行けない事ぐらいないだろう
ヨシキは次のYouTubeにアップする歌詞を見つめている。スマホの未送信欄に打たれていて、デザリングでタブレットに録画する。アイリッシュに対するアンサーソングだ。コメントでもダイレクトメールでも会話しない。歌詞によるアンサーソングで会話する。
会った事もなく、会話による約束も確認も無い。YouTubeの動画で顔と声を知っているのみ。それでも互いの想いに確信を抱いている。勘違いと言う疑念も、アイリッシュの歌で毎回吹き飛ばされる。
ヨシキは60才で妻は居ない。歌に捧げてきた。ガールブレンドや元カノも嫁に送り出す。結婚しても、自身は幸せになれるが彼女達には貧乏くじだ。アイリッシュも白馬の王子様に送り出すつもりだった。
しかし、今回は迷っている。アイリッシュの歌詞は違うのだ。アイリッシュの住む札幌に行きたい気持ちと格闘する日々だ。
格闘しながら岐阜の街に居る。
アイリッシュは粉雪を窓から見た。
しっかり防寒して、窓に映る前髪を整える。彼がこの前髪を気に入っているのだ。ギターを弾くのに邪魔だが、しょうが無い。
岐阜までの旅費は、ギターの福ちゃんが「がんばれ」と言って出してくれた。おじいちゃんは、隣のおばさんが「逃がしちゃだめよ」と言って、お世話を引き受けてくれた。インスタの仲間も応援してくれている。ただ1人を除いて。
在日フランス人のミッシェルは、少女コミックから出てきたようなイケメンだ。実家はお城と東京ドーム20個分を持つ貴族。すでに6回プロポーズされている。ただ、アイリッシュが歌い続ける事には否定的で、事業を手伝って欲しいと言われている。
ストーブを確認して、ガスの元栓を閉める。戸締まりを確認して玄関を出て鍵を掛ける。
アウディの4駆がキュッと横付けする。
ウインドウが降りて、ミッシェルが言う。
「千歳まで送るよ。プロポーズはしない。君が滑って、ケガをさせるワケには行かない」
「どこに何しに行くか?判ってる?」
「60の貧乏くじを引きに岐阜まで行く?」
アイリッシュはドアミラーをハイキックで蹴飛ばして、それは飛んで行った。
「トレビアン。君がウラブレタ暮らしに耐えきれず帰るまでには修理しておこう」
「ヨシキを悪く言うなら乗らない」
「いいでしょう。あなたの王子様に敬意を保つ事を約束します」
千歳空港では、おじいちゃんと福ちゃんが見送りに来てくれた。
「結婚式の日取りが決まったら、メールしてな」
「福ちゃん!なにっまだ断られるかもしれないよ」
「おじいちゃんの感だがぁあの男は断らないな。おじいちゃんの勘が外れた事あるか」
「ないよ」
セントレアから名鉄で岐阜駅に着く。
雨だった。札幌より暖かくて、ダウンジャケットが暑い。
名鉄からJRまで歩く。
JRの区間快速で大垣駅。
駅からタクシーで「快活クラブまで」と告げる。
スマホを開くと、ヨシキがツイキャス配信をしていた。
チャットで質問する。
ワンツーの何ルーム?
「えっ?Gだけど?」
アイリッシュは、受け付けで会員登録して2階に上がった。
ビリヤードの台を抜けて、並んでいるドアをAから見て行く。
Gの扉の前に立つ。
深呼吸して、手鏡で前髪を直す。
2回ノックする。
ドアが開いて。
抱きしめられた。
行けない事ぐらいないだろう
完結