りながら、「驚きました?」とクスクスと笑った。
「ウィッグとカラコンですよ。今どき珍しくないでしょう?」
「すみません、じろじろ見てしもて! めっちゃ似合うてはります……!」
「あはは! 言わせちゃったみたいで申し訳ないです。まぁ、事実ですけど!」
びくっと慌てて背筋を伸ばす支倉を見て、千尋は悪戯っぽく微笑んだ。
そんな顔もやはり可愛い。
なるほど、メイクと衣装で外国の人のように見えていたのかと、支倉は少し気まずい思いをしながら「ふぅ」とこっそりと息を吐き出した。
この綺麗な千尋の店の二階が、支倉の仮住まいになるわけだ。内装は温かみのあるカフェのようにも見えるが、お洒落なバーにも見えなくもない。
とにかく若いのに店を持つなんてすごいなと、支倉が素直に感心していると、千尋は「そうだ」と何やら思いついたように口を開いた。
「外、寒かったでしょう? ワイン、お好きです? あったまりますよ?」
「好きですけど、そんなん申し訳ないです。ただでさえ、急に押しかけてしもたのに」
「それは、祖父がぼろのまま手入れしないからですよ。せっかくのクリスマスイヴなんですから、凍えたまま眠るなんてもったいないですよ」
あなたは天使か。
そんな言葉が喉の奥まで出かかった支倉の眼には、千尋がキラキラと輝いて見えた。あるいは女神かもしれないなと思う。
大学の頃に付き合っていた彼女とは、「小説? 楓君、意外とオタク?」というガチガチに偏見めいた言葉をかけられた後に自然消滅。それ以来女性と濃い縁のなかった支倉だ。クリスマスイヴに美女と温かな時間を過ごせるなんて、思ってもみなかった。
(僕の今年の運は小説やのうて、この出会いに全振りやったんかもしれん……!)
落ち込んでいた気持ちが少しだけ上向いたが、一巻打ち切りスランプ小説家に振り向いてくれる女性などいるわけがないと、支倉はすぐに思い直した。今は出会いよりもポジティブな思考と閃きが欲しい。
支倉がネガティブモードでダウンジャケットを脱いでいると、千尋は形の良い金色の眉を寄せながら、心配そうな表情を浮かべていた。
「う~ん。支倉さん、目がお疲れのようですねぇ……。ワインに少し手を加えますんで、その間この子と待っていてもらっていいですか?」
「この子?」
突然登場した第三者の存在に、支倉はきょとんとしてしまった。二人目の幼い孫でもいるのだろうかと辺りを見回すが、自分と千尋意外に人の気配は感じられない。
その代わりに千尋の肩に掛かる金糸のようなブロンドヘアの間から、ぴょこんっと顔を出した小動物がいた。
「ハリネズミ……?」
彼女の肩の上に乗っていたのは、白い体に白色と茶色の針がびっしりと生えているハリネズミだった。手のひらに収まりそうなサイズで、丸いフォルムがとても愛らしい。生まれてこの方、ハリネズミを近くで見たことがなかった支倉にとっては、とても珍しい動物だった。
「支倉さんと遊んであげて」
(え? 逆ちゃう?)
支倉の心の中のツッコミは、もちろん千尋には聞こえていない。彼女はにこにこと微笑みながら、ハリネズミを手に乗せて、カウンターテーブルへと移動させた。
ハリネズミは黒くてまん丸のつぶらな瞳で支倉を見つめ、そろそろと近づいて来た。なかなか人に懐かない警戒心の強い動物だと聞いたことがあったが、どうやら支倉は接近を許されたらしい。
「かわい……」
ぽろりと本音が飛び出した。
支倉の差し出した指にすり寄ってくるハリネズミが可愛らしく、支倉の頬はつい緩んでしまった。手に乗ってほしいなと思い、試しに手のひらを向けてみると、てちてちと短い手足で歩いてきてくれた。動物慣れしていない支倉は、思わず感動してしまった。
「へへ……かわええな、よーしよし」
針のない部分を指先でこしょこしょと撫でてやると、ハリネズミは気持ちがよさそうに目を細め、支倉の手のひらの上で丸くなった。愛らしさ倍増だ。
(なんやこの生き物……! 可愛すぎるやろ……!)
「ふふっ。支倉さんのことを気に入ったみたいですよ。珍しいです。普段は初対面の人を針で刺すのに」
「そんなリスキーな出会いを持ちかけてはったんですか⁉」
キッチンから陽気に笑う千尋は、ぎょっと驚く支倉を見て、「なんか大丈夫な気がして」と、根拠のない理由を教えてくれた。
明るくてマイペースな印象を持つ彼女と話していると、自分のペースは乱されるが、自然と口角が持ち上がるような感覚がするなと、支倉は片手で頬をむにむにと揉んだ。
(部屋に籠ってパソコン睨んどる時よりかは、柔らかなっとる気ぃする……)
「支倉さん、お仕事は何をされてらっしゃるんですか?」
支倉がハリネズミと戯れていると、千尋がカウンターの向こうのキッチンから話しかけて来た。
小鍋で何かを温めている様子で、ふわりと癖のある甘い香りがカウンター越しに漂ってきている。知らない香りではない気がしたが、香料に詳しくない支倉には名前が浮かんでこない。
それよりも、彼女の口から仕事という単語が飛び出したことに動揺を隠しきれなかった。
千尋は澄んだ青い瞳を煌めかせて見つめていた。その純粋な煌めきが、支倉の胸をグサッと突き刺さる。
幸い、大家の森野には作家の副業については伏せていた。プライベートで気を遣われたら気まずいために避けていたのだが、隠しておいてよかったと思った。
「えっと……広告代理店の営業を……」
嘘はついていないが、支倉の体が縮こまったことに気が付いたのか、ハリネズミはつぶらな瞳できゅるきゅると支倉のことを見つめていた。
(作家のことは、絶対言わへん……!)
自分が楓山もみじであると告げたら、『勇者を狩る聖女』の話題になるかもしれないし、迂闊にネットショッピングサイトなんか覗かれてしまったら、人気がないことが分かってしまうかもしれない。
それに万が一、「買います」なんて言われてしまったら、続刊しないことを分かっている身としては、申し訳なくて死にたくなる。何よりしばらく、支倉は何も書くことができていない――。
「あ……えと……」
喋らなければと思えば思うほど、喉がカラカラに乾いて声が出てこない。原稿の前で一文字も浮かんでこない状態に似ていると、支倉は思った。
打ち切りのことを思うと、どんどん思考が白く冷たくなっていくのだ。
目だけを泳がし、言葉に詰まる支倉を見た千尋は、何かを感じ取ったらしい。
「あぁ~っ! 寒くて口が動かないですよね! すみません、こっちばっかり喋っちゃって。そろそろいい感じになりましたので、こちらをどうぞ!」
いそいそと小鍋から耐熱仕様と思しき透明のカップに液体を注ぐと、千尋はそれを支倉の前にそっと置いた。
「赤ワイン……ですか?」
綺麗な赤紫色を見て、支倉は疑問形で尋ねた。
そうなってしまったのは、ワインが温かいこと。さらにカップにスライスされたオレンジが二枚浮かび、そして謎の小枝がストローのようにして突き刺さっていたからだ。
(まさかホンマにストローとちゃうよな?)
眉根を寄せてワインを観察する姿が面白かったのか、千尋は「あはは」と楽しげな笑い声を漏らした。
そして支倉の手の中でもぞもぞとしていたハリネズミを「どうも」と回収しながら、「グリューワインは初めてですか?」と、猫のように目を細めて言った。
手から温かさが抜き取られた支倉は、少々名残惜しい気持ちで聞き慣れない単語を繰り返した。
「グリューワイン?」
「ドイツでは温かい葡萄酒をそう呼ぶんです。フランスではヴァン・ショー、日本ではホットワインとも言います。ワインを香辛料と一緒に温めて作るカクテルですよ。お口に合うといいんですが」
営業職として嗜む程度にしか酒を飲まない支倉は、温かいワインなどこれまで聞いたこともなかった。なんだか小洒落ているな……と、その見た目に警戒さえしてしまう。
「い……いただきます……」
千尋の期待の籠った視線に促されるようにして、支倉は透明なカップの両手で挟み込むようにして持ち上げた。カップ越しに感じるワインの温度が、冷え切っていた指先に伝わってくると、多少ほっこりとした気持ちになる。
支倉は小枝を避けるようにしながら、カップの縁にそっと唇を触れさせた。
一口だけ含んだグリューワインは、単に温かい赤ワインではなかった。
独特な甘い香りとややエキゾチックな香りが鼻に抜けたかと思うと、バニラのような芳醇な香りも追いかけて来る。ほどよく温かいワインは想像よりも甘口だが、フルーツの爽やかさも際立っていて、実にバランスの取れた上品な口当たりだ。
支倉は喉を滑り落ち、じんわりと胃の中に広がっていく温度を感じながら、思わず「ほ……」と、気の抜けたため息を吐き出した。
「あったまるぅ……」
「ジンジャーの他に冷え性改善の効果があるナツメグやクローブ、スターアニスが入っています。香辛料――スパイスの複雑な香りをまとめているのは、そのスティック状のシナモンで、オレンジやレモンとの相性も抜群でしょう?」
にこにこと口角を上げながら説明してくれる千尋は、「ナツメグは消化器系にもよい働きをして」、「クローブは胃の調子を整えてくれたり」、「スターアニスは杏仁豆腐でおなじみの――」などとスパイスの知識を丁寧に教えてくれた。
支倉は「ほ~」とありきたりな相槌を打ったが、心の中では初めての味わいに大いに感動していた。
正直、彼女が教えてくれたスパイスでピンときたのは、ジンジャーとシナモンの二つだけだ。ジンジャーは言わずもがな。日常でも馴染み深い生姜のことだし、シナモンはシナモンロールやアップルパイに使われるスパイスだ。
だが、今は「体に良いものが入っている」という認識だけで、支倉の胸は満たされていた。
デビュー作の売れ行きが悪いと知ってから、自身を労わるということがまったくなくなっていた。こんな不出来な自分に与える栄養なんて何もないと、卑屈に思いながら昼間は会社で仕事に明け暮れ、夜はパソコンの前で空虚な時間を過ごしていたのだ。
(うぅ……沁みる……)
支倉は静かにもう一口、もう一口とグリューワインのカップを傾けた。
夢中になってワインを飲み進める支倉を見て、千尋は慌てて「ハイペースはダメすよ!」と言いながら、木製の小皿に乗った数切れのケーキのようなものを追加で差し出してくれた。
これまた見慣れないお菓子だ。初めは薄くスライスされたドライフルーツ入りのパウンドケーキに見えたが、指で軽くつついてみるとだいぶんと硬い。パウンドケーキとサブレの間くらいだろうか。表面には粉砂糖がまぶされ、ほのかにお酒の香りがする。
「シュトレン、もしくはシュトーレンというドイツのクリスマス菓子です。たっぷりのバターを使ったリッチな生地に洋酒に漬けたドライフルーツやナッツを入れて焼き上げるんです」
「そんな……。お菓子までいただいて申し訳ないです」
「いえいえ、お気になさらず。クリスマスのお菓子が年末まで余っても困っちゃうんで。人助けだと思って、召し上がってください」
遠慮がちに身を竦めていた支倉に、優しい気遣いがさらにじんわりと沁みた。聖母はきっとこんな顔をしているに違いないと思いながら、支倉は有難くシュトレンもいただくことにした。
どう食べたらいいのか少し迷ったが、硬さがありそうなのでフォークを使わずに手で取ってかじってみることにした。
「いただきます」
サクッとした噛み応えと共に、バターの風味が口いっぱいに広がった。表面の粉砂糖も含め、生地全体に優しい甘さがある。ドライフルーツとナッツの触感が良いアクセントになっていて、噛み締めるたびに感じる違った味わいに、無意識に頬が緩んでしまった。
先ほど千尋が「リッチ」という言葉を使ったが、まさしく贅沢な美味しさが詰まったお菓子だと、支倉は心の中で唸った。
そして何より、グリューワインとの相性が格別だった。
「んん~~~~ッ! めっちゃ合う……‼」
口の中が至福で満たされている。シュトレンの芳醇な甘さをグリューワインが温かく包み込み、さっぱりとした後味に整えてくれているかのようだった。これならいくらでもシュトレンが食べれてしまいそうで、むしろ怖いくらいだ。
支倉がドイツ人、恐るべし……! と、ドイツ国旗を頭に思い浮かべていると、千尋は「気に入ってくださったようでよかったです」と声を弾ませながら、ハリネズミを撫でていた。
彼女の少しハスキーで柔らかな声と可憐な笑顔が、いっそう支倉の胸をぽかぽかとさせた
彼女には落ち込んだ気持ちを見抜かれていたのだろうか。そりゃあ、聖夜に水道管が破裂したら、陽気でいられるわけがないと思うに違いないが、なんだかそれだけではない気がする――と、支倉は不思議な想いを抱きながら、彼女の顔を見上げた。
澄んだ青い双眼とぱちりと目が合い、支倉は逆に戸惑ってしまった。
心を見透かすような視線だった。千尋はカウンターの上で大人しく丸くなっているハリネズミの背中を撫でながら、支倉に微笑みかけていた。
(アカン……、美人と目ぇなんか合ったら――)
ときめいてしまうではないかと、支倉は慌てて視線を逸らそうとしたのだが。
「え……?」
何気なく瞬きをした支倉の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。涙はそれだけでは止まらず、ぽろぽろと続けて流れていく。
「えっ⁉ なんで僕、泣いて……って、うわぁッ⁉」
驚いたのは、無自覚に泣いてしまったことだけではなかった。
支倉の眼から流れ落ちてきたのは、なんと鏡の破片だった。五センチほどはあるだろうか。とても眼から出て来るとは思えない代物がぽろりと膝の上に落ち、支倉は動揺丸出しの悲鳴を上げてしまった。
「うそッ⁉ なにこれッ!」
みっともなく慌てふためきながら、支倉は鏡の破片を注意深く指で摘まみ上げたのだが、驚くべきことにその鏡面には泣きそうな顔の支倉が映っていた。
一瞬現在の自分かとも思ったが、服装が違っていた。
まだ冬が深まる以前だ。秋服に身を包んだ支倉は、京都駅近くの大型書店でひっそりと一冊だけ棚刺しされている『勇者を狩る聖女』の背表紙を見つめていた。近所の書店には自著が入荷されていないことを知り、仕事帰りに大きな書店をいくつか巡った時の支倉の姿だった。
棚刺しの一冊を支倉が買って帰ってから毎日通ってみたが、その書店に自著が再び並ぶことがなかったところまでが、鏡に動画のようにして映っていた。
まだ発売から一週間も経っていない、そんな頃に突き付けられたしょっぱい現実と悔しさが蘇り、支倉は血の気がぐんと引くと共に息が止まりそうになった。
「自分が特別になったような気ぃして、なんでも上手くいくと思い込んでしもたんや。ホンマ、アホやった。受賞しても、特別に宣伝してもらえるわけやなかったし、出版社が見るんは発売後の数字だけ。滑った新人のお守りなんて、忙しい編集者はしてくれへん。一巻打ち切り作家のレッテルを貼られた僕に次回作のチャンスはなくなってしもたんや」
悲痛な声でそう言ったのは、鏡の中の支倉だった。
「あ~……、続き出したかった。ハピエンにしたかった……。絵ぇめっちゃ上手い漫画家さんにコミカライズしてもらいたかったし、重版御礼とか言ってみたかった。ポジティブなレビューもファンレターも欲しかった。ボイスコミックとか、特典グッズとか作ってもらえるような作家になりたかった。アニメ化やって――」
「え? えぇ……? 嘘やん、なにこれ……。黙れって……! お願いやから、何も言わんといて……!」
鏡の中の自分の赤裸々な独白に焦った支倉は、千尋にそれを聞かれたくなくて半泣きで叫んだ。胸がじくじくと痛む切ない場面から一転。恥ずかしい欲望駄々洩れの本音は聞くに堪えず、支倉は顔から火が出そうになっていた。
「ちゃうねん、僕の願いは――!」
鏡の中の支倉が沈黙し、鏡を覗く支倉が声を上げた。
「僕の本、いっぱいの人に楽しんでもらいたかった……!」
小説を書き始めた小学生の頃、続刊だとかメディアミックスだとか、そんな言葉を知らなかった支倉は、ただ自分の作品をたくさんの人に楽しんでもらうことを願っていた。
それが支倉の原点。いつまでも中心にあり続ける、作家としての目標だった。
そのことを思い出すと、支倉はふにゃりと全身の力が抜けてしまった。
(あ……そうか……。僕が一番つらかったんは、作家として消えてまうことやなくて、小説を楽しんでもらえへんかったことなんや……)
「支倉さん、鏡をこちらに」
驚いた支倉が手を震わせていると、千尋がカウンター越しに小さな木箱を差し出してきた。
支倉の目から鏡が飛び出して来たことを不気味に思っていない様子なので、どうやら彼女はこの突拍子もない状況について何か知っているらしかった。
「え……どうするんですか? この鏡……なんなんです?」
「えぇっと、そうですね……。支倉さんの目に刺さっていたいらないコンタクトレンズ……的な? これがあると、世界が暗く歪んで見えてしまうんです」
「コンタクトレンズ??」
支倉は夢でも見ているのだろうかと、自分の両目を手でごしごしと擦った。
けれど、これ以上鏡が出て来るような異物感もなく、夢が覚めるような感覚もない。むしろ、最近感じていた目の奥の痛みが消えていた。まさか、痛みの原因はこの鏡だったのだろうか――?
カウンターの上には蓋が閉じられた木箱を興味津々に眺めるハリネズミ。目から固形物が出て来た未知なる恐ろしさや、自分の涙という排泄物を若い女性に預けてしまった気恥ずかしさが入り交じり、支倉の脳内はパンク寸前になっていた。
「えぇぇ……、すんません。ホンマ、何言うてはるか意味が分からんくて……」
「うむむむ……では、『雪の女王』という童話はご存じですか?」
綺麗な眉間に小さな皺を寄せて悩んだ後、千尋は有名なアンデルセン童話のタイトルを口にした。
もちろん、支倉だって知っている。幼い頃に絵本も持っていたし、近年はこの童話をベースとしたアニメ映画も放映されていた。
支倉が「はい」と言って頷くと、千尋は人差し指をピンと立てながら、「その鏡ですよ」と、あっけらかんととして言った。
「冒頭に魔法の鏡が登場するでしょう? 悪魔がそれを割ってしまって、破片が目と心臓に刺さった主人公の幼馴染カイは、冷徹な性格に変わってしまう。彼の瞳に映るものは醜くなり、心は凍ってしまったからです。それと同じ物が支倉さんの目に刺さっていて、グリューワインで取り除いたというわけです」
「というわけです……と言われましても」
支倉の目はますます点の形になったが、千尋はかまわず話を続けた。
「グリューワインの『グリュー』には、キラキラと燃えて……、熱を帯びて……といった意味があります。その温かな煌めきの魔力を借りて、支倉さんの視界を曇らせる鏡を取り除きました。比喩的なアレではないですよ? すべての生き物には魔力が宿ります。それを引き出すことができれば、奇跡の発現――魔法に換えることができるんです!」
拳を胸の前でぐっと丸めて頷く千尋の力強い言葉に、支倉は圧倒された。空気が震え、見えない何かがビビビと全身に駆け巡るような感覚に思わずハッと息を呑んでしまう。
千尋の熱のこもった言葉からは、支倉を騙して弄ぶような悪意は感じられない。
むしろ、瞬きをするたびに支倉の視界は明るくなり、景色が色鮮やかになっていく。目に映るものすべてが眩く、魅力的に映り、悪魔の鏡が取り除かれたという話に信憑性が増していた。
「ホンマ、千尋さんて何者なんですか……?」
支倉の瞳は、女神のように淡く微笑む千尋を映していた。まるで後光が射しているかのような煌めきが、彼女の周りに満ちていた。
やばい、好きになってしまうかもしれないと、彼女の微笑みに射抜かれてしまった支倉は、胸をドキドキと高鳴らせた。心臓が早鐘を打つとはこのことだ。こんなに綺麗で優しい女性に今まで出会ったことがない。
(ホンマに女神様なんとちゃう……?)
女神はハリネズミを愛おしそうに抱き上げながら、桃色の唇をおもむろに開くと、一人と一匹の四つ瞳が怪しげな光を放った。
「どこにでもいるカフェ店員です。ただし、魔女の魔法のレシピを受け継いだ兄妹の生まれ変わりですけど……。この子は前世が兄のヘンゼル、俺は妹のグレーテルです」
「ヘンゼルとグレーテル⁉」
前世グレーテルを名乗る千尋が、よしよしと前世ヘンゼルハリネズミの背中を撫でている。その様子を見つめていると、支倉は頭がくらくらしてきた。
(マジでどういうことなん……⁉ って、ちょお待って)
「今、『俺』って……?」
思わず素っ頓狂な声が飛び出した。それが自分の声であると支倉が気が付くと同時に、千尋はニヤリと猫のように目を細めながら、首を包んでいたフリルがいっぱいのネックリングをしゅるりと外した。
「気づきました?」
「の、のどぼとけ……!」
男性しか持ちえない体のパーツを目の当たりにし、支倉はあわあわと動揺を隠すことができなかった。
孫はクスクスと悪戯っぽく笑いながら、キッチンから出て来た。
間近で見ると、身長が高い。175㎝の支倉よりも頭一つ分は高そうで、ややハスキーな声も言われてみれば男性寄りだ。
信じられないが、千尋は男だった。
「えぇぇ……っ」
「あははっ! その様子だと、俺のことを女だと思っていたみたいですね。嬉しいなぁ」
「もしかして、中身は……?」
「いえ? 中身も男ですよ。グレーテルの記憶は魔女のレシピくらいしか持ってなくて、女装は趣味です。可愛い恰好、似合うでしょ? 俺、美人だから」
その店に関しては否定できず、支倉は「あぁ……そうですネ……」と脱力気味な返事をした。危うく新しい性癖に目覚めるところだったと思いつつも、やはり孫が綺麗であることは変わりない。
前世グレーテルの男孫は、両頬に小さなえくぼを浮かび上がらせながら、支倉の隣の席にすとんっと腰を下ろした。
キッチンにいた時よりも、表情は幼い少年のそれに見える。だが、花のような香りが支倉の鼻腔をくすぐると、彼の持つ魔性には相変わらずドキドキさせられてしまった。
「転生とか魔法とかって、ホンマにあるんですね」
「びっくりでしょ? 祖父も両親も冗談だと思ってて。俺とヘンゼルは真剣なんですけどね……。あ、支倉さんも気を付けてくださいね。信じ切ってらっしゃるとは思いませんが、迂闊に今日のことを誰かに話したら、頭のオカシイ人だと思われちゃいますから」
「いえ……僕は……」
「いいんです、いいです。手品か何かだと思ってもらえたら。これからしばらく二階で暮らされるので、店のことを知っておいてもらおうかなと思っただけですし」
千尋はひらひらと手を振りながら、少し寂しそうに乾いた笑いを漏らした。こういったことは慣れている、この話は終わりだと言わんばかりの表情だった。
「いや! ここまでしてくれて、なんでそんなこと言わはるんですか! 僕、めっちゃ感謝してるのに!」
「えっ」
支倉が椅子からガタンッと立ち上がり、熱弁を振るったことが意外だったらしい。千尋は面を食らった様子で言葉を失っていた。
「――僕、作家なんです」
突然の支倉のカミングアウトに、千尋はきょとんと首を傾げた。
だが、いいか悪いか、グリューワインの煌めく魔力を授かった支倉は、胸の奥で火だねを得た創作意欲を燃え上がらせていた。
「えっと……、デビューして数か月の崖っぷち作家ですけど、次こそ、めっちゃおもろいファンタジー書こう思てて……。だから、よかったらお二人のこと、取材させてもらえませんか⁉ 魔女の遺した魔法のレシピって、わくわくしかないやないですか‼」
支倉は感情を高ぶらせ、前のめりの姿勢で千尋に迫った。
彼は「なっ」と予想外だと言わんばかりに綺麗な顔をしかめさせている。ハリネズミも同様だったが、支倉は遠慮はしなかった。これはファンタジーの神様が贈ってくれたクリスマスプレゼントに違いないと信じて疑わなかった。
(この奇縁、逃さへん……! 今なら、ええのが書ける気がする……!)
沸々と湧き上がる創作の熱を感じたのは、とても久しぶりだった。
支倉の描きたいファンタジーの芽が、間もなく芽吹こうとしている感覚がする。
それは支倉が強い意志を持って守り、育てなければならないものだ。たとえ外界から誰かに石を投げつけられても、折られるわけにはいかない。支倉自身が芽の可能性を信じて、寄り添い続けなければならない。
前の花だって、精いっぱい誇らしく咲いていた。その美しさは隣の花壇の花と比べて霞んでしまい、早々に花弁を散らしてしまったが、何も残さなかったわけではない。
支倉の手元には、前作の息吹は種として残っている。
「支倉さん、本気ですか? 急に魔法だとか魔女だとか、怖くありません?」
焦り気味に千尋が問い掛けてきたが、支倉は意に介さなかった。
「怖いわけないやないですか! こんな経験、普通はできませんし! ファンタジーにリアリティが合わされば、絶対おもろい話が書ける! 小説を一人でも多くの人に楽しんでもらうために、僕は貪欲になる‼」
「ほぅ! まさかの展開!」
千尋は面を食らった様子で感嘆の声を上げ、ハリネズミはぴぃぴぃと彼に賛同するかのように鳴きながら、肩の上へとよじ登っていった。
そして千尋とハリネズミの奇妙な兄妹は、まだ見ぬ物語に心を躍らせる子どものような無邪気な顔で支倉を見つめた。
「……分かりました。改めて歓迎します。俺たち兄妹はカフェをしながら、この世界に散らばった魔法を集めているんです。夢のように美しいものから、悪夢のように恐ろしいものまで、ぜーんぶ。どうぞ、楓山もみじ先生の名著のご参考になりますように」
透明なカップの中に半分ほど残っていたグリューワインがキラキラと輝き、お皿の上のシュトレンが魅惑の甘い香りを漂わせる。
ファンタジーに飢えた作家が魔女のお菓子の家に迷い込んだ、そんな不思議な夜だった。
読了ありがとうございました!
打ち切りってしんどい!でも切り替えて書くしかない!!