2024/10/16_9:51:47
俺の親友、森田健介が行方不明になってから、昭和59年(1984年)末で、2年になる。森田健介は『明永商事』のエリート社員だった。その健介の妻になった俺の妹、紘子は2歳になる仁美を抱かえて、毎日、泣き暮らしている。そんな妹を見ていると、消息を絶った健介が憎い。何故、健介は自分たちの前から消えたのか。生きることが辛くなって蒸発したのか。中国に長期出張していて、何かの事故に遭遇したのだろうか。それとも日本に戻り、何処かで暮らしているのか。あるいは中国の何処かで生存しているのであろうか。いずれにせよ、明確にしてあげなければならない。お袋も滅入ってしまう。俺だって困ってしまう。父が亡くなり、お袋と2人暮らしの複雑な家庭に、嫁さんの来てもいなくなってしまう。当然のことであるが、健介は、去年いっぱいで『明永商事』を解雇されてしまった。それにしても、あの健介が、俺や俺の家族を裏切る筈がない。俺と彼とは大学時代、アルバイト先で一緒に働き、助け合って、大学を卒業した。地方出身の彼は、俺の目黒の家に、しばしば泊まりに来た。亡くなった父も誠実な彼を見て、家族同様の付き合いをしていた。そして俺の妹、紘子を嫁がせた。なのに何故、健介は・・・。突然、俺たちの前から姿を消してしまった。妹に何か気に入らない悪い所でもあったのだろうか。勤務先内で、都合の悪い事でもあったのか。それとも何かの事件に巻き込まれたのか。分からない。分からない。分からない事でいっぱいだ。何とかしなくてはならない。
〇
11月の日曜日、俺は妹が行きたがらない世田谷区喜多見のマンションに、恋人、小池祐子と出かけた。銀杏の葉が黄金色に輝く、爽やかの日だった。俺たちは、喜多見駅から5分ほどのマンションに辿り着き、その5階の部屋から富士山を眺めて、布団や書物、食器類などの梱包を始めた。衣類など妹の物は、妹が仁美を連れて、実家に戻って来た時、持ち帰ったので、部屋に無かった。健介の衣類や帽子、靴などが、残されていたので、それもダンボール箱に詰めた。その後片付けを手伝いながら、祐子が言った。
「勿体ないわね。こんな素敵な所を引き払うなんて」
「仕方ないよ。旦那がいなくなったんだ。家賃だって高いんだ」
「貴男が住めば良いのに・・・」
「こんなに広い所に、俺、1人でか?」
「私が一緒に住んで上げても良いわ」
「危ない、危ない」
俺は雑誌記者だ。結婚する気にはなれない。給料が安い。何時、事件に巻き込まれるかも知れない。結婚したら、相手が可哀想だ。何時、帰るとも分からない毎日だ。今日、東京にいたかと思えば、明日は九州、札幌だ。家庭生活なんてありゃしない。苦労を掛けるに決まっている。だが祐子は、同じ雑誌社の同じ職場の事務員だ。そこらへんのことは心得ている。結婚するのなら無難な相手かもしれない。だが、健介のことがはっきりするまでは・・。そんなことを考えている俺に、額の汗を拭きながら祐子が確認した。
「小物は全部、ダンボール箱に入れたわよ」
「サンキュー」
「大物はどうするの?」
「古道具屋に売却するつもりだ」
「でも哀れなものねえ。甘いマンション生活も、3年半で、ジ・エンドだなんて・・・」
「可哀想な奴さ」
本当に可哀想な奴だ。俺は、そう呟いてから、祐子に言った。
「折角の日曜日なのに、荷作り手伝ってもらってすまない。駅の近くに美味しいフランス料理の店があるんだ。これから、そこへ食事に行こう」
「まあっ、嬉しい」
俺たちは5階からエレベーターで1階に降りた。そして1階の管理人室の管理人に頭を下げて、外に出ようとした。すると、管理人が声をかけた。
「森田さん。ポストに沢山、郵便物が入っていますよ。たまには見て下さいね」
「済みません」
俺は夕子とポストの中を覗いた。化粧品店からのハガキ、求人案内、スーパーマーケットのバーゲンセールの広告、水道代の請求書などが、中にいっぱい入っていた。ダイヤルを回し、中の物を取り出した。何と、その中に紘子に宛てた森田健介から封書があった。俺は慌てて、祐子と部屋に戻った。俺は心を落ち着かせ、その封書を開けた。そこには、こう書かれていた。
〈 この手紙を、お前が読んだ時、僕はもう、この世にいないかも知れない。僕は仕事に夢中になりすぎた。その為、とんでもないことになってしまった。知っての通り、僕の仕事は中国への機械やプラント設備の輸出だ。ところが何度も現地に訪問するうちに、悪い連中に関わってしまった。深入りしてしまったのだ。もっと、いろんな事を書きたいのだが、書けばお前の身が危なくなる。ただ言いたいのは、仁美をよろしく頼むということだ。
この手紙を読んでも、決して騒ぐな。流太兄さんだけに見せろ。流太兄さんは、事件記者だ。きっと、お前を救ってくれる。運があったら、また会おう。
健介 〉
俺は一緒に手紙を見た祐子の緊張した顔を目にした。この手紙の内容は、妹や健介の両親には勿論、誰にも知られてならない事だった。俺は祐子に釘を刺した。
「見なかったことにしてくれ」
妹の夫、森田健介は矢張り、事件に巻き込まれたのだ。彼はもう、この世にいないかも知れない。俺は、この事件調査の為、このマンションの賃貸を延長することに決めた。健介を助け出す為には、身内をも欺かなければならない。俺は、そう決心し、祐子と再び部屋を出て、1階に降り、その後、フランス料理店『ポアティエ』に行った。俺は祐子と美味しいフランス料理を口にしながらも、心は虚ろだった。
〇
俺は健介の手紙にあった悪い連中を探す為、『明永商事』の森田健介が出入りしていたバーや関係先を当たってみた。馴染みのバーは銀座に2軒あったが、そのいずれも『明永商事』の社員たちが利用している店で、健介に特別の女がいる店でもなかった。健介の関係客先は中国との友好商社や香港の商社で、その人間関係の調査は、困難を極めた。そした或る日、俺は妹との会話の中から、健介が石油化学プラント会社の技術者、若杉純一としばしば中国出張していたことを知った。その若杉純一は、健介の写真アルバムに載っていた。その若杉の勤める浜松町の会社に訪問すると、若杉は外の喫茶店で話そうと言った。俺の訪問を待っていたかのようだった。喫茶店『セーヌ』で名刺を交わし、コーヒーを一口飲むと、若杉は健介の事を話してくれた。
「森田さんには大変、お世話になりました。会社を辞められたことも聞きました。一体、どうしたのですか。元気でいますか?」
「それが、行方不明になったまま、どうしているのか分からないのです」
「ええっ。本当ですか?」
「なので、森田について、知っていることを教えてもらおうと、若杉さんを訪ねたのです」
「そうでしたか。森田さんは明るい人でした。学生時代もそうだったのでしょう」
「そう。あいつは頭も良かったが、剽軽で、女の尻ばかし追いかけていた。だが、ああ見えて根は勤勉で真面目な男さ」
「確かに森田さんは、女性が好きですよね。マッサージが好きで、私を何度か、新宿へ連れて行ってくれました」
若杉は変な所で俺に同感した。そこで俺は森田が何処のマッサージ店を利用していたか、若杉に訊いた。
「そのマッサージ店は歌舞伎町の『レモン』ですか?」
「いいえ。『ベルジュ』です。あの店に、幸子という彼女がいましてね。彼が行くと、ロハで、いろんなサービスをしてくれるそうです。私も何度か付き合わされました」
「ほう。『ベルジュ』ね」
「豊島さんも一度、行かれたらどうです。あの店の幸子に聞けば、何か知っているかも・・・」
俺は若杉が教えてくれた『ベルジュ』の幸子という女の名前を頭に刻み込んだ。
「森田と中国へ出張したようですが、どちらの方へあいつと出張しましたか?」
「北京と上海、それに青島、厦門、広東。まあいろいろですね」
若杉は健介との出張の思い出の数々を話してくれた。彼は健介の手紙にあった悪い連中とは関りなさそうだった。
〇
翌日、俺は新宿のマッサージ店『ベルジュ』に行った。俺はそこで幸子を指名した。待合室で、少し待つと、活発そうな女の子が跳び出して来て、俺の番号を確かめ、俺をカーテンルームに案内した。
「あんた、私を指名したけど、初対面よねえ。誰の紹介?」
「森田健介の紹介で・・」
「そんな。森田さんは私を紹介したりしないわ。必ず、町子や洋子を紹介する筈よ。あんた刑事でしょう」
「いや。森田の友人だ」
「嘘でしょう。森田さんが、私を指名するように言う筈ないわ。あんた、森田さんを探しているのでしょう。私に質問したって何も知らないわよ」
「確かに森田の紹介ではない。しかし、森田と俺が学生時代からの親友であることは、嘘ではない」
「それを証明する何かある?」
そう言われても、俺が森田の親友であると言う証明は、第三者を連れて来ない限り、何処にも見当たらなかった。大学生時代、大洗海岸に泳ぎに行った時に撮った2人の写真を持参すれば良かったと思った。
「今あるのは俺が豊島流太であるという証明だけだ。俺の運転免許証だ。見てくれ」
「確かに貴男の言われた名前の免許証ね」
「これを見せても、俺が森田の親友であるかどうか、君には分からないだろうね。親友だと証明するものは何も無い」
「立派な証明よ」
「えっ、信じてくれるのか?」
俺はびっくりした。俺のことが幸子に通じたみたいだ。
「あんたが豊島さんね」
「そうだ」
「森ちゃん、今、日本にはいないわよ。きっと中国だわ。森ちゃんの奥さん、豊島さんの妹さんでしたわね」
「うん、そうだ。良く知ってるな」
「森ちゃん、奥さんのこと、とても愛しているわ。大学時代、仲間だった豊島さんの事も、得意になって私に話してくれたわ。私、豊島さんにサービスしちゃう」
「良いんだ。今日は森田の話を聞かせてくれれば、それで良いんだ」
「でも・・・」
俺は健介の抱いた女を抱く気にはなれなかった。それよりも、俺の知らない健介のことを、少しでも多く知りたかった。俺は幸子から、健介に関するいろんな事を聞いた。中でも、この話はショックだった。
「森ちゃんはピストルを持っていたわ。何か怖い仕事をしているみたいだったわ」
「それは本当か」
「本当よ。だから森ちゃんを探すのは止めた方が良いわ。もし探すなら、貴男もピストルを持つ事ね。そうでないと、命が幾つあっても足りないわよ」
「森田は、そんなヤバイ仕事をしているのか」
「そうに違いないわ。だから、森ちゃんを探すなら、ピストルが無いと・・」
「警察でもないのに、ピストルなど、手にする事は出来ない」
「それが出来るのよ。私が良い人を、紹介して上げるわ。森ちゃんと親しくしていた香港人よ」
「香港人?」
俺は、またまたびっくりした。幸子は、そんな俺の顔を見て笑った。
「私、森ちゃんと一緒に香港に行った時、その人に会ったの。電話して上げるわ。彼なら森ちゃんの消息を知っているかも。貴男が中国へ行って、森ちゃんを探すというのなら・・」
俺は健介を探す為なら、この命を賭けようと思っていた。妹の紘子や姪の仁美の為だ。何としても、健介を探し出し、決着をつけなければならない。
「俺は中国へ行って森田を探す。お願いだ。その人を紹介してくれ」
「高いわよ」
「高くても良い。紹介して欲しい」
俺は夢中になって、幸子にお願いした。すると幸子は俺の肩を軽く叩いて、笑った。
「冗談よ。貴男が森ちゃんを日本に連れ戻してくれれば、私、何も要らない。明日、連絡してみる。私のマンションの電話番号、教えるわ。明日の午後1時半頃、電話を頂戴」
幸子は、そう言って、小さなメモ用紙にマンションの電話番号と携帯電話の番号を書いてくれた。幸子は心の優しそうな女だった。こんな仕事を辞めて、別の仕事をするよう説教しようと思ったが、初対面なので止めた。
〇
翌日、午後1時半、俺は幸子のマンションに電話した。すると彼女は香港と連絡が取れたので、高円寺の喫茶店『ポエム』で、話しましょうと言った。俺は彼女の指示に従い、電車を乗り継ぎ、目黒から高円寺まで行った。喫茶店『ポエム』は駅前にあり、直ぐに分かった。ちょっと暗い店の中に入って行くと、奥まった席に幸子が座って、コーヒーを飲みながら俺を待っていた。彼女は微笑んで言った。
「ここ、直ぐ分かりましたか?」
「はい。駅に降りて見回して直ぐに・・」
俺は、そう答えて、幸子の相向かいの椅子に座り、コーヒーを註文した。白いワンピースの上に枯葉色のショート丈ベストを羽織った彼女は『ベルジュ』で会った時と別人のように見えた。俺は一呼吸おき、真っ直ぐに幸子を見詰めて訊いた。
「香港と連絡が取れたということですが、協力していただけそうですか?」
「ええ。貴男が香港に訪問したら、協力してくれるって。香港のボスも森ちゃんを探しているらしいの」
「その香港のボスって、何の仕事をしているの?」
「ちょっと説明が難しいんだけど、まあ貿易の仕事かな」
「それで森田と親しくしていたというんだな」
「まあ、そんなとこね。一言で言うと、遊び人仲間ね」
彼女らしい言い方だった。いずれにせよ、相手から俺の受け入れについて、オッケーとの返事を頂いたとの報告だった。俺は幸子から、その香港人の氏名、勤務先、住所、電話番号を教えて貰った。仄暗い喫茶店での打合せが終わってから、俺たちは新宿に移動し、『長春館』で焼き肉を食べた。満腹になったところで、幸子が俺をからかった。
「とても美味しかったわ。何故か眠くなっちゃった。ホテルで一眠りしましょうか」
「おお、怖い。遠慮しとくよ」
「何が怖いの。私、真面目に言っているのよ」
「あんたとそんな関係になったら、森田に悪いよ」
「馬鹿ね。冗談よ冗談」
そんなやりとりをした後、彼女は『ベルジュ』の勤務時間になったからと言って、歌舞伎町のマッサージ店へ出勤して行った。俺は幸子のメモを再確認し、香港に行く決心をした。翌日、俺は会社の総務部に家庭の事情を説明し、半年の休職を申請し、その許可をいただいた。小池祐子が休職までしなくともと忠告したが、1週間程度の香港旅行で、健介を見つけられるとは思えないので、浜田部長に本当の理由を述べ、来年1月から正式に休職することの了承を得た。
〇
昭和60年(1985年)2月27日、水曜日、俺は香港へ向かった。母と妹と姪に見送られて、梅の花咲く自宅を出発し、東京駅で小池祐子と待合せして、大丸デパート内のレストランで昼食。その後、東京駅前からタクシーで箱崎のティーキャットに行き、リムジンバスで成田に向かった。箱崎のティ-キャットまで見送りに来てくれた祐子と、改札口でキッスの別れをしたかったが、恥ずかしくて、手を振るだけの別れとなった。リムジンバスが『成田国際空港』に到着するや、キャセイ航空のカウンターに行き、荷物を預けた。それから土産物を買い、手荷物検査、出国手続きを済ませ、18時発、CX505便に搭乗。マルコポーロ席に座り、ホッとする。乗客はいろいろ。商社員風の日本人男性、欧米のビジネスマン。新婚旅行らしきカップル。子供連れ中国人家族などなど機内は満員。既に夜の気配。その搭乗機は定刻、『成田国際空港』を離陸。香港へ向かって飛び立つ。俺は日本とさよならを言った。CX505便は緑色の翼を広げ、成田から九州沿岸、沖縄沿岸、台湾沿岸を経て、飛行し、現地時間、21時30分に香港の『啓徳国際空港』に無事到着した。懐かしの空港は旧正月旅行の帰り客で混雑していた。『啓徳国際空港』で入国手続きを済ませてからタクシーに乗り、香港島にあるホテルに向かった。九龍と香港島を結ぶ海底隧道『クロスハーバートンネル』を抜けると、そこは銅鑼湾。そこからモリソンヒルの『帆船酒店』に行き、チェツクインしたのは10時過ぎ。部屋に入り、ホッとしていると、部屋に電話がかかって来た。
「もしもし、トヨシマさんですか?」
「はい。豊島です」
「私、チャンさんの秘書のキャシーと申します。今、ロビーにいます。これから、部屋に挨拶に行きます。よろしくね」
「オッケー」
俺は、そう答えて時計を見た。10時半になろうとしていた。しばらくすると、部屋のドアがノックされ、ドアを開けると、可愛い笑みを見せて、キャシーが入って来た。俺はちょっと赤面した。彼女は小さな名刺を出し、自分の正式名と年齢を言った。22歳。長い黒髪の女性だった。彼女は、俺に伝えた。
「ではチョンさんからの明日の予定報告をします。明日の朝、私が、ここへ迎えに来ます。8時半までに朝食を済ませておいて下さい。それから『香港長栄実業』に案内します。そこでチョンさんに会って、中国へのビザ申請をしてもらい、中国へ行く日を決めます。中国には、『香港長栄実業』の者が通訳を兼ね同行しますので、安心して下さい。以上、よろしくお願いします」
「ありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします」
「私、豊島さんの友達、森田さんのこと知ってます」
「ええっ、本当ですか?」
「森田さんには、2年前、会いました。何度か香港に来ました。森田さん、良い人」
「森田を知っているのですか。私は、その森田を探しに香港にやって来たのです。森田について知っていることがあったら、教えて下さい」
「森田さんのこと、私たちのボス、チャンさんが、明日、豊島さんに詳しく説明してくれると思います。私、詳しい事、知らない。明日、チャンさんに訊いて下さい。では、バイバイ」
呂キャシーは、そう告げて、帰って行った。俺は、彼女の報告に従い、明日、新宿のマッサージ店『ベルジュ』で働く幸子に紹介してもらった『香港長栄実業』の張成安の事務所に訪問することになった。張成安とは、どんな人物か。マッサージ店の幸子が知っているような男であるから、特殊な仕事をしている人物に違いない。余分なことを考えると眠れそうになかったが、移動の疲れで、何時の間にか、俺は深い眠りに落ちていた。
〇
目覚めれば香港は霧雨だった。窓から見える景色は白い雨に霞んで、香港の朝を一層、冷たく感じさせた。午前7時半、ホテルのレストランで朝食。8時半過ぎ、昨夜、会ったキャシーがレストランに現れた。彼女とコーヒーを飲みながら9時にホテルを出発する約束をした。それから部屋に戻り、小池祐子に無事、香港に到着したことを報告し、カバンと手土産を持って、ロビーに行き、キャシーとタクシーを拾った。向かったのはジャクソン通りにある高層ビルの12階にある『香港長栄実業』の事務所だった。キャシーに案内され、会長室に訪問すると、張成安会長が、笑顔で俺を迎えてくれた。
「你好。ようこそいらっしゃいました。私が張成安です」
「豊島流太です。よろしくお願いします」
「待っていましたよ」
張会長は、油っぽい両手で、俺の手を、むんずと掴んだ。俺も力を入れて両手で彼と握手した。張会長は背が低いが、浅黒い顔の太っちょの男だった。中々の恰幅をしていて、迫力があった。握手を終えて、俺をソフアに座らせると、張会長が、俺に訊いた。
「飲み物は何が良いですか?日本のお茶もありますよ」
「ありがとう御座います。ではコーヒーをお願いします」
「では私もコーヒーにしよう」
張会長は、そう言って、キャシーに合図した。そのキャシーを見送ってから、張会長は俺に話しかけて来た。
「幸子さんから、いろいろと聞きました。健を探しているのですね」
「はい、そうです。健介は私の妹の夫です。健介が日本に帰国していないので、香港に探しにやって参りました」
「2年前、健は勝手な行動をするので、『明永商事』から、解雇されました。彼は香港にいません。大陸に行ったっきり、戻って来ていません。大陸は危険な所です。リュウさん、貴方、日本に帰った方が良い」
「私は会社の仕事を辞めて、やって来ました。健介を探さないで、日本に帰る事は出来ません」
俺が、そう言うと、張会長は、俺を睨みつけた。俺が真剣であるかどうかを確認する視線だった。俺も張会長の黒い目の奥を覗き込んだ。この男が本当に信頼出来る人物であるかどうか・・。張会長が言った。
「貴方は帰れと言っても、帰りそうにないね。分かった。ではパスポートを私に渡しなさい。中国へのビザ申請と航空券の手配をしてあげましょう」
そこにキャシーが戻って来て、俺たちにコーヒーを出してくれた。
「ありがとう御座います。これ、日本の土産です」
俺はそう言って、日本から持参したウイスキーと和菓子を張会長に差し出した。
「謝々、謝々」
張会長は、手土産を受け取ると、軟らかい笑顔になった。コーヒーを一緒に飲んで、俺は少し打ち解けた感じで、張会長と話すことが、出来た。張会長は、俺から預かったパスポートをキャシーに渡し、中国のビザとチケットを準備するよう、キャシーに命じた。それから、また微笑んで言った。
「では今晩、また会いましょう」
「ありがとう御座います」
俺は張会長と握手して、キャシーと会長室を出て、キャシーにビザ申請と航空券手配を依頼した。そして、正午、『帆船酒店』のロビーで再会する約束をした。その後、一人でハーバー通りにある『明永商事』の香港支店に訪問し、石川孝一所長に会い、森田健介が解雇された理由を確認した。すると石川所長は、辛そうに説明してくれた。
「言いづらい事ですが、森田君は中国に出張して、音信不通のことが多く、香港支店にとって、厄介者でした。中国の女に溺れて、会社の金を使い込み、戻って来なくなり、解雇しました。我が社には何の便りもありません」
「そうでしたか」
俺にとって、石川所長からの話はショックだった。俺は、がっかりして、ホテルに戻った。ロビーで少し待つと、キャシーが現れ、近くのレストランでi一緒に昼食を食べた。鯛に似た煮魚、豚足、小籠包、エビの塩ゆで、焼きそばなどをキャシーが注文してくれた。美味しいものばかり。昼食後、『中国通旅遊公司』に行き、キャシーの友人、キャンディに会い、中国ビザのスタンプをしてもらったパスポートと航空券を受け取った。ビザ申請や航空券の代金はキャシーがキャンディに支払ってくれた。キャシーと親しいキャンディから中国旅行の注意点を聞いてから、『中国通旅遊公司』を出て、ホテルに戻るつもりでいると、キャシーがビクトリア・ピークの観光に連れて行ってくれた。張会長に指示されたという。撦旗山の山頂駅のピークタワーに登り、香港市街、ビクトリア港、九龍方面を眺望した。あっという間に、夕刻になり、俺は礼頓道の『松竹飯店』で張会長に歓迎の食事の接待を受けた。その席に若い男が同席した。ニヒルな感じのする男だった。張会長が彼を紹介した。
「リュウさん。彼を紹介しよう。彼は香港人で広東語は勿論のこと、上海語、北京語、日本語、英語を話せるスーパーマン、カオ・リーンだ。今夜から、健を探し出すまで、リュウさんのボディーガードをさせるよ」
「高力英です。よろしくお願い致します」
「豊島流太です。こちらこそよろしくお願いします」
俺は高力英に深く頭を下げた。それから4人でビールで乾杯し、車エビのチリソース、金目鯛の丸煮、ナマコ、アワビ、カモの丸焼き、フカヒレ、小籠包など、食べきれない程、頂いた。俺の歓迎会は夜9時に終了した。張会長はキャシーと一緒に帰り、俺は力英とモリソンヒルのバー『フラミンゴ』に行った。店内は沢山の男女で混雑していた。香港の女たちがステージでポップスを唄って踊り、楽しんでいた。暗い片隅の席で、ウイスキーを飲んでいると、力英の彼女、ソフィアが現れ、3人で楽しく喋り合い、香港の夜を過ごした。健介のことについて質問すると、ソフィアが言った。
「森田さんね。彼は時々、店に来てたけど、何処にいるのやら、2年程前から全然、姿を見せていないわ。日本に帰ったのだと思うわ」
「その森田が日本にいないから、俺は森田を探しに来たんだ。森田について何か知っていませんか?」
「私、日本に行ったことが無いから、森田さんに東京や京都を案内してもらう約束してたの。なのに森田さんが来なくなって、そのチャンスが無くなっちゃった。だから流さん、私が日本に行くことになったら、よろしくね」
「了解。大いに歓迎しますよ。力英と一緒にね」
俺が、そう答えると力英が俺に言った。
「私は3年ほど、日本の神戸で暮らしました。15年ほど前の話です。神戸の中学に2年間、通いました。お陰で、その時、日本語をマスター出来ました」
「そうでしたか。道理で日本語が流暢なんだ。それにしても、香港の人たちが日本語が上手なのに驚かされました。それに比べ、日本人は情けない。自分の語学力の低さが恥ずかしい」
「そんなこと無いよ。日本人、言葉、大変上手。頭脳明晰。私は感心してます。森田さんは、特に広東語が上手でした。広東語は日本人に覚えやすいって」
ソフィアは、そう言うが広東語は難しい。8年前、俺は香港に2ケ月程、滞在したことがあるが、あの時、俺は何も覚えられなかった。いろんな会話をしているうちに、11時を過ぎようとしていた。ソフィアが席を立った時、力英が俺に訊いた。
「女性、要りますか?」
俺は、そう訊かれて、ムッとして、力英に答えた。
「俺は遊びに来たんじゃない。健介を探しに来たのだ。女性は要らない」
俺の言葉に、力英は別段、顔色を変えなかった。
「ではホテルに戻りましょうか」
俺は力英に案内されて、『帆船酒店』に戻った。
〇
今日から3月。『帆船酒店』の窓から見える海の景色は朝日が照り付け、昨日と打って変わって、良い天気だった。高層ビルに住む家々のテラスには、ツツジの花が、赤やピンクに美しく咲いて、如何にこの島が、温暖であるかを証明していた。8時にレストランに行くと、高力英が待っていた。2人で、ゆっくりと食事をして、今日の予定を話し合った。そして午前中、健介が親しくしていたという湾仔の『美山貿易』事務所に行き、田中史郎所長に会い、健介について、何か新しい情報が入っていないか確認した。田中所長は顔を曇らせ、俺たちに言った。
「残念ですが、森田さんの情報は、ありません。我々も1年かかって、森田さんの消息を追いましたが、何の手がかりも得られませんでした。森田さんは『明永商事』以外の仕事をしていたのでしょう。そうでなければ、突然、雲隠れする筈がありません。2年たっても音沙汰が無いという事で、『明永商事』から解雇されたようです。何か情報が入りましたら、我々から『長栄』の会長に連絡しましょう」
「お手数を、お掛けしますが、よろしくお願いします」
俺は田中所長に、これから中国本土に森田健介探しに出かけると説明した。田中所長は何故か気の毒そうな眼をして俺を見詰めた。俺は山田所長に深く頭を下げ、力英と『美山貿易』を出た。昼食は『三越』近くのフードストリートで簡単に済ませた。そして午後、力英と湾仔フェリーピアから、九龍フェリーピアへ向かった。『スターフェリー』に乗船する俺に、ビクトリア・ハーバーの風が冷たかった。九龍の天星フェリーピアに10分程で到着した。『スターフェリー』から下船し、ネイザンロードに足を踏み入ようとした瞬間、俺は突然、11年前のことを思い出した。11年前、俺と森田健介は、この渡し場で荷役のアルバイトをしていた。大学生だった俺と健介は卒業旅行で、マカオに遊びに行った帰り、香港に立ち寄った。その時、九龍公園前の『ミラーマーホテル』に宿泊し、外出中に2人とも金を掏られ、無一文になってしまった。そこで近くにあった『YMCA』に駆け込み、繁華街を散歩中に日本に帰る金を盗まれ、無一文なったので、どうすれば良いか相談した。すると相談を受けた『YMCA]の職員が帰国資金を稼ぐ為のアルバイトをしてはどうかと、アドバイスしてくれた。『YMCA』の職員は親切だった。救世軍の宿舎を提供し、アルバイト先を見つけてくれた。そのアルバイトは船の荷役と道路工事の仕事だった。俺は力英に言った。
「ここらに覚えがあるよ。埠頭の景色も、変わっていないな」
「そうですか。昔を思い出しましたか」
「思い出した。11年前の2ケ月間、俺と健介は、この九龍にいたんです」
「健さんから、教えていただいたきましたよ。『九龍公園』のことも・・」
「えっ、『九龍公園』?」
「手形のことです」
「ああ、手形のこと。今もあるのだろうか」
「あります。あります。案内しましょう」
俺は力英に連れられ、上海街の『九龍公園』入口近くに行き、その場所を力英に教えてもらった。手形はあった。俺と健介の記念の手形の跡は今もくっきりと残っていた。左が健介。右が俺。あれはアルバイトの舗道トロ流し工事が終わった晩だった。健介が俺に言った。
「流太。俺は、もうクタクタだ。このままでは食うのがやっとで、中々、金が溜まらない。下手をすると、この九龍で、一生を過ごすことになるかも知れんぞ。そうなったら俺たちは一生乞食同然だ。最期は、山に埋められて終わりだ。俺たちの存在は無に終わる。俺はこの世に生きた記念として、何かをこの世に残しておきたい。ちっちゃな物でも良いから、この世に残したい。それで良い事を思いついたんだ。俺とお前の記念碑を作るんだ」
「記念碑?」
「そうだ。今日の工事現場の舗道のセメントを流した上に、今から行って、俺とお前の手形を残すのだ。なあ、名案だろう」
「成程、名案だ。ついでに、日付と名前も書こう」
俺と健介は仕事を終えて帰った救世軍の宿舎から抜け出し、今日、コンクリートを流した工事現場へ、手形を残しに出かけた。立入り禁止の柵を越え、まだ柔らかい舗道のコンクリートの上に、俺と健介は自分たちの手形を押し付けた。トロトロしたセメントの冷たさに、2人で顔を見合わせて笑った。ライターの灯りで、名前と日付を記した。そして健介がぽつりと言った。
「俺たちも何時かは、このセメントのように冷たくなって、死ぬんだろうな」
俺はあの時のことが蘇り、歩道の上にしゃがみこんだ。力英が傍にいても気にならなかった。目から涙がポロポロと零れ落ちた。あの時、俺と健介は日本に帰る為に必死だった。日本の家族にSOSを伝えれば良い事であったが、学業をサボって遊びに来ていたので、言い出せなかった。金を稼ぐ為、2人で汗水流し、懸命に働いた。俺が病気になって働けなくなると、健介が一人で頑張ってくれた。お陰で日本に戻ることが出来た。俺は健介の手形の上に俺の掌を重ねて言った。
「何処にいるんだ。健介」
俺は深く溜息をついた。それから立ち上がり、力英と香港島に戻ることにした。
〇
香港島に戻ってから、俺は力英に連れられ、ビクトリア・ピークの山裾にある張成安会長の邸宅に訪問した。その邸宅は、一見、普通の白い洋館だったが、実は堅牢な鉄筋コンクリートの建物だった。全ての窓が、鎧戸式になっており、分厚い壁が各部屋を仕切っていた。鉄製のゲート前にタクシーを停めると、警備員とキャシーが、俺たちを迎えた。自動ドアを幾つか潜り抜け通されたのは豪華な応接室だった。窓からは九龍湾や南シナ海を一望することが出来た。張会長は、俺の訪問を待ち構えていた。
「いらっしゃい。どうぞ、お座り下さい」
「ありがとう御座います。今日、一日、力英さんに、同行してもらい助かりました」
「それは良かったですね。いよいよ、明日、出発ですね」
「はい」
「健が見つかりそうに無かったら、直ぐに帰って来るのですよ」
「そういう訳には参りません」
「リュウさん。中国は危険な所ですよ。長居は危ないから、ビザの切れないうちに帰って来るのですよ」
「健介が見つかれば、直ぐに帰って参ります。しかし、見つからない時は探し続けます」
俺がそう言うと、張会長は厳しい顔をした。
「リュウさん。貴男、命を捨てる覚悟ね」
「命を捨てようとは思っていません。命懸けで頑張ります。必ず生きて帰ります。健介を連れて帰ります。万一、健介が誰かに殺されているようなことがあれば、健介を殺した奴を殺して帰ります」
「おお、ストロング・ファイティング・マン!」
「そうです。私はファイティング・マンです」
「でも、如何にファイティング・マンであっても、文明の利器には勝てないよ」
次の瞬間、俺の胸に銃口が突きつけられていた。俺はびっくりした。早くも、こんな窮地に立とうとは全く予想していなかった。恐怖に言葉も出ない。俺の背筋に冷たいものが流れた。すると張会長は笑った。
「これと同じガンを、貴方にプレゼントするね」
「チャン会長、突然、驚かさないで下さいよ。ここで撃たれるのかと思いましたよ」
「リュウさん。よろしいですか。中国は、危険なところですよ。油断大敵ね。親しい人でも疑ってかからないと、とんでもない落とし穴に落ちますよ。今のように無防備ですとやられますよ。だから武器をプレゼントするね」
「ありがとう御座います」
「そうは言っても、今、直ぐにプレゼントしないよ。ガンを所持して飛行機には乗れないからね。貴男が中国に入国してガンプレィをマスターしてから、中国でプレゼントするね」
「サンキュー、サンキュー。ミスター・チャン」
俺は張会長が拳銃を背後の棚にしまったので、ホッとした。ここで殺されるのかと思った。しかし、そうではなかった。張会長は俺に教示してくれたのだ。どんなに親しい相手でも、決して心を許してはならないと。
「健は中国に行ったきりで、深い付き合いの私とも、全く音信不通なのだ。捜査員を派遣したが、そいつらも帰って来ない。もしかすると殺されたのかもしれない。生きているとしたら、北へ運ばれたのだろう」
「北?」
「リュウさん。貴方は、私の言う北とは何処かと思うでしょう。中国を見る香港人は、中国を東西南北に分けて呼ぶのです。世界の人たちは、中国を詳しく理解していない。中国は人口12億。22の省と5つの、自治区、3つの直轄地からなっています。一つの省が、一つの国と言えます。省によれば、言葉も違い、顔つきも異なる。そこで行われている政治だって違っている。社会主義共和国政治と称しているが、どちらかと言えば専制国家の寄せ集まりだ。それを共産党がまとめている。だから当然の事、東西南北で、世界観が違い、悪い奴らの絶好の隠れ場になっているのだ。健と何の連絡がとれないのは、そういった悪い奴らが、捜査不可能の地に、健を連れ去ったのだと思う」
「中国には、そんな不可解な場所があるのですか?」
「ある。北京語や広東語を使っても、通じない所がある。エリートだけが北京語の読み書きが出来る世界だ。従って共産党が国家を優越指導権をもって統一している形にしているが、その陰に隠れて悪事を働く集団が幾つも存在している」
「恐ろしい国ですね」
「その恐ろしさに対処する為、貴方は、ガンプレイをマスターしなければならない。ガンは、貴方を救ってくれる」
「中国は一番、安全な国と聞いていましたが・・」
俺が、そう言うと、張会長は大声で笑った。
「日本人の多くが、同様の事を言う。日本人は甘い。しかし何時か分かる時が来る。兎に角、明日から貴方は中国だ。無事、健を見つけ出して戻って来る事を願い、食事をしよう」
俺と力英、キャシーは、その言葉に従い、張会長の後について、張家の食堂に移動した。俺は張会長に決められた席に座った。そこへメードに案内され、張会長夫人と子供たちが現れた。張会長が家族に俺を紹介し、その後、自分の家族を紹介した。子供は女の子1人、男の子3人の計4人。まず皆で乾杯してから、張会長が言った。
「私は自分にとって重要人物と食事をする時は、この自宅の食堂を使います。ここは安全です。アメリカやイギリス、日本の政治家を招待したこともあります。日本の歌手も、何人か招待しました。健もお客さんを連れて来たことがあります。賑やかでありませんが、繁華街と違って、他人に気を使ったり、邪魔されることがありません。お客様にも、安心して食事をしていただけます。私は気が小さくて用心深い男なので、ここが良いのです」
「張会長の家は、まさに国際会議場ですね」
俺が調子に乗って、褒めちぎると、張会長は、夫人と顔を見合わせ、満足した笑みを見せて、大声で笑った。力英もキャシーも笑った。それからキャシーが俺に訊いた。
「今日の観光は、如何でしたか?」
そう訊かれて、俺は高力英と『美山貿易』に訪問した後、午後に九龍に行った話をした。
「今日は午前中『美山貿易』に訪問し、その後、ビクトリア湾のフェリー観光を楽しみ、九龍公園まで行って来ました。素晴らしかったです。でも香港で一等、素晴らしい景観は、ここからの眺めです」
そんな説明をすると、皆がドッと笑った。それから俺は九龍公園前の手形の話をした。力英が見ているのに恥ずかし気も無く舗道に這いつくばって、涙を流した話をした。その話を聞いて、張会長の家族やキャシーが目に涙を浮かべた。すると張会長が、俺の話に付け加えた。
「素晴らしい友情の話だ。あの時の健は必死だった。病気になった貴方を助ける為、泥まみれになって働き、香港中の日本人を訪ねて回った。しかし、薄汚い健の姿を見て、健に手を差し伸べてやる奴はいなかった。私が健と出会ったのは、日本の銀行の窓口で、健が借金の申し込みをしている時だった。日本の銀行が、パスポートを見せても、日本人かどうか分からない、取引のない見ず知らずの男に金を貸す筈が無かった。健は真っ青な顔をしていた。日本人だと言っても、パスポートの写真を見せても、信用してもらえなかった。その健の辛さは他で見ていても、気の毒でならなかった。私は死にそうに辛い顔をしている健に近づいた。そして、彼に帰国の金を貸してやることを約束した。一週間後、彼は、借金は必ず返すからと言って、私が準備して上げた日本への土産を手に、貴方と日本に帰って行った」
俺は張会長からの話を聞いて驚嘆した。あの時の命の恩人が、今、一緒に食事をしている張会長とは・・。全く知らなかった。何という巡り合わせか。俺は慌てて張会長に頭を下げた。
「張会長。申し訳ありません。貴方があの時の私たちの命の恩人とは、今まで全く知りませんでした。健介の奴、私に教えてくれませんでした。全く申し訳ありません・あの時の御恩、一生涯忘れておりません。改めて心より感謝申し上げます」
「頭を上げて下さい。礼など言わないで下さい。もう、貴方の分も含め、健が充分、恩返しをしてくれました。それが行き過ぎて、健は行方知れずになってしまったのかも」
「帰国のチケットを手にした時、健介は病身の私に言いました。大学の先輩が、香港の小さな商社の香港支店にいて、その人から借金して帰国の航空券を購入したと言っていました。それは嘘だったのですね。私は彼が嘘をついていたと気づきませんでした。本当に申し訳ありません」
俺は、あの時の事を思い出して、張会長に再び深く頭を下げた。すると張会長は、隣に座る俺の肩を叩いて言った。
「なあに、総ては過去の事。気にすることはない。健は帰国後、直ぐに借りた金を私に送金してきました。私は誠実な彼の心に感心しました。そして2年後、大学を卒業した健は、『明永商事』香港支店の社員となって、私の前に現れました。彼は私の会社に沢山の仕事を回してくれました。彼のお陰で、私の会社は発展し、こんな家を持てるようになったのです。健こそ、私にとって恩人です。心からの友達です。その友人のリュウさんも、また私の大切な友人です」
俺は、それを聞いて、泣きそうになった。張会長は、私に再度、乾杯を要求して来た。俺は勢い良く乾杯した。目の前の命の恩人に礼の言いようがなかった。張会長は更に喋った。
「健は、私に何もかも話してくれました。あの『九龍公園』の手形の跡の事も、健から教えられました。私は、この目で貴方と健の手形とサインを見ました。あれは小説に出て来るような素晴らしい青春の記念碑です」
「そうですか。張会長はあの場所をご存じだったのですね」
「その通りです」
張会長が、そう答えると力英が付け加えた。
「今日、私が流さんたちの手形の跡に流さんを連れて行くことが出来たのも、以前にボスから、あの場所を教えてもらっていたからです。でも、びつくりしました。健さんの手形の上に自分の掌を重ね、舗道に頬摺りして、涙を流した流さんの姿を見て、健さんと流さんは、肉親のような固い絆で結ばれているのだと確信しました」
するとキャシーが、羨ましそうに言った。
「男の友情ね。素晴らしいわ」
そこで張会長は男たちの友情の為にと言って、皆に、また乾杯を求めた。俺は健介と張会長の関係を深く理解した。張会長と健介は昔の出会いによって生まれた信頼感から、相互利益向上の為に、数年間、苦楽を共に頑張って来た仲間なのだ。俺は次第に、健介がどんな仕事をしていたのか、想像することが出来た。張会長邸での食事会は午後8時に終了した。俺は張会長たちとの再会を約束し、ビクトリア・ピークの張成安会長の邸宅を離れた。力英もキャシーも一緒だった。2人とはホテル『帆船酒店』のロビーで別れた。
〇
昨日と同様、眩しい香港の朝。午前8時に高力英とホテルのレストランで朝食。9陣半になると、キャシーがやって来た。彼女は力英に中国出張の資料や旅費を渡し、俺の護衛を依頼した。
「任せとけ」
力英は、そう言って笑った。10時にホテル『帆船酒店』をチェックアウト。3人でタクシーに乗り、『啓徳国際空港』へ向かう。海底隧道を通り、九龍に抜け、30分足らずで『啓徳国際空港』に到着。空港の『中国国際航空』のカウンターに行き、荷物を預け、搭乗手続きを済ませ、見送りに来た、キャシーとさよなら。出国手続きを済ませて、12時5分発のCA304便の搭乗を待つ。ところが広州が霧と言う事で飛ばず、長時間、出発ラウンジで待機させられ、ラウンジ内で昼食を済ませた。午後3時になっても、予定が立たず、結局、CA304便の飛行は中止になってしまった。その為、8時間後の20時5分発の別便、CA318便に搭乗した。力英が笑って言った。
「これが中国の航空機関の実情です。中国に入ったら気長に構えて行動しないと、精神的におかしくなります。焦らず、ゆっくりと行きましょう」
そして飛び立ってからは、あっという間の、飛行だった。中国の『広州白雲空港』には20時30分に到着した。『広州白雲空港』施設は、田舎の小学校のような建物だった。その建物内で中国への入国手続きと荷物検査を済ませて、外に出て、タクシーを拾った。俺たちを乗せたタクシーは空港からポプラ並木を突っ走り、川沿いの『白天鵝賓館』に到着した。中国とは思えぬ別名『ホワイトスワン・ホテル』と称する立派なホテルだった。そこのロビーに行くと、中国人の周清原という男が待っていた。チェツクインして、俺は604号室に、力英は隣の605号室に泊まることになり、3人で近くのレストランで食事をしながら打合せをした。高力英が、まず俺に言った。
「今日から1ケ月、広東に滞在します。明日から周先生の家の合宿所に逗留し、武術の訓練を行います。この1ケ月間は体力を鍛え、格闘技や射撃の腕を磨くことに専念し、他の事は一切、考えないで下さい。私も一緒に練習します」
「分かりました」
俺は驚いた。かって森田健介が訪問していた北京方面に明日にでも移動するのだと考えていたが、その予想は外れた。キョトンとする俺を見て、周清原は笑った。
「私の家、麓湖の近くにあります。2人の部屋を用意しました。リュウさんの中華料理の好物、何ですか。教えていただければ、合宿所のコックに準備させるよ」
「ありがとう御座います。私には好き嫌いがありません。中華料理、何でも好きです」
「分かりました」
「ところで周先生は、健介を知っているのですか?」
「ケンスケ。不知道。知らないね」
周清原は、健介とは、全く無関係の世界の男だった。力英とは格闘技教室での師弟関係だった。周清原が教師で高力英が生徒の間柄だった。2人は、いわば闇の世界の人間のようだった。そんな怪しい周清原は屋台での打合せを済ませると、俺たちに言った。
「明天、九点半、ホテルに迎えに来る。チェックアウト、よろしくね」
「明白了」
力英は、そう返事して、周先生にバイバイした。周先生の後ろ姿が消えてから、力英が周清原について話してくれた。
「実の事を言うと、周清原は、もと人民解放軍の軍人だった。50歳で軍隊を辞めて、船山市の兵器製造工場の副工場長になっていたが、何時の間にか、そこを辞めて、広州市に移り住み、通訳まがいの仕事を始め、かたわら、格闘技の指導をしている。張成安会長は、ふざけて周先生の事を、イイヤン老師と呼んでいる。私は張会長の命令で、イイヤン老師の弟子になった」
そんな会話をしながら夜食を済ませ、俺たちは『ホワイトスワン・ホテル』に戻った。604号室のベットで横になったのは午後11時過ぎだった。ちょっと疲れた。
〇
パール・リバーと呼ばれる珠江を行き来する船の汽笛で目が覚めた。部屋の窓を開けると冷たい朝霧が河面から流れ込んで来て、俺を緊張させた。ここは中国、中華人民共和国だ。最高指導者、鄧小平が日本と友好的に振舞って、改革開放政策を進めているが、民主化については考えていない。人民解放軍を掌握し、外国人と中国人の癒着を危惧し、公安に外国人を監視させている。健介がそう言っていた。それにしても、そんな中国に珠江を通じ、いろんな船が出入りしている。午前8時、俺は1階ロビーで高力英と合流し、『リバーガーデン』で朝食を楽しんだ。珠江を眺める河辺のレストランは、目の前で揺れる水辺の波が音を立て、素晴らしく爽快だった。キラキラする河面を見ながら、スクランブルエッグ、クロワッサン、野菜サラダ、バナナ、ライチ、オニオンスープなどを口にした。特に新鮮なオレンジジュースが美味しかった。食事を終えるや、力英はキャシーに電話を入れた。俺はこっそり、小池祐子宛てにテレックスを送った。俺の所在を知らせておく為だ。午前9時半になると、周先生お抱えの運転手が、ホテルに俺たちを迎えに現れた。高力英と俺は、『ホワイトスワン・ホテル』のチエックアウトを済ませ、荷物を車に乗せて、ホテルを後にした。車はガジュマルの並木道を通り抜け、海珠橋の手前を通り、そこで左折して、解放路を北上。環市東路を越えて、登峰という町に入ると、周清原が経営する『白雲山練武場』に到着した。その道場は石塀に囲まれた広い敷地内にあり、外から中を覗くことが出来ないように設計されていた。まさに秘密屋敷だ。俺と力英は、そこの客人となり、まず周清原先生に挨拶し、謝士俊コーチに、いろいろ教えてもらった。宿舎では、2人、一緒の一部屋を使用。トイレは共同。風呂場も共同とのこと。そんな説明を聞き、部屋に荷物を置いてから、休憩することもなく、屋敷内を歩き、体育館のような道場を見学。あっという間に昼になってしまった。宿舎の隣にある食堂で昼食。その後、1時間休息。午後2時から、道場内の個室で、周先生から銃砲についての基礎教育を受けた。トリガー・バー、シァ、リコイル・スプリングなど、初めて耳にする言葉が多かったが、黒板に張られた拳銃の図面を見ての説明だったので、分かり易かった。周先生は射撃の基本は精神統一と腰を入れた姿勢であると、幾度も強調した。そして、毎日の繰り返しの運動が大切であると教えてくれた。拳銃の構造説明と射撃の基本説明で、午後いっぱいを費やした。密度の濃い武器説明だった。夕方、謝コーチと10キロ走った。俺だけがフラフラになった。力英の走り方は、謝コーチより、しっかりした走り方だった。謝コーチは、びっくりした。周先生から、高力英のことを、『白雲山練武場』の卒業生とは聞いていたが、力英のスプリンターのような強靭な足に感心した。相当に練磨されている男だ。走り方に無理が無く、余裕があった。射撃についても、さぞかし上手に違いない。『越秀公園』をひとまわりして、道場に戻ると、食堂で夕食が準備されていた。俺は力英と一緒に食堂に行って、練習生たちと一緒に、夕食をいただいた。〈食は広州にあり〉と言う言葉通り、本場の広州料理は美味しかった。食事を一緒にしながら、周先生が、俺に言った。
「今日の訓練は、まだ序の口だよ。明日から訓練がきつくなるが、大丈夫かな?」
「大丈夫です」
俺は強がりを言った。そんな俺を見て、周先生と力英が笑った。
〇
翌日から『白雲山練武場』の本格的訓練が始まった。高力英は俺の通訳に徹した。俺と一緒に訓練してはいるが、決して自分の腕前を誇示するようなことをしなかった。むしろ隠そうとしているような気配を感じた。周清原先生は時々、武術の対戦時の精神的心構えや拳銃のメンテナンスの指導をしてくれる程度で、練習のほとんどを、謝士俊コーチに任せっきりだった。日課は次のように決まっていた。
午前 5時 起床
6時 ジョギング
7時 朝食
8時 理論(構造、整備、姿勢他)
10時 体操(体力つくり)
午後 0時 昼食
1時 睡眠
2時 射撃練習(環市中路)
4時 格闘技練習
5時 メンテナンス及び道場掃除
6時 ジョギング
7時 夕食
8時 自由時間
10時 消灯、就寝
射撃実習については環市中路の射撃場と白雲湖畔実弾射撃場まで車で行って練習した。一般公開されている射撃場で、謝コーチは、いずれの射撃場でも顔役だった。一般人と違い、道場の練習者を引き連れ謝コーチは俺たちに、射撃の指導した。俺の傍には力英が付きっきりで、射撃場の従業員は俺に関与することは無かった。初心者の俺に、謝コーチ自ら俺に射撃指導してくれた。初めて、アストラを握った時、拳銃が予想以上に軽いので、びっくりした。こんなに軽い物とは思わなかった。まるで、オモチャを握らされている感じだった。謝コーチは俺に防音用耳当てを付けさせ、アストラに実弾を込めさせると、標的を10メートルにセットして、俺に言った。
「あの標的の中心点、目掛けて撃ってみろ」
その指示に俺は息を飲んだ。震えながら拳銃を右手で握り、真っすぐに構え、右手の親指を使って、ハンマーを下へと下げた。それから標的に狙いを定め、右の人差し指で引き金を引いた。
「バーン!」
練習場内に銃声がこだました。弾丸が発射された瞬間、俺は、その衝撃で後ろに仰け反りそうになった。俺は火花と哨煙を目にして興奮した。何とも言えぬ感触だった。哨煙の臭いがして、足元に空の薬莢がころがっていた。標的を見たが、当たっているのか外れたのか分からなかった。初めて拳銃を発射して、興奮している俺に、謝コーチが言った。
「弾丸、まだ9個、残っているね。リュウ、全部発射する。よろしね」
「オッケー」
俺は続いて、9発、撃った。腕がしびれた。哨煙の臭いの中で、謝コーチと力英が笑った。力英が楽しそうな顔をして言った。
「標的紙を見ましょう。命中の跡が有るか無いか」
謝コーチが標的紙回収ボタンを押し、戻って来た標的紙をケーブルから取り外し、俺に見せた。縦横53センチの角型標的紙に、俺が発射した弾跡は一つも無かった。謝コーチは笑って俺に標的紙を渡した。
「リュウ。実戦なら、貴方、死んでる」
確かに謝コーチの言う通りだった。それから謝コーチの指導の言葉を力英が通訳してくれた。
「リュウは昨日、周先生が講義したことを忘れてしまっている。射撃の基本は姿勢と精神統一である。拳銃が軽いからといって、片手で使ってはいけない。しっかり両手で目の位置に固定し、それから引き金を静かに引く。これを守れば確率50パーセント標的に命中する。発射の衝撃で、ヘッドが上がると計算して撃っているようだが、その計算は誤りです。ヘッドが上がるのは発射後のことで、狙う先はただ1点先。標的と銃口を目で一直線に結び発射することが基本です。アメリカの西部劇映画に出て来るような片手撃ちが出来るようになるには、10年かかる。引き金をどんなにゆっくり引こうとしても、必ず引き指に力が入ってしまう。すると弾丸の方向は、その時の握りの条件により、左右にそれてしまう。これらを無くすには、まず姿勢である。どんな体位であっても、銃口が標的と直線であることです。以上の内容を、よく理解して、もう一度、撃ってみて下さい」
謝コーチは再びマガジンに弾丸を詰めると、俺に別のアストラを差し出した。俺は、そのアストラを受け取ると、今、力英を通じて謝コーチから指導してもらったことを忠実に守り、心を落ち着かせた。小さなリアサイトから拳銃の先端のフロントサイトの星印を重ね合わせ、その向こうにある標的紙の中心に照準を合わせ、10回、発砲した。標的紙に弾が当たっただろうか。押しボタンを押して標的紙を引き戻して確認すると、10発のうち8発が、標的紙に当たっていた。標的紙の中心の直径20センチの中心円に入っているもの2発、50センチ円に入っているもの5発、標的紙の隅に当たっているもの1発だった。謝コーチは直径20センチの中心円内に10発全部が命中しなければ駄目だと言った。しかし、それは至難の技術だった。俺が渋い顔をすると、力英が笑みを浮かべた。
「兎に角、謝コーチの言う通りです。拳銃を軽々とあやつる銃技を覚えるのは、その後です。敵を倒すには早打ちより、狙った所に正確に命中させることです」
俺は謝コーチと力英の指導を受け、射撃に特別な興味を抱くようになった。
〇
『白雲山練武場』での訓練は厳しかった。特に体操とジョギングは辛かった。講義はいろんな実習をしてから面白くなった。1週間すると射撃実技も謝コーチのいう、直径20センチの中心円内に百発百中近く命中するようになった。練習するのとしないとでは大差があると実感した。2週間経つと、直径10センチの中心円内に80パーセント当たるようになった。3週間目には、標的紙を使わず、謝コーチが投げるコーラの缶を狙った。遠くや近くの距離感も把握し、静止してい物から飛行する物まで命中させることが出来るようになった。謝コーチは張会長から頼まれた『白雲山練武場』での訓練はほとんど、終わったと言った。その報告を受けた周清原先生は高力英と一緒に俺と面談し、こう言った。
「ここで良い成績が得られたからといって、慢心してはなりません。まだまだ未熟な点が残っている。それを忘れずに行動して下さい」
「まだまだ未熟な点とは、何ですか?」
「言うまでもありません。実戦、実体験を重ねる事です」
「実体験?」
「そうです。敵と戦うことです。イラクかイランに行って、軍隊に入り、血まみれになり戦ってみますか?」
「それも良いですが、私には不可能なことです。一時も早く健介を探さなければなりません」
「そうですね。予定通り4月3日で卒業と致しましょう」
俺は、ようやく卒業出来ることになり、ホッとした。そして3月31日の日曜日、俺と力英は香港のキャシーからの連絡を受け、以前、泊ったことのある『ホワイトスワン・ホテル』に出かけた。キャシーから森田健介の恋人と連絡が取れたので、『ホワイトスワン・ホテル』の日本料理店で会うようにとの指示を受けたからだ。ホテルに行って日本料理店を探すと、『平田』という店があった。そこに入り、日本茶を飲んでいると、趙麗華という女性が待合せ時刻に現れた。
「豊島さんと高さんですか?」
「はい」
「はじめまして。私は趙麗華です」
「你好。私が豊島流太です。よろしくお願いします」
「私は高力英です。豊島さんのガイドです。食事をしながら話をしましょう」
力英がそう言ったので、俺は和服姿の仲居に和食料理とビールと日本酒を註文した。力英は麗華との会話をこう切り出した。
「キャシーから、貴方が森田健介さんと、お付き合いしていた方だと教えてもらいました。森田さんが、現在、何処にいるか知っていたら、教えて下さい」
すると彼女は泣き出しそうな顔ををして答えた。
「健さんは何処にいるのか、消息不明です。出張すると言って、出かけたまま便りも無く、帰って来ないので分かりません」
俺たちは、その返事に驚かなかった。麗華は22か23歳の健介好みの顔立ちをした女性だった。俺は彼女に訊ねた。
「健介と最後に会ったのは、何時ですか?」
「一年半前の夏のことです。健さんは北京に戻ると言って、出かけました」
「北京に戻ると言ったのですか?健介の居場所は香港でしょう。それなのに何故北京へ戻ると?」
「仕事だと言っていました。以前は厦門に月に一度か二度、出かけていましたが、北京事務所での仕事があってから、厦門には行っていないようです」
麗華は食事をしながら、俺や力英の質問に答えた。彼女は健介と日本料理を食べたことがあったらしく、マグロの刺身も抵抗なく食べた。何度か健介と、この店にも来たことがあると言った。日本酒を飲ませると、彼女は多弁になった。
「厦門は、私の生まれ故郷です。健さんを何度か案内しました。私は健さんに幼馴染みの男を紹介しました。宋光明という食堂経営者の息子です。彼は父親の経営する大食堂の仕事を手伝っていて、大変、お金持ちです。健さんは光明と親友になり、彼のお陰で沢山の仕事を契約しました。缶詰工場、紡績工場、電気工場、機械工場に、沢山の機械や設備を販売しました。勿論、光明に口利き料を支払っていましたが・・」
「健介が厦門にいるということはありませんか?」
「分かりません。いれば光明が教えてくれる筈です。光明が秘密にしても、私の友人が教えてくれます。だから厦門にはいないわ」
厦門に健介がいないと麗華が言ったが、俺は、その厦門を健介捜索の足掛かりにしたかった。厦門に訪問すれば、健介の足取りについて、何か知ることが出来るような気がした。彼女の話を聞いて、力英が、俺の顔を見た。俺と同感のような目つきだった。光明という男が健介の仕事の状況を知っていると思った。麗華は、それを隠している。俺と力英は、麗華に健介のことについて、深く追求するのを止めた。何故なら、追及すれば追及する程、健介が遠のくような気がしたからだ。話題を厦門の話に転じた。福建人や台湾人について訊くと、麗華は経済的に発展している台湾に移った福建人が多いと語った。彼女はまた集美地区や鼓浪島など素晴らしい所があると詳しく話してくれた。『平田』で酒を飲みながら、俺はふと、日本で朗報を待っている母、茂子や妹、紘子のことを思い出した。彼女たちは心配しているだろう。広州での訓練を終えたら近況を知らせてやろうと思った。小池祐子にも・・。
〇
『香港長栄実業』のボス、張成安会長が広州の武術家、周清原に依頼した『白雲山練武場』での基本教育は4月5日で終了した。俺は練武場主の周清原先生とコーチをしてくれた謝士俊に、お世話になった御礼をする為、2人をレストラン『南国酒店』で接待することにした。『南国酒店』は広州でも有名な料理店だという事で、高力英が、時刻、メニューなど選択して、予約してくれた。その『南国酒店』は海珠橋を渡って、『中山大学』に行く途中にあり、俺たちが到着すると、爆竹が鳴った。俺がびっくりすると、周先生が笑った。
「爆竹の音に、びつくりするようでは、まだまだ。あと1ケ月、うちの練武場に残ってもらわないと駄目かな」
「そうですね」
謝コーチも、そう言って笑った。
「そんなこと言わないで下さい。私は人探しを急なければならないのですから・・」
4人が笑い声を上げ、店に入ると、池の畔にある角楼に案内された。俺たちは、その角楼の中で乾杯した。この宴会は俺たちの卒業祝いを兼ねた先生たちへの謝恩会でもあり、送別会であると思うと、何故か嬉しいような寂しいような複雑な気分になった。少し酒を飲むと謝コーチが俺に言った。
「リュウ。貴方は規定期間内に、射撃の腕をマスターした。しかし、周先生が仰ったように、まだ実戦体験をしていない。これが一等、危険だね。実技練習で上手になっても、実戦上手になったとは言えないよ。これから、リーン先生との旅が始まる。敵は四方からやって来る。だが無暗に銃を使ってはならない。人民解放軍や公安に気を付けることね」
「アドバイス、ありがとう御座います。私はいざという時、意外、拳銃を使用しません。周先生や謝コーチの教えを守り、護身用にだけ使い、無益な射ち合いはしません。『白雲山練武場』の卒業生として、武術を正しく使います。正しい生き方をします」
すると、周清原先生は、海老をしゃぶりながら、俺を睨んだ。ナプキンで口をぬぐって、あざ笑った。
「正しい生き方。それ、どういうことだね。張成安会長が私に紹介した人とは思えない発言あるね。私は正しい人、大嫌い。悪党、大好き。この世に正しい人はいないに等しい。生きる為なら、人は悪い事と分かっていても実行する。これが人間。この世は正しいだけでは生きて行けない。常に懐疑心を持って行動しないと、誰かにやられる。私、正しい生き方など、リュウに教えていない。貴方に教えた事、人と戦う時の戦法と銃さばきよ。悪い事、教えたね。兎に角、リュウ、粋がらないことね。『白雲山練武場』の卒業生は、皆、悪党だよ。悪党を倒す悪党よ。それを肝に銘じて生きる事ね」
俺は頷いた。俺が生きる道は悪の道なのだ。これから悪に徹する悪党にならなければ、命を奪われる。俺は周先生が、最後に俺に伝えようとした生き方の意味が、分かったような気がした。更に隣席の力英が付け加えた。
「リュウさん。私は今日から、貴方の事を、リュウと呼びます。貴方も私の事を、リーンと呼んで下さい。また、周先生が仰られたように、私にも気をつけて下さい。昨日の友は今日の敵になることがあります。私も『白雲山練武場』の卒業生です。周先生が申されたように、私たちは悪党に勝つ為に、悪党より更に悪党にならなければならないのです。目には目を、歯には歯をということです。今、こうして食事を共にしていても、明日には敵になるかも知れないのです。それが大陸での生き方です」
「つまり、大陸で生きて行く為には、常に悪党であることが賢明な生き方だと・・」
「そうです。この世界には正義などというものは存在しない。また正者も存在しない。本来、この地に生きる人間は、皆、悪党なのです。周先生がリュウに教えたことはただ一つ、〈より強くなれ〉ということです。それを心に頑張って行きましょう」
高力英は、、そう言い終わると、俺を見詰めた。すると周清原先生が、膝を叩いて喜んだ。
「流石、リーン。その通りよ。もし、この世に正義があるとしたら、それは強い事ね。強い事がこの世の正義ね」
俺は周清原先生と高力英の一本化された思想に感心した。この2人の性悪説は、まさに中国春秋時代の思想家、荀子の考え、そのものだった。2人は悪党に徹しながら善を希求していた。俺は、香港で初めて会った張成安会長が、突然、俺の胸に銃口を突きつけた瞬間を思い出した。健介が付き合っていた張成安は、目の前の3人より、もっと悪党かもしれない。レストラン『南国酒店』での料理は変わった物が多かった。スッポン、山椒魚、カエルなどの料理は、中々、美味しかった。子豚の丸焼き、アヒルの水掻きなどといった料理は苦手だった。竜虎闘といった蛇料理になると、全く手が出なかった。竜虎闘が運ばれて来た時、力英がアオダイショウが材料だと説明したからだ。力英は周先生と謝コーチに笑って言った。
「リュウに料理の説明をしなければ良かった」
そんな楽しい宴会も2時間ちょっとで終わり、4人とも、ほろ酔い気分で『白雲山練武場』に帰った。周先生の屋敷近くの宿舎に戻ると、俺と力英は、明日の出発準備にかかった。木綿花、羊蹄紅が美しく咲く『白雲山練武場』から、明日、離れるのだと思うと、何故か、もう少し、滞在していたい気持ちになった。しかし、留まってはいられない。親友、森田健介を一時も早く探し出さねばならない。健介の所在を突き止め、彼を日本に連れ戻さなければならない。妹、紘子の為にも、姪の仁美の為にも・・。
〇
翌日、俺と力英は周先生や謝コーチにお別れの挨拶をして、『広州白雲空港』へ行き、厦門行きの飛行機に乗った。ジエット機での飛行は1時間20分。初めて見る厦門は、美しい海岸都市だった。東洋の地中海と呼ばれるにふさわしい台湾海峡に面した温暖の洋風都市だった。俺と力英は、かって日本によって建設された『厦門高崎空港』から、タクシーを拾い、『海浜公園』の隣にある『鷺江賓館』へ行った。ホテルのチエックインを済ませ、部屋に入ると、そこの窓から、趙麗華が言っていた鼓浪島を望むことが出来た。まさに絶景だった。昼食後、ホテルのフロントで、有名食堂の経営者の息子、宋光明について訊ねてみたが、フロントにいた連中は、宋光明について、誰も知らなかった。そこで、俺たちは夕刻になる前から、街に出て、大きな食堂を見つけ、宋光明を知らないかと訊いて回った。海鮮料理店、焼き肉料理店、火鍋料理店などに訪問したが、宋光明の情報は得られなかった。夜になって、お好み焼き店に入り、2人で酒を飲み、春巻などを食べ、趙麗華の悪口を言いながら、何の情報も得られなかった事をぼやき合った。
「麗華の奴、健介の親友が大食堂の経営者の息子、宋光明だと嘘を言ったのでは?」
「それは無いだろう。多分、今日、会った連中の中に、宋光明を知っている者がいたに違いない。だが、私たちが2人で訪問したから、公安調査官だと思われ、用心されたんだよ」
「そうだろうか?」
「そうに決まっている。だから明日は、私1人で宋光明を探す。リュウは観光でもしていてくれ」
「でも」
「いいんだ。私に任せろ。日本人では手を出せんことだから・・」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、力英は頷いた。この調子だと、健介を探し当てるのに相当、時間がかかるのではないかと思われた。
〇
4月7日の日曜日、高力英は、『鷺江賓館』のレストランで俺と一緒に朝食を済ませると、1人で、宋光明を探しに出かけて行った。俺と2人で行動すると、人目につき、公安調査員ではないかと疑われるという事で、1人で街に出かけた。俺は仕方なく、午前中、ホテルの部屋で、簡単な今までの伝票整理や日記などを記録して過ごした。そして、ホテルのレストランで昼食を済ませてから、正午過ぎ、時間つぶしに厦門の観光に出かけた。まずはホテルの前の乗船所から、船に乗り鼓浪島に渡った。鼓浪島はコロンス島とも呼ばれ、厦門本島から、500メートル程の所にあり、まるで日本の江の島みたいだった。島には土産店や、食堂、ホテルなどがあり、観光客でいっぱいだった。坂道を上り下りして、『延平公園』へ行ってみた。前方の青い海を、幾つもの船が往来していた。この海の向こうに台湾があるのだと思うと、それに関連して日本が思い出された。公園内を一周してから、砂浜に出た。魚を釣る老人、絵を描いている少女、水着で走り跳ぶ若者など、中国とは思えぬ光景に巡り合った。それらを目にして、俺は鄧小平の改革開放政策によって、中国の沿岸都市が、変化し始めているのを肌身で感じた。『老人保養所』の脇の坂道を登り、『日光岩』に向かう途中、俺は、危険に遭遇した。突然、2人の暴漢に襲われた。レンガ塀の上から1人の男が跳びついて来た。余りにも突然の事なので、びっくりした。と同時に、俺の跡からつけて来た、もう1人の男が俺の足にしがみついた。
「危ないじゃあないか。何をするのだ!」
そう叫んだ途端、俺は首に跳びついた男を背負い投げで、投げ飛ばした。うまく決まった。男は石段に顔をぶつけて、血に染まった。もう1人の足にしがみういた男は、仲間の血みどろの顔を見ると、叫び声を上げて逃走しようとした。俺の五体に闘志がみなぎつた。俺は逃げようとする男の首根っこを掴み、誰に命令されたか、問い詰めた。
「不知道、不知道」
男は知らないの一点張りだった。俺は観光客の目が集中する中で、更に男の首を絞めつけた。その時だった。
「バアーン!」
銃弾が俺の耳元をかすめて、俺の脇のレンガ塀に突き刺さった。石段の上の発射地点に女の影があるのを目撃した。俺は男を突き飛ばし、その女を追った。坂道を駆け上がると、そこにはもう女の陰は無かった。俺は、このまま鼓浪島にいては危険だと思った。日光岩には登らず、慌てて船の発着所に戻った。こんな所で、恐ろしい目に遭おうとは、想像していなかった。俺は船に乗っても落着かなかった。如何に空手や柔道の技を鍛え、射撃技術を習得したといっても、突然、襲われるということは恐怖だった。向う岸に見える『鷺江賓館』に早く戻り、力英に会いたかった。こんな所で殺されてたまるか。一体、俺を狙ったのは誰か。拳銃を発射したのは女だった。船が乗船所に着くと、俺は血相を変えて、自分の部屋に戻った。力英が帰っているだろうかと、部屋のドアをノックすると、部屋の中から、力英の声がした。
「チンジン」
それを聞いて、俺が力英の部屋のドアを開けると、力英は、ベットに寝そべって、アストラを磨いていた。そのアストラを見て、俺は力英に言った。
「リーン。私はコロンス島に行って、拳銃で狙われ、逃げて来た。俺を狙ったのは、まさか、お前ではないだろうな」
「何を言うか。リュウ、何処に、その証拠がある」
「そのアストラだ」
「このアストラは張ボスの使いが,、先程、ここに届けに来てくれたばかりだ。疑うなら、ボスの使いの男がリュウの所に来るだろうから、彼に確かめろ。彼は下のレストランで食事をして、間もなく戻って来る」
高力英の言う通りだった。張会長の使いの男、王東洋は、5分もしないうちに、力英の部屋に現れた。
「おお、你好。貴方が豊島リュウさんですか}
「はい。豊島流太です」
「私、王東洋。ミスター・チャンの命令で香港から、厦門まで、船に乗って来たあるね。ピストル2挺持って来た。船で来るのが一等、安全ね。噂のリュウに会えて、私、大変、嬉しい。ピストル1挺、渡すね。弾は入っていないからね。リ-ンには先程、渡したよ」
王東洋は俺たちの助っ人として、香港から厦門にやって来たのだ。張会長は、何もかも、お見通しのようだった。俺たちに早くも危険が迫っていることも。俺が、東洋からアストラを受け取るのを確かめてから、力英が、東洋に言った。
「東洋。リュウは、1時間前、鼓浪島で、何者かに襲撃されたという。男2人と、女1人の3人組らしい。リュウは慌てて部屋に戻って来て、私がアストラを磨いているのを見て、私に狙われたと疑っている。私は1時間前、あんたと、この部屋にいた。リュウは『白雲山練武場』の周先生に、自分以外、信じるな、自分以外の者を、絶えず疑ってかかれと教えられて来た。リュウは極端すぎる。東洋、リュウに何とか言ってくれよ」
すると東洋は肩をすくめて笑って、俺に諭した。
「リュウ。リーンは、そんな男では無い。リーンはあんたの仲間だ。仲間を殺しても何のプラスにならないよ。あんたはリーンを誤解している。極道にも犯してはならないことが事がある。リーンに謝りなさい」
東洋の言う通りだった。恐怖心が俺を狂わせたのだ。俺が目にした敵は確かに女だった。しかし、ホテルに戻り、アストラを磨いている長髪の力英を見た時、その髪の長い女の映像が力英の姿と重なったのだ。完全に俺の誤解だった。俺は力英に謝った。
「リーン。疑ったりして申し訳ない。突然、危険に遭遇し、猜疑心が増幅してしまった。本当に申し訳ない。深く深くお詫びする。許してくれ」
「分かれば良いさ。それにしても、リュウを狙った連中がいるという事は、健と関係する敵が、この厦門にいるということだ。これは面白くなって来たぞ。それに宋光明のことも分かった。彼の親父の店は中山路にある。汚い店だが料理は最高、繁盛している。今晩、3人で食べに行こう」
「賛成、賛成」
王東洋は食事の話になると、嬉々とした。猪八戒のような男だ。東洋は賛成して喜ぶと、俺にガンベルトを渡し、ガンベルトを身につけて出かけるよう指示した。
「ありがとう、東洋」
「これはボスが約束したプレゼントさ。私にお礼を言う事は無い。お礼はボスに言ってくれ」
「分かった。ミスター・チャン、ありがとう」
「リュウ。私は張ボスではない。ボスのいる香港はあっちだ」
「謝々、ミスター・チャン」
俺は力英が指さした香港の方向に向かって手を合わせた。そんな俺の格好を見て、力英と東洋が笑って、俺の肩を叩いた。
〇
宋光明の父親が経営する食堂『酔紅海楼』は、中山路の『自由市場』の入口近くにあった。店の前には屋台が設置され、マナガツオ、ヒラメ、石斑魚、黄花魚、タイ、太刀魚などが売られていた。エイや小サメなど変わった魚も並べられていた。エビ、カニ、アワビ、牡蠣、タコの他、うずらなどの小鳥、野菜なども並べられていて、6人の女が、忙しそうに店先で、火を使い、鉄板料理や鍋料理をしていた。その奥に広い食堂があり賑わっていた。高力英が6人の女の中の一番、若そうな娘に質問した。
「若い貴女たち4人は、姉妹ですか?」
すると娘は楽しそうに答えた。
「違います。一番年上のこの人と緑色のシャツを着たあの人が、この家の人です。私の隣のこの人は、この家のお嫁さんです。私はお手伝いです」
「そうですか。中に入って食事をしたいのですが・・」
「どうぞ、どうぞ」
娘は俺たち3人を食堂のテーブル席に案内した。力英は、テーブル席に座りながらも、彼女に訊いた。
「あの人たちは?」
「えんどう豆を整理しているのが、御婆ちゃん。集金しているのが、彼女たちのお母さん」
彼女は食器と箸をテーブルに並べながら、よく喋った。あの元気な叔父さんと言うのが、宋光明の父親だった。その人物は薄汚れたパジャマの上に背広を着て働いている60歳前後の男だった。店の奥のカウンター内で酒や料理の指示をしているのが、光明の弟の紹信という真面目な男だという。長男の光明は奥さんをほったらかしにして、北京や上海方面に遊びに行って、お金が無くなると厦門に帰って来る遊び人だという。滅多に店に姿を現さないという説明だった。俺たちは、そんなお喋りの彼女の勧めで、30センチ近い大きさのロブスターを註文した。それに白身魚、貝、スッポン、イカなどの料理を註文して、ビールで乾杯した。厦門の料理は美味しかった。
「很好吃!」
王東洋はそう言って、大きな腹を一層、膨らませて厦門料理を食べた。大食漢とは、東洋のような男の事をいうのだろう。食べることに関しては誰にも負けない太っちょだ。それにしても『酔紅海楼』は千客万来の店だった。決して綺麗では無いが、兎に角、海産物料理が美味しい。食事客が列をつくって待っている。俺たちを外国人だと見込んで、彼女や老板が席を優先してくれたが、中国人だと、2,30分、待たされるという。がめつい光明の父、宋老板は、外国人だと10倍くらいの値段で請求する。それを力英が値切る。結局、3割程度になる。それでも老板は大儲け。その老板と妻に、食事代を支払いながら、力英が、空っとぼけて訊いた。
「子供さんは、あそこにいる娘さんたちですか?」
「うん。あのうちの2人が私の娘だ。男も2人いる。一人はカウンター内で酒を管理しているあいつだ。わしに似て、良く働く。もう1人あいつの兄がいるが、遊び好きの男で、悪い仲間と、今朝、外へ遊びに出かけて行った。当分、帰って来ないだろう」
「遊びに出かけるといっても、中国には遊ぶ所など無いでしょう」
宋老板は力英の質問につられて、つい息子の行きそうな所の説明をした。
「そうだな。厦門ではホテルのクラブやトンネルの映画館くらいが遊び場だが、上海や杭州に行けば、穴場は沢山あるよ。息子は多分、杭州に行ったんだろうよ」
宋老板の言葉を聞いて、俺は宋光明が厦門から姿を消したのだと思った。力英は宋光明の情報が得られて満足したのだろうか、宋老板に、明日の昼食を予約した。美味しい食事を奥の方の席で、ゆっくりと食べたかったのであろう。3人でたらふく食べて『鷺江賓館』に戻ったのは夜の9時半過ぎだった。それから力英は1人で、クラブ『海上楽園』へ出かけて行った。王東洋も俺も、そのクラブへ行きたかったが、力英は極秘調査に行くのだからと、俺たちの同行を断った。力英が何を調べるつもりで出かけるのか、俺には分からなかった。
〇
翌日の午前中、高力英が、まだ寝てるので、俺は中国の地図を広げ、王東洋に杭州や上海、北京なでへ移動する方法などを教えてもらった。兎に角、中国は広い。考えると今から40数年前、昭和12年(1937年)に石原莞爾が中国とは絶対に戦うべきでないと反対したのに、近衛首相が蒋介石と交渉もせず、愚かな日中戦争を始めてしまった。結果、それが日米戦争に発展し、日本は敗戦国となった。そんな歴史のことなどを考え、地図を見ながら、東洋と過ごしていると、何時の間にか、午前11時を過ぎていた。東洋が力英の部屋に行き、昼食に出かけようと声をかけた。力英は既に起きていて、出かける準備をしていた。力英は俺たちに言った。
「2人で先に行っててくれ。店で合流しよう。3人が一緒だと目立つから・・」
力英は何事においても用心深かった。そこで俺たちはバラバラに、中山路の『酔紅海楼』へ向かった。正午に目的地に到着した。俺は一等先に到着して待っていた東洋と店の奥のテーブルに座った。昨日の店頭に近いテーブルと違って落ち着いて食事が出来そうだ。力英も直ぐにやって来た。力英がメニューを見て、野菜炒め、カブトガニ、石もち、バイ貝、エビ、チャーハンなどを註文した。そして、その注文品を運んで来た昨夜の娘に力英が訊いた。
「娘さん。今日も若旦那が見えんようだが、若奥さんは平気なのかな」
「慣れているのよ。彼女の旦那は何時も上海、杭州などに行って、商売しているのだから。旦那がお金を運んで来てくれれば、若奥さんは大喜びなの」
「ふーん。何の商売してるの?」
「さあ。中国にはいろんな商売があるから、何でもよ」
彼女の言葉に、上海か杭州に行けば宋光明に会えると思った。趙麗華が話してくれた通り、森田健介と宋光明が商売仲間であれば、健介もまた上海か杭州にいる可能性が高い。俺は突然、閃いた。力英と会話する娘を見詰めて、ズバリ訊ねた。
「貴方は趙麗華という女性を知っていますか」
すると彼女は目を丸くした。
「知るも知らないも無いわよ。彼女と私は幼馴染みよ。彼女は昨日まで厦門にいたわよ。貴方たち、何故、麗華の事、知ってるの?」
「うん。厦門の中山路の食堂に、趙麗華という美人がいると聞いて来たものだから・・」
「彼女は広東に住んでいるの。時々、厦門に戻って来るの。そういえば、昨日、ここに来たわよ。彼女は確かに美人だわ。でもこの食堂の美人は、若奥さんね」
「確かに若奥さんは美人だ。あんな美人の奥さんを放ったらかしにしてる旦那の名前を知りたいよ」
「若旦那の名前は宋光明よ。お嫁さんの名は愛里。私の名は安麗。厦門の美人は、私たち2人よ」
安麗の言葉に東洋がゲラゲラ笑った。安麗は、何が可笑しいのよと怒った。東洋は安麗の容姿と自己PRの格差に抱腹したのだ。俺は安麗の言葉を聞いて、驚いた。趙麗華が何故、このタイミングに厦門にやって来たのか不思議でならなかった。昼食後、俺たちは『鷺江賓館』に戻って、今後についての打合せをした。宋光明は杭州か上海にいる。まずは彼に会って、健介の所在を聞き出すことだ。そこで高力英が上海へ、俺が王東洋と一緒に杭州に行くを決めた。俺たちは、それから、明日、出発する為、それぞれの部屋に戻り、移動の準備をした。夜はホテルのレストラン『観海庁』で、夜景を見ながら談笑し、酒を交わした。食事が済んで、部屋に戻るや、俺は自分が元気でいることを知らせる為、小池祐子に国際電話した。何と『鷺江賓館』から日本まで、ダイヤルで直通だった。これには俺もびつくりした。祐子は元気だった。
「何よ。こんな時間に電話して来るなんて。日本はもう11時過ぎてるのよ」
「ごめん。こちらは10時だ。ちょっと酔っぱらっちゃって」
「相変わらず遊び回っているみたいね。森田さんは見つかったの?」
「まだ見つかっていない。俺は今、厦門にいる」
「厦門って、台湾に一等、近い所でしょ」
「うん、そうだ。港に沢山、軍艦が浮かんでいるが、小ちゃなやつばかりだ。それに、台湾人も海上から勝手に出入りし、商売している。中国政府も黙認しているようだ。ここには台湾と中国の危機感は無く、友好的な明るい港町だ」
「お母さんや紘子さんに伝えることある?」
「問い合わせがあったら、元気でいるとだけ伝えてくれ。妹に訊かれたら、もうしばらく待っているよう伝えてくれ」
「祐子さんに伝えることは?」
祐子は、俺をからかった。俺の元気な声が聞けたのだから良いではないか。愛しているとでも言って欲しいのか。
「そうだな。日吉のマンションの掃除をよろしく」
「先週も行って掃除して来たわよ。ポストには何の情報も届いていなかったわ。私に言う事、ただそれだけ?」
「感謝してるよ。我心上的人」
「何よ、それ」
「漢字で我の心の上的人と書くんだ。つまり、我が思い人という意味さ」
「まあ、そうなの。我心上的人。満足よ」
「じゃあ、電話切るよ」
「元気で良かった。また電話してね。おやすみなさい」
祐子への連絡を済ませると、何となくホッとした。俺はそれから風呂に入り、パジャマに着替えて、ベットで毛布にくるまった。明日は、別の町へ移動だ。
〇
4月9日、俺たち3人は厦門を離れた。『厦門高崎空港』から上海までの航空便を利用すれば、短時間で目的地に移動出来るのだが、お互いに拳銃を所持している為、汽車で移動することになった。まず薄暗い厦門駅から杭州行きの列車に3人で乗った。上段に寝具がある4人掛けの軟座席に座り、汽車が発車すると、俺は少年時代、田舎から東京まで汽車に乗った時の事を思い出した。俺たち以外に、力英の隣に若い女性が乗っていて、余分な話は出来なかった。俺は窓外の景色をひたすら眺めた。厦門を離れ、汽車は農村地帯を走った。山容やバナナ畑などを見て、ここら辺は南国なのだと思った。力英は隣の女性と、いろんな話をした。彼女は順昌の実家に帰省するのだという。車窓に漳平の町が見えて来たところで、食堂車で昼食。炒め物と御飯。余り美味しくないので、俺が残すと、それを東洋が平らげてくれた。列車は山を越え、谷を越えたかと思うと、田園の中を走った。力英と東洋と彼女は、トランプを楽しみ時を過ごした。俺は茫然と中国の景色を眺めた。そうこうしているうちに、三明あたりで夕方になり、隣の女性は順昌で下車した。代わりに老人が一人、乗って来た。老人も杭州まで行くのだという。彼は、さっさと梯子に手をかけると、上段席に上がり、寝込んでしまった。俺たちは食堂車に行って、昼飯より、ちょっとましな1品とスープが増えた夜食を食べた。その後、力英が上段席に上がり、俺と東洋は下の座席で、左右に分かれて横になった。しかし、直ぐに眠ることが出来なかった。ガタンゴトンの連続音に悩まされた。だが、何時の間にか眠っていた。朝の光に気が付くと、既に金華を過ぎていた。窓の外は菜の花畑。池の畔で、アヒルが遊んでいる。長閑な風景だ。俺たちを乗せた列車は、やがて銭塘大橋を渡り、午前8時半、杭州に到着した。俺と王東洋は車内で、上海へ向かう高力英とさよならした。俺は力英に上海に先に行って、森田健介や宋光明の情報を調査してもらうよう依頼した。杭州駅で下車した俺と東洋は、駅前からタクシーに乗り、有名ホテル『望湖賓館』に行った。タクシーを降りて、目の前のホテルを見て、俺は感激した。『望湖賓館』は西湖近くにあり、近代的なホテルだった。正面広場に大噴水があり、不断に水を吹き上げ、七色の虹を描いていた。その前で新婚さんたちが記念写真を撮っていた。それを眺める俺に、東洋が言った。
「中国は鄧小平の解放政策により、華美が認められ、このようなホテルの建設が増えています。中国はこれから増々、発展します」
中国が資本主義を理解するようになったと日本の新聞で報道されていたが、まさに中国は変容し始めていた。俺は東洋に連れられ、ホテルに入った。ホテルのロビーに行くと東洋の知人が待っていた。
「杭州へようこそ。2人をお待ちしておりました」
「ああ、お久しぶり。黄さん。こちらが日本から来られた豊島流太先生です。よろしくね」
「おお、豊島さん。私は黄順立です。よろしくお願いします」
「豊島流太です。お世話になります。、こちらこそ、よろしくお願いします」
俺は、そう言って、黄順立と握手した。黄順立は、俺たちにチエックインさせると、俺の荷物を取り上げ、さっさとエレベーターの所へ行った。ホテルの案内嬢に導かれ、俺たちが案内された部屋は7階だった。俺の部屋は706号室。東洋の部屋は705号室。東洋の部屋からは先程の大噴水と玄関を見下ろすことが出来た。俺の部屋からはホテル前の道路と西湖を眺めることが出来た。俺は部屋に荷物を置くと、東洋の部屋に行き、黄順立から、宋光明のことを聞いた。あらかじめ東洋から捜査を依頼されていた順立は、東洋に報告した。
「宋光明は杭州に来ています。昨日、『華僑飯店』にいました。日本人も一緒ですよ」
「日本人も一緒?」
それを聞いて、王東洋の顔が曇った。もしや俺が探している、森田健介では?俺の心は踊った。3年ぶりに健介に会える。異郷の地で会う健介は、どんな顔をしているのだろうか。俺を見て、さぞかし、びつくりするであろう。俺は一時も早く、その日本人が誰であるか確かめたかった。東洋が順立に言った。
「それはまずいな。日本人が一緒だと・・」
「そうですね」
俺は2人が、まずいと言っている意味が分からなかった。
「何故、まずいのです」
「万一、宋光明たちが、我々の事を邪魔者として排除しようとした時、我々がどう対処すべきか考えておかないといけないからです」
「そうです。中国人を葬るのは簡単だが、日本人を葬ることは難しいです。今日、リュウ先生が、このホテルに宿泊したことは、必ず公安に届けられます。ですから、『華僑飯店』に泊まっている日本人も同様です。まずいのはリュウ先生も、その日本人も公安の監視下にあるということです」
その説明を聞いて、俺は恐ろしくなった。中国人は極端だと思った。東洋と順立は険しい顔をして話し合った。もし宋光明が、自分たちの敵であるなら、葬る場合もあると考えていた。もし、宋光明と一緒にいる日本人が森田健介だったら、どうするのだ。香港の張成安会長は仕事の邪魔をする敵がいたなら、容赦なく倒せと力英に指示している筈だ。東洋も、その指示を受けてやって来ているに違いない。だが、宋光明が敵と決まった訳ではない。また光明と一緒にいる日本人も同様だ。東洋たちが、何故、そんなに神経質になっているのか、俺は理解出来なかった。俺は堪えきれずに、2人に言った。
「私が中国に来た目的は、森田健介を探し出し、彼と話し合い、彼を日本に連れて帰ることだ。兎に角、健介を探し出し、話し合いたいんだ」
「リュウの目的、分かっているよ。しかし、健の所在が分からない今、光明を捕まえ、健のこと、聞き出すしか方法がない。彼が生存していてくれれば最高です。しかし、我々の今までの調査では、健の活動の様子が何処にも見当たらない。何か事件に巻き込まれたのだと思っています」
「光明と一緒の日本人が誰か分かりませんか?」
「不明白」
「まず、それを確認して下さい」
俺は何時もに無く興奮していた。東洋と順立が健介の生存を疑問視していたからだった。俺は健介が、この中国で生きていると信じている。健介が、この世にいないなんて、全く信じられないことだ。
「分かった。リュウの言う通りだ。我々は、その日本人が誰であるか確認する必要がある。彼らに接触するのは、それからにしよう。順立。手数をかけるが、今から調べに行ってくれ。夕方、また、ここに来てくれ」
「了解了」
東洋から依頼を受けた順立は、宋光明と一緒にいる日本人が何者であるか調査する為、早速、部屋から出て行った。俺と東洋は、その情報を得てから行動することにした。これから総てが始まる。俺と東洋は、それから昼まで、各々の部屋で休息した。夜行列車で移動した為、睡眠不足を解消する為だった。俺はベットに横になり、目をつむりながら、健介のことを考え、休息した。正午になり、俺と東洋はホテル内のレストランで昼食を済ませた。その後、2人で銭塘江沿いの六和塔の見学に行った。銭塘江の高潮を監視する為に建てられたという13階建ての建物は壮大だった。だが内部に入ってみると実際は7階だった。これが中国人の気風だ。俺たちは、ちょっとした観光を終えて、ホテルに戻った。そしてレストランでコーヒーを飲んでいると、黄順立がホテルに戻って来た。
「どうだった?」
「宋光明と仲間がいることは確かですが、日本人の名前は分かりません。フロント嬢に交渉しましたが教えて貰えませんでした。ただ、『明永商事』の社員だと言っていました」
「えっ、『明永商事』の社員だって。なら健介に違いない。『華僑飯店』は何処ですか」
俺は一時も早く、健介に会いたかった。機会を逃してはならない。
「この近くです」
「なら、今から、そこへ案内して下さい」
俺が、そう言うと、東洋が反対した。
「もし、その日本人が健で無かったら、どうするのです。どんな事になるか分かりませんよ。兎に角、健が行方不明なのだから、用心に用心を重ねて行動しないと危険です」
俺は、東洋の言葉の中に、俺に話していない秘密があると感じた。中国語を話せない俺は、彼らの指示に従うより方法が無かった。そんな風だから、ホテルでの夕食も余り口に通らなかった。その分、東洋が満腹になる程、俺の分まで食べた。東洋と順立との夕食を終えてから、俺は部屋に戻り、ベットに入ったが、いろんな事を考えると、中々、眠りにつけなかった。
〇
翌日、4月11日、木曜日。俺と王東洋が、ホテルのレストランで朝食をしている所へ、黄順立がやって来た。何事かと訊くと、順立は小さな声で報告した。
「今日の午前10時、宋光明たちは『中山公園』の『楼外楼』で、誰かと会うようです。何かの取引があるのでしょう」
「それは本当か?」
「本当です。ホテルのレストランで耳にしました」
「なら、その時、我々も、そこの近くに行って、宋たちと同行する日本人が、誰であるか突き止めよう。リュウも行きますか」
「勿論、行きます。有難い情報です」
俺たちは朝食を終えると、東洋の部屋で詳細打合せをした。西湖観光の振りをする為、市内観光の支度に着換えた。これは単なる物見遊山の観光ではない。俺は拳銃をガンベルトに入れ、それから杭州市の地図を頭に叩き込んだ。この街を深く頭に入れておく為だ。街の通りや建物、交通機関の場所、河や湖、住んでいる人たちなど、少しでも多くを知ることが自分の力となる筈だ。いざという時、有識者と無知者とでは雲泥の差が出る。物事を知っていることによって、命拾いすることだってあり得る。俺たちは9時にバラバラになって、ホテルを出て、『楼外楼』に向かった。俺は『望湖賓館』から西湖の畔に出た。桃の花が咲いている。日本の桃の花と同じ、ピンク色だ。降り注ぐ陽光に、西湖の水面が反射して、眩しい。俺は北山路を進み、途中から湖の中の『白堤』という1本道を、湖中の島『中山公園』に向かった。かって清朝末期の権力者、西大后は、この西湖を真似て、北京に『頤和園』という広大な人造湖を作らせたとか。まさに素晴らしい湖だ。心地良い春風が俺の首をくすぐった。有名な観光地とあって、平日なのに人通りが多く、皆、景色や土産物を見物して、俺に興味を抱くような人間はいなかった。俺はふと小池祐子のことを思った。こんな素晴らしい湖の畔を、彼女と一緒に歩くことが出来たら、どんなにか楽しい事であろう。俺は祐子と遠く離れてみて、初めて彼女に強い厚意を抱いている自分に気づいた。太鼓橋を渡って少し行くと、湖の左側に『平湖秋月』という築山と『湖心亭』が眺められた。そして直ぐに湖中の小島『中山公園』に辿り着いた。そこにある黄順立から聞いて訪れた『楼外楼』は立派な楼閣レストランだった。そのレストランの中に順立は入っているのであろうか。東洋は何処にいるのか。俺がキョロキョロしていると、『楼外楼』の前にドイツ製高級車、ベンツが入って来て、店の前で停車した。運転手が運転席から降りて、車の後部のドアを開けると、男2人が降りた。一人は黒ぶちの眼鏡をかけた肥った男で、もう1人は銀縁の眼鏡をかけた痩せぎすの男だった。俺は、その痩せぎすの男に何処かで会った記憶があった。何処で会ったか、直ぐに思い出せなかった。相手は俺に気づかなかった。俺は記憶を辿り、痩せぎすの男が誰であるか思い出した。その男は高力英に連れられて訪問した香港の『美山貿易』の田中史郎所長だった。俺は店に入って行こうとする田中所長に挨拶しようと、その後を追った。と、その時、誰かが俺の背後から俺のブレザーの裾を引っ張った。振り向くと王東洋だった。東洋は俺の行く手を遮って言った。
「彼に会ってはいけない。貴方は香港で彼に会っている。見つかったら、まずい事になるよ」
「何故?」
「見つかったら殺される。彼は宋光明を中心とする裏組織の一員だよ。中国経由で大量の大麻を、日本や台湾、フィリピンに送っている連中だ。健は、それを知って殺された。あの黒ぶちの眼鏡をかけた男は、『明永商事』北京事務所の、青山支店長代理だ。彼らのことは、順立が調べている。行動に出るのはまだ早すぎる」
俺はショックを受けた。またも東洋は健介が殺されたと発言した。香港の『明永商事』の石川支店長も、『美山貿易』の田中所長も、俺が質問した時、健介の行方不明の原因について、知らないと答えたが、本当は健介が消えた秘密を、彼ら日本人は知っているに違いなかった。そして健介が、もうこの世から消えていることも。俺は田中所長が、『美山貿易』の香港事務所で、俺に言った言葉を思い出した。
「残念ですが、森田さんの情報はありません。我々も1年かかって、森田さんの消息を追いましたが、何の手がかりも得られませんでした。森田さんは『明永商事』以外の仕事をしていたのでしょう。そうでなければ、突然、雲隠れする筈がありません」
彼は俺たちに嘘をついたに違いない。そう思うと彼に対する憎悪で、胸がはちきれそうになった。彼らが健介を、何処かに隠しているのかもしれない。そんなことに頭を巡らせていると、東洋が俺に言った。
「リュウ。我々は一旦、ホテルに戻ろう。そして、私は午後、『杭州酒店』に移動する。リュウは、そのまま『望湖賓館』にいて下さい。貴方への連絡は順立にさせます」
「何故、東洋だけ『杭州酒店』へ?」
「敵に気づかれない為です。『杭州酒店』から上海に行った力英に連絡します。我々が固まっていたら、麻薬密売組織に気づかれ、一網打尽、捕まってしまいます。これから密売組織との抗争になることが予想されます。今はバラバラになるのが一等です。少しの間、不自由すると思いますが、我慢して下さい。今は、じっとしている事です。相手に気づかれず、観光を楽しんでいて下さい」
「すると私はホテルに缶詰めですか?」
「いや。観光客として、観光客に混じって、船に乗ったり、買い物したり、お茶を楽しめば時間をつぶすことが出来ます。では先にホテルに戻っています」
「再見!」
「彼らには絶対、近づかないで下さいね」
「了解。後からホテルに戻ります」
俺は先にホテルに引き返して行く東洋を見送り、1人で『中山公園』を見学した。木蓮の花が散っている。『中山公園』を見た後、湖中の細道、『蘇堤』を渡り、『花園公園』を経て、『柳浪聞鶯公園』などを廻り、湖を一周して、『望湖賓館』に戻った。そして『望湖賓館』の705号室をノックすると、王東洋の姿は無く、もうホテルをチエックアウトしていた。仕方なく自分が宿泊している706号室に戻り、どうしてだろうと、ぼんやり考えていると、7階の女性管理員、藩莉々が俺の部屋にやって来た。
「隣の部屋にいた王先生からの伝言メモです」
彼女が差し出したメモには、521という数字だけが書かれていた。俺は、その数字だけで、充分、意味を汲み取れた。王東洋が『杭州酒店』521号室にいるという知らせだ。俺は、ちょっと可愛い藩莉々に伝言を持って来てくれた礼を言ってから質問した。
「ありがとう。ところで貴女の勤務時間は何時までですか?」
「私の勤務時間は5時半までです。今日はこれから家に帰って、友達と遊びに出かけます」
「杭州に夜、遊べる場所があるのですか?」
俺の質問に莉々は笑った。おかしな質問の仕方をしたのだろうか。彼女は嬉しそうに答えた。
「あります。『華僑飯店』のダンス・ホールです。もし興味があったら来て下さい」
俺は、それを聞いて、唖然とした。『華僑飯店』は黄順立が言っていた、宋光明たちが逗留しているホテルだ。順立も、探索の為、『華僑飯店』に泊っているに違いない。俺は彼女に生返事した。
「ああ、はい」
「再見」
莉々は俺のドギマギした返事を聞き、如何にも楽し気に、踊るようにして廊下の奥の管理室に戻って行った。
〇
夕食もまたホテルのレストランで一人だった。食事が終わって部屋で、ぼんやりしているのも退屈なので、藩莉々から聞いた『華僑飯店』のダンス・ホールを見学に行くことにした。西湖の畔に出て、左方向に少し歩くと、『華僑飯店』の前に出た。ロビーに入り、ウロウロしたが、莉々から聞いたダンス・ホールは見当たらなかった。フロントに行って訊くと、一旦、建物から外に出て、裏庭から入って下さいと言われた。ホテルの裏側に回ると、成程、ダンスパーティー入口の垂れ幕と看板が目に入った。受付に行くと、外国人の入場料は4元ということであった。入場料を支払い中に入ると、若者は勿論のこと、子供連れの婦人もいた。俺は、これが共産主義国であろうかと、目を疑った。日本で聞いていたより解放されている。子供が夜中、ダンスを楽しんでいるなんて、日本では考えられない事だ。俺は片隅のテーブルに座って、コーラを飲みながら、藩莉々を探した。ミラーボールの光の中で踊る人たちの中に莉々の姿は無かった。と、突然、俺の前に白い手が差し伸べられた。刹那、俺はブレザーの内側のアストラに手をやろうとするのを抑え、白い手を差し出した相手を見上げた、相手は笑っていた。
「何を驚いているのですか。私、趙麗華。踊りましょうよ」
目の前の相手は確かに、趙麗華だった。また今、手を差し伸べている女は、あの厦門の鼓浪島で、俺に向かって発砲した女の姿にも似ていた。俺は彼女に誘われるまま立ち上がった。そして抱かれるのを待つ、麗華を抱いた。甘い女の香りがした。俺は彼女の耳元で囁いた。
「こんな所で、君と出会うなんて、夢のような話だ」
「私もよ」
「何故、杭州に来ているの?」
「お分りでしょう。宋光明たちと一緒です。リュウ、貴方は日本に帰りなさい。ここは危険よ」
俺を見詰める麗華の目は真剣だった。美しい女だ。健介が夢中になったのも不思議ではない。
「君は何故、私にアドバイスするの」
「愛しい健さんの親友だから・・・」
俺たちは、そんな麗華との会話をしながら、ワルツの曲に乗って、華麗に踊った。『魅惑のワルツ』、『テネシーワルツ』、『白鳥の湖』、『蘇州夜曲』など。麗華はダンスが上手だった。それにしても、彼女は一体、何を考えているのだろうか。俺と踊りながら、俺のブレザーの左腕の下に隠れている拳銃を確かめる為か。鼓浪島で俺に発砲しておきながら、俺とダンスを踊るとは良い度胸だ。踊っている彼女の腕の細さと格好は間違いなく、あの鼓浪島の女と同じだ。あの時、今、抱いている麗華は、誰かに命令されて、仕方なしに、俺に発砲したのだろうか。俺はズバリ、訊いてみた。
「君とは厦門でも会いましたね」
「厦門で・・」
「私は厦門で殺されそうになった。君の美しいその手にかかって」
「ああ『鼓浪島』のことを言っているのね」
「そうだ」
俺が、そう問い詰めると、彼女は胸で大きく呼吸した。それが俺の胸にも伝わって来た。彼女は慌てずに、耳元でささやいた。
「あれは、貴方に日本に帰ってもらう為のオドシよ。でも豊島さん、貴方は引き返そうとしなかった。厦門から帰らず、杭州まで乗り込んで来た」
「当たり前だ。私は健介を日本に連れ戻す為にやって来たのだ」
「それは分かるけど、危険よ」
「健介探しを阻止しようとしているのは、厦門の男か?」
「貴方は健さん探しの邪魔を光明がしようとしていると思っているのね。それは誤解よ」
「誤解?」
「光明は、健さんに悪い事、何もしてないわ。貴方が敵と思っている相手は別人よ。そのうちに会えるわ」
「別人?そいつは誰だ」
「後でゆっくり話して上げるわ」
「今夜は一人か?」
「光明たちと一緒に、女性の仲間が来ることになっているわ。仲間が来たら、お相手出来ないけど了解してね」
「分かった。後一曲、踊ったら、私は退散するよ」
「ごめんなさいね」
「何も詫びることはない。踊ってもらった上に、情報、有難う。感謝、感謝だ。明日、また会いたいのだが・・」
俺が、そう言うと趙麗華は、明日の夜8時、『白堤』の橋の畔で密会する約束をしてくれた。俺は宋光明たちが現れるとまずいと思い、麗華と別れ、ダンスパーティー会場から外に出た。春風が俺の首をくすぐった。その春風は、まるで麗華と踊って来た俺をからかっているようだった。俺はまだ麗華と踊っている気分だった。鼻歌を歌って西湖の畔を歩き、『望湖賓館』に向かっていると、突然、中国製高級車『紅旗』が俺の横で停まった。中から男が3人降りて来て、突然、俺の身体を両手ごと、縛り付けた。足蹴りをして、相手の襲撃を防ごうとしたが、相手が俺を縛り付ける方が早かった。『白雲山練武場』で空手などを習った俺だったが、手を使うことが出来ず、対処する方法が無かった。情けない事だが、あっという間に突き倒され、両脚まで太い紐で縛られてしまった。こうなったら相手の成すがままになるより仕方ない。俺は『紅旗』の後部座席に載せられ、2人の男の間にはさまれながら、車内で怒鳴った。
「おい、お前たち、私をどうするつもりだ?」
「後で分かるよ」
「何処へ連れて行くつもりだ」
「大人しくしていろ」
「何の理由があって、私に、こんな乱暴をするのだ?」
俺は途中から、目隠しされ、どの方向に走っているのか分からなかった。連れて行かれたのは農家のようだった。茶の香りがした。俺は目隠しされたまま、農家らしき屋敷に連れ込まれ、椅子に座らされ、詰問された。
「豊島流太。お前は何の目的で中国にやって来たのか?」
「友人を探す為だ」
「お前が探す友人は何という名前だ?」
「森田健介」
質問の相手は日本語で喋り、発音からして日本人に相違なかった。その声は『美山貿易』の田中史郎所長のようだった。しかし俺は気づかぬ振りをした。何故なら、俺が彼だと気づいたと知ったら、彼は俺を殺すかも知れないと思った。でなければ、俺に目隠しなど不要だ。相手は俺を、威嚇する声で言った。
「森田健介は中国の何処を探してもいない。彼の事は諦めて、日本に大人しく帰るべきだ」
俺は、空っとぼけて訊いた。
「貴方は一体、何者だ。健介の事を何故、探してもいないと言えるのだ。証拠でもあるのか」
「残念だが、彼は中国で処刑された。もう、この世にいない。私は森田を知っているが、彼が中国で処刑されたと口にすることは出来ない。それを口にしたら、中国政府に殺される。また日本に帰国して、日本政府に訴えても、握りつぶされてしまうに決まっている。私は貴男に大人しく日本に帰ってもらう為に、手荒い方法で、ここへ連れて来たが、許して欲しい」
俺には男の言葉が信じられなかった。中国政府が日本政府に断り無しで、日本人を処刑する筈が無い。そんな事があるのか。俺は質問した。
「健介が、どんな悪い事をしたのか知りたい。何の罪で処刑されたのか?」
「森田は中国解放軍の女に手を出した。軍隊に勤務する彼女は政府要人の女だった。森田も馬鹿な事をしたものだ。森田が殺された理由はスパイ容疑だ」
「け、健介がスパイ容疑で処刑された?」
「その通りだ。だから貴方には大人しく日本に帰ってもらいたい。私たちは一人の日本人の所為で、中国と日本の関係を悪化させたくない。このまま貴方が中国で森田の事を追求すれば、貴方が危険に巻き込まれ、森田同様、処刑される可能性が高い。貴方が、大人しく日本に帰ると言えば、我々は、貴方を上海まで、お送りする」
「・・・・」
「どうですか?」
男は俺の返事を求めた。大人しく日本に帰る返事を求めた。しかし俺は、このまま帰国する気にはなれなかった。俺は健介が処刑された場所を突き止めたかった。本当に健介が死んでいるなら、健介の墓場に行って、花でも飾り、冥福を祈ってやりたかった。俺は男に言った。
「健介が処刑され、この世にいないという証拠を確かめたら、私は日本に帰る。だが、何処の誰とも分からぬ、貴方の言葉を信じて、日本に帰る事は出来ない。彼が中国で死亡した事を日本に帰って、どのように、健介の両親や私の家族に伝えれば良いのか。健介は私の妹の夫だ。健介の死が、どのようであったか、詳しく確認したのか、必ず、追及される。その時、私はどうすれば良いのだ。私は健介が処刑された場所に行き、彼の墓場を確認するまで、日本には帰れない」
「ならば、このまま、この部屋で飢え死にするが良い。貴方が日本に帰ると言うまで、私たちは、貴方を、ここに監禁する」
「何の権利があって、私をここに監禁するのか」
「これ以上、森田健介のことを、ほじくり出して欲しくないのだ。中国の為にも。日本の為にも・・」
「意味が分からん」
「それは自分で考えて下さい。今夜は、これで帰ります。明日、私がここに来るまでに、日本に帰ることを決めておいて下さい」
田中らしき男は、中国人に、俺の監視を命令して部屋から出て行った。俺は薄暗い部屋の中で、椅子に縛り付けられたまま、時を過ごした。今は眠る事だと思った。しかし、眠ることなど出来なかった。油断しすぎた。余りにも周囲を気にしないで行動してしまった。趙麗華とダンスなどしたのがいけなかった。田中史郎は、ダンスを踊りながら麗華が〈そのうちに会えるわ〉と言った男なのだろうか。王東洋はどうしているのだろうか。王東洋と黄順立は、俺が拉致されたことを知っているのだろうか。いろんな事を考えると眠れなかった。俺は部屋で俺を監視している中国人に言った。
「我想小便」
すると中国人の見張り番は、俺の両足を縛っている太い紐をほどいて、俺を農家の真っ暗で臭い便所まで、連れて行ってくれた。縛られてはいるが、手首は自分の前方にあり、ジッパーを下げて、小便をすることが出来た。その間、糞尿の臭いがきつかったが、夜風が優しかった。小便を済ませ、再び椅子に座らされて、椅子に縛り付けられ、俺は眠れと命令された。だが危機感の中で眠れる心境ではなかった。しかし深更に及ぶにつれ、疲労が蓄積し睡魔が俺を襲った。俺は何時しか眠っていた。
〇
鶏の啼く声で目を覚ました。俺は納屋の中の椅子に縛り付けられ眠っていた。目隠しは何時の間にか少し緩んで、その布が耳に引っかかっているので、俺は近くの物に顔を擦り付け、目隠しを上に上げた。そして納屋の中を見回すと、見張りの中国人の姿が無かった。逃げるのは今だと思った。椅子に縛り付けられたまま、俺は立ち上った。昨夜、小便を済ませて、納屋に戻ってから、見張り番は、俺を再び椅子に縛り付けたが、両足を縛るのを忘れていた。そのお陰で、俺は移動することが出来た。上半身を縛っているグルグル巻きの紐をほどけば、こっちのものだ。農家の納屋には鎌とか鋤とか、物を切断出来るカッター類がある筈だ。俺は鍵のかかった扉に体当たりした。すると、オンボロな鍵が簡単に外れて落下し、俺は隣の部屋に椅子を付けたまま倒れ込んだ。まず、その部屋で目にしたのは横たわっている王東洋だった。彼は口から血を吐いて死んでいた。俺は恐怖に怯え、慌てて立ち上がった。部屋の中には誰もいないが、朝日が昇れば、誰かがやって来る。ぐずぐずしていたら、東洋と同じように殺される。俺は部屋の中にカッターになる物がないか、あちこち探した。部屋の入口の柱に釘のような物があるを見つけた。しめた。あれに紐を引っ掻けて擦れば、紐を切断することが出来る。俺は尻に椅子を付けた格好で、前かがみになりながら、入り口の柱に向かった。その時、農家の庭先に車が停まる音がした。ドアの隙間から外を見ると、車を2台を停めて、6人の男が、こちらにやって来るのが目に入った。もう駄目だ。俺は観念した。彼らは先ず、俺が縛られていた部屋に入った。そして俺がいないので、一瞬、逃げられたと、大騒ぎした。だが、隣の部屋に俺がいるのを見つけると、ぎょっとして静まり返った。外れかけた目隠しの隙間から俺が連中の顔を睨みつけると、がっちりした体格の30歳前後の男が近づいて来て言った。
「逃げようとしても、無駄なことね」
彼は左手を包帯で、グルグル巻きして、首から、その負傷した腕を布で吊るしていた。
「リュウ。私が宋光明だ。あんたのことは健から聞かされて、良く知っている。こんな風にして、会うことになるとは予想してなかった」
「お前が宋光明か?」
「そうだ。リュウの仲間の王東洋は私が殺した。御覧の通り、私は王東洋に左腕をやられた。王東洋が私に向かって、先に発砲した。リュウは私を殺す為に、日本からやって来たのか?」
落着いた宋光明の質問だった。
「昨夜も誰だか分からぬ日本人に質問された。私は森田健介を探す為に中国に来た。中国に来るまで、宋光明などという人物など知らなかった。お前を殺す目的で、日本からやって来たのではない」
「そうか。健から私の名前を聞いていなかったか」
「聞いていなかった。ところで聞くが、健介は本当に人民解放軍の女に手を出して殺されたのか?」
「人民解放軍の女?」
「そうだ。昨夜の日本人は健介が人民解放軍に勤務する政府高官の女に手を出して殺されたと言っていた」
俺が、そう言うと、宋光明は言葉に窮した。
「・・・・」
「嘘なのだろう。健介が、そんな事をする筈がない。もし殺されたとしたら、別の理由だ。たとえば、政府高官の秘密を知ったとか・・」
俺が追求すると、宋光明は顔を曇らせた。俺は思った。目の前にいる宋光明という男は正直な男だ。その正直さが表情に現れている。彼は鋭い目で俺を睨みつけて訊いた。
「リュウ。貴方は健から、私たちの秘密について、どの程度、聞いているのだ?」
「健介は、中国での仕事以外の話をしてくれなかった。ましてや女の話など全くしなかった。私の妹が、健介の妻だからな、いくら親友でも喋れなかったんだろう」
「そうか。では秘密の仕事について、何も聞いていないのだな」
「何も聞いていない。2年前から音信不通になって、妹たちが精神的にも経済的にも苦しんでいるから、私が仕事を辞めて、健介を探しにやって来たのだ。健介は私の親友であり、義弟なのだ」
俺と宋光明がやりとりしていると、何と『美山貿易』の田中史郎所長が平然とやって来た。田中は俺が逃亡しそうだったと、他の者から聞いて、慌ててやって来たのだ。田中は開口一番、宋光明に言った。
「ゴンミン首領。こいつが首領を殺そうとした張本人だ。王東洋は、こいつからの指示で、首領を暗殺しようとしたのだ。こいつは我々の秘密を知っている。殺してしまわねば大変なことになる」
すると、光明は興奮している田中を宥めるように言った。
「リュウは秘密を知っていない。彼はただ、健を探しに来たのだと言っている。だから、何とか説得し、大人しく日本に帰ってもらうよう、お願いすることだ」
「こいつには大人しく、日本に帰る気持ちなどになる筈が無い。こいつは森田から聞いている秘密を確認に来たのです」
「では、知っている事の総てを、白状させることね」
宋光明は、そう田中に言い残すと部屋から出て行った。田中は日本語の出来る部下に、知っている秘密について白状させるよう言いおいて、光明を追うように出て行った。俺は、それから散々な目に遭った。王東洋の死体は、昨夜の見張り番たちが来て、何処かへ運んで行った。俺は腰の椅子から解放されたが、部屋の天井の横柱に掛けられたロープに吊るされ、竹筒で叩かれた。知っている秘密を総て白状せよと言うのだ。俺には知っている健介の秘密は何も無かった。現在、分かっているのは、宋光明が厦門の食堂兼魚屋の長男であり、田中史郎が『美山貿易』の所長ということでしかなかった。俺は日本語通訳の若者に言った。
「私に暴力を振るって尋問しても、私はお前たちが言う秘密について何も知らない。お前たちが知りたい事を私に教えてくれ。何を知りたいのか。もし知っていたら、それについて答えてやろう」
「それは、それは隠し物の在処だ」
「隠し物とは何か?」
「そ、それは俺にも分からねえ」
相手からは、隠し物の在処という言葉だけで、それ以上、具体的なヒントが得られかった。彼らはただ俺の身体を適当に痛めつけるだけだった。俺はその厳しさに耐えられず、気を失い、再び奥の部屋に運ばれ、監禁された。
〇
俺が気を取り戻したのは夜だった。闇の中で誰かが、俺の名を呼んだ。
「リュウ。起きて」
「誰ですか?」
「私、趙麗華よ。貴方を助けに来たわ」
「何て無謀なことを・・」
「何も言わないで・・」
麗華は、椅子に縛り付けられている俺の身体から、グルグル巻きの紐を解いてくれた。
「見張り番は、温かい部屋に行って、酒を飲み眠っているわ。逃げるのは今よ」
麗華は、小さな声で言って、俺の手を引っ張った。『華僑飯店』のダンスダンスホールでワルツを踊った時の柔らかな麗華の手だった。俺と麗華は納屋の中から、そっと外に抜け出した。小雨のぱらつく暗闇の中を、手を取り合って走った。身体のあちこちが痛むが、走っているうちに痛さが薄れた。『白雲山練武場』での訓練のお陰だった。負傷しているのに俺の走行が早いので、麗華はびっくりした。しかし俺が逃げ出したことに気づかぬ連中ではなかった。中国人の通訳と見張り番が、俺の逃亡に気づき、追いかけて来た。追手が拳銃を発射させて来た。俺は咄嗟に懐中に手をやった。しかし、そこにアストラは無かった。『白雲山練武場』の卒業生としては不覚だった。俺が拳銃を探していると、麗華が言った。
「これを探しているのね」
「ああ、そうだ」
「貴方が捕まった時、そっと私が拝借したの。彼らに見つかったら大変だから。ごめんなさい。お返しするわ」
「有難う。連中に取り上げられたのかと思った。君に助けられてばかりいるな」
「今度は貴方が、私を助ける番だわ。捕まったら終わりよ。2人とも殺されるわ」
「うん、分かった。君は先に逃げろ。私はあいつらをからかってから行く」
俺は麗華を先に逃がし、追手が3人が駆けて来るのを待った。彼らは無茶苦茶に拳銃を発射して来た。俺は物陰に隠れ、まず納屋での見張り番2人を狙ったた。弾丸の発射は彼らが10メートル先に来た時、決定した。
「バーン!バーン!」
久しぶりの五感の緊張に快感が走った。納屋の見張り番2人は横転した。手応え充分だった。通訳の男は、2人が銃弾を受け、あっという間に倒れたのを目の当たりにして、血相を変え逃げようとした。2発の銃声で、仲間2人がやられたのだ。次は自分の番だ。恐怖を抱いた通訳の男が、逃げようとするのは当たり前だ。俺は3発目を発射させた。暗闇の中でアストラが火を噴き、通訳は声を上げて倒れた。麗華は俺と彼らとの打合いの一部始終を丘の上から目視していた。夜目で分かりにくかったかもしれんが、追手3人が、俺の3発の発射で静かになったのは確かだった。丘の上に辿り着いた俺に、麗華が言った。
「リュウ。貴方は殺しのプロね」
「私はプロではない。まぐれ当たりさ」
「そんなこと無いわ。貴方には自信がみなぎっていた」
「王東洋を殺された恨みが、私に闘志を与えたのだろう」
「兎に角、私の友達の家に行って、匿ってもらいましょう。グズグズしていたら、他の連中がやって来るわ」
俺と麗華は山村から夢中になって移動し、明け方杭州市内に逃げ込んだ。麗華の友人、李秀蘭の家は中山南路にあった。麗華と李秀蘭が2人がかりで、俺の傷の手当てをしてくれた。俺は秀蘭が作ってくれたお粥をすすってから、深い眠りに落ちた。長時間、監禁され、その上、拷問に合い、その後、脱出して走り続けて来たのだから、身体がバラバラになりそうに疲労していて、ベットに横臥してからのことは、何も覚えていない。
〇
俺は麗華と秀蘭に身体を揺すられて、目を覚ました。『
「リュウ。大丈夫。朝よ」
「止めてくれ。傷が痛む」
「ああ、良かったわ。気が付いたわね」
麗華が、そう言って、ほっと息をついた。
「ここは」
「覚えてないの。秀蘭の家よ」
そういえば昨夜、俺は麗華に連れられ、彼女の友人の家に転がり込んだのだ。記憶が蘇った。朝の食事の時、秀蘭が麗華に言った。
「あんた、一睡もしてなかったわね。大丈夫?」
「平気よ。秀蘭。本当にありがとう。2人とも貴方に心から感謝しているわ」
「友達だから、遠慮無用よ。それより、気を付けてね」
「うん。ありがとう」
そんな親友の姿を褒めたたえるように、明るい朝の光が、窓から射し込んで来た。朝食を済ませ、少し休んでから、俺たちは李秀蘭の家を離れた。俺と麗華は用心しながら、俺の荷物が置いてある『望湖賓館』に向かった。『望湖賓館』に着くと。藩莉々が俺の部屋にやって来て言った。
「今朝、4人の中国人が貴方に会いたいと訪ねて来ました。一人は有名な黄先生で、他の3人の名前は分かりません。豊島先生が不在と話すと、黄先生が手紙を置いて行きました。豊島先生に直接渡すようにと言って去って行きました」
「謝々、伝言、有難う」
「渡しましたよ」
藩莉々はそう言って、部屋の奥に座っている麗華の方を、怪し気に覗き込んでから、部屋を出て行った、俺は早速、黄順立からの手紙を開けてみた。
〈 MR、リュウ。私はこれから、呼和浩特へ行く。王東洋は宋光明を射殺しようとして殺された。今頃、彼の死体は銭塘江大橋の下あたりを、流れていることであろう。敵は貴方を狙っている。私は健の墓場が呼和浩特の奥地にあることを突き止めた。これから、その確認に行く。呼和浩特には、宋光明たちの大麻栽培場があり、健は2年前、それを探りに行ってから行方不明になったまま帰って来ない。麻薬組織のボスは必ず、呼和浩特に現れる。健の仇を討つのは呼和浩特だ。私は呼和浩特で、貴方が来るのを待っている。
黄順立 〉
俺は黄順立からの手紙を読み終えて不思議に思った。黄順立が日本語の手紙を書ける筈がない。誰が書いたのか。『美山貿易』の田中史郎かも知れない。俺が読み終えた手紙に目を通して、麗華が言った。
「罠だわ。光明たちのことを詳しく書きすぎているわ。貴方の仲間が、どんなに優秀でも、光明たちの行動を正確に掴める筈がないわ」
麗華の言う通りだった。
「王東洋が銭塘江に捨てられたとすれば、俺たちが逃亡した後、余りにも短時間で、宋光明たちの動きを把握し過ぎている。麗華の言う通り、罠かもしれない。だが健介のことを知る為に、そこへ行かねばならぬ」
「上海に行った高力英から、連絡は無いの?」
「ない。上海で何をしてるのやら。それにしても王東洋は可哀想だ。銭塘江に捨てられ、大海に出て、魚の餌になって、消えてしまうのだろうか」
「中秋節の3日後の大海嘯の逆流に乗って、銭塘江の岸に打ち上げられない限り、そうなるわね」
「いずれにせよ、私は健介の墓があるという呼和浩特に行ってみるよ」
俺は呼和浩特に行くことを、決心した。たとえ黄順立の手紙が、誰かが仕組んだ罠であっても、健介の足跡を確かめなければならない。何故なら俺は健介の生存を信じて中国に来たのであるから。
「ところで呼和浩特って、どっちの方にあるの」
「遠い内モンゴルよ。麗華も一緒に行って上げるわ。そんなタドタドしい中国語での独り旅は無理だわ」
「ありがとう。大丈夫なの。君は光明を裏切ることになるよ」
「光明は台湾の大麻加工工場との仲介役なのだから、貴方の敵ではないわ」
趙麗華は、さらりと言ってのけた。俺には、それが不思議でならなかった。では何故、宋光明は俺を拘束し、隠し物の在処を白状させようとしたのだろうか。隠し物とは何か。俺は麗華に訊いた。
「私には彼らが求める隠し物というのが何なのか分からない。健介だけが知っている隠し物の隠し場所って呼和浩特にあるのだろうか?」
「それって、拳銃のことでしょう。健さんは私の友達と拳銃の取引をしていた。ロシア製拳銃、トカレフを人民解放軍から仕入れ、厦門経由で、台湾や日本に密売していた。厦門の窓口は、宋光明。彼は健さんと一緒になって、日本への帰国者を利用し、北京や上海、香港経由で日本に持ち込ませていたわ。唐三彩の大きな馬やラクダの中に拳銃を埋め込み、それをスーツケースの中に1,2個、隠し込ませ、運ばせていたの。日本の税関は、中国からの帰国者に対しノーチェックなの。今まで誰も捕まらなかったわ。台湾とは厦門経由で海上取引してたの。だから健さんと光明は深い信頼と友情で結ばれていたの」
「健介は何処かに拳銃を沢山、隠していたのだろうか?」
「光明は、それとは別に大麻商売をしているの。この商売は健さんとは全く関係ないの。呼和浩特の大麻栽培場で収穫した大麻を河船を使って鄭州に送り、鄭州の秘密工場で加工して出来上がった物を、連雲港経由で日本へ、厦門経由で、台湾へ運び込んでいるの。それを健さんが知ってしまったの。光明の部下が、うっかり、口を滑らせ、『明永商事』の北京支店の男が麻薬密輸出に関わっていると、健さんに話してしまったの。それがいけなかったのよ。興味を持った健さんは同じ『明永商事』北京支店の男に会いに行ったわ。それから健さんは行方不明になってしまったの。多分、北京支店の男に消されたのだわ」
「その消された場所が呼和浩特だというんだね」
「順立の手紙からすると、そういうことになるわね」
俺は健介が密輸の仕事をしていたことを麗華から教えられ、びっくりした。健介が拳銃の密売などという、恐ろしい仕事をしていたなんて信じられなかった。だが健介のしていたことは事実のようだ。俺の知らない健介の謎が解け始めて来た。健介を殺したのは『明永商事』の北京支店の男のようだ。
「北京支店の男の名前は分かっているのですか?」
「北京支店長代理の青山雄三よ」
「光明は健介を殺したのが、青山だと知っているのかな?」
「薄々、感じているのではないかしら。でも青山雄三が健さんを殺したのは、内蒙古に配属されている人民解放軍の連中だと言っているから、真実を確かめるしかないの。光明は健さんが行方不明になってから、人民解放軍からの拳銃入手方法が無くなり、拳銃入手ルートを失い、拳銃の輸出商売は完全にストップ。その為、香港の『香港長栄実業』や『美山貿易』も困っているの。光明は、そのことで、香港、高雄、神戸の暴力団から、拳銃商売を続けるよう督促され、イライラしているわ」
「だから内蒙古へ行って、健介が付き合っていた中国人を突き止めようというのだな」
「そうかもね。それに大麻の栽培場との取引を青山たちと一緒に継続しているから・・」
「考えてみれば妙な事が、沢山、起きすぎる。俺はただ、貴方たちに振り回されているような気がしてならない」
俺は疑いの目で、麗華を見詰めた。すると麗華は不満を露わにして言った。
「何、言ってるのよ。私は高力英に貴方が健さんの親友だから、協力して欲しいと言われ、今回、貴方に協力して上げているのよ。貴方は健さんを探しに来たのに、途中から殺し屋になったのじゃあないの」
「俺が殺し屋?」
俺は麗華の発言に、ゾッとした。何故、俺が殺し屋なのか。俺はただ健介を探しに来ただけの事だ。なのに何故、俺が殺し屋なのか。
「リュウ。貴方は私の目の前で中国人3人を射殺したわ」
「3人が死んだとは限らない・・」
「貴方は、香港の連中に騙されているのよ。貴方は光明を殺す為に派遣された殺し屋なのよ。でも私は貴方に光明を殺させたりさせないわ。貴方が光明を殺したら、一等、悲しむのは健さんだから・・」
麗華の瞳で涙が光った。麗華の言う通り、俺は騙されているのかもしれなかった。殺し屋として、『白雲山練武場』で訓練され、厦門に派遣されたのかもしれなかった。それにしても高力英は、何処で何をしているのか。力英に自分の立ち位置を確認したかった。俺は心配する麗華に言ってやった。
「安心してくれ。私は光明を殺さない。光明は堂々とした立派な男だ。光明には健介との深い友情が感じられた。彼は私が健介に関する特別な秘密を持っていると思っている。それが拳銃の隠し場所なのか、別の物の隠し場所なのか分からない。いずれにせよ、彼と再会して、聞き出そうと思っている」
「では、ホテルをチエックアウトして、上海へ向かいましょう」
俺は麗華の言葉に頷いた。窓から見える西湖は美しい長閑な春景色だった。この美しい街とさよならするのかと思うと、ちょっと残念な気がした。
〇
俺と麗華は午後2時の杭州駅発南京行きの汽車に乗った。軟座席に座り、車窓の景色を眺めながら、俺は健介の中国での仕事ぶりを想像した。あいつは麗華のような美人を連れて客先訪問などしていたのだろうか。中国は日本と異なり、男女同権そのものであり、優秀な女性が、男性を部下にして、活躍している姿を目の当たりにして、俺はジョックを受けた。想像からすると健介は、人民解放軍の女性幹部と親しくなり、軍の銃器保管庫から拳銃を入手していたに違いない。それが発覚した為に、健介は処刑されたというのか。噂だけで事実は分かっていない。実態を詳しく把握しなければならない。そんなことを考えながら、菜の花畑を眺めているうちに、急に農村風景から、大都会風景に変わった。そして夕方5時過ぎ、俺たちを乗せた列車は、上海駅に到着した。俺は高力英から、上海での宿泊先が『錦江飯店』だと知らされていたので、上海駅前でタクシーを拾い、『錦江飯店』へ行った。ホテルの受付で、高力英の事を聞くと、彼は昨日、チエックアウトし、北京に向かったという。豊島流太が来たら、そう伝えてくれとの伝言があったという。ホテルの受付嬢は北京のホテル名と電話番号の書かれたメモを渡してくれた。そのメモを受け取り、俺たちは上海で1泊することにした。『錦江飯店』は旧フランス租界にあり、大鷲が茶色の翼を大きく広げたような格好のホテルで迫力があった。俺たちはそれぞれの部屋に荷物を置いてから、『錦江飯店』の前のレストラン『樹園』で広東料理を食べながら、今後のスケジュールを相談した。上海から北京まで、飛行機で移動したいところだが、拳銃を所持しているので、汽車で移動するしか、方法がなかった。そこで明日、午後一番の汽車に乗り、上海から北京へ向かうことにした。俺は折角、上海に来たのだから、この際、有名な黄浦江の外灘に行ってみたいと麗華に言った。すると麗華は笑った。
「日本人は何で外灘が好きなのかしら。明日は切符手配などで忙しいので、食事が済んだら連れて行ってあげるわ」
「ありがとう」
俺たちは夕食を済ませるとタクシーに乗って、外灘に向かった。延安路を走り、『和平飯店』前で下車し、そこから黄浦江の畔を散歩した。夜風が心地良かった。この海岸通りはバンドと呼ばれ、ヨーロッパを思わせるホテルや銀行、政府機関などのビルが立ち並び、夜のネオンが河面に反射し、実にエキゾチックだった。当然のことながら海岸通り公園はアベックがいっぱいだった。もし麗華が健介の恋人で無かったなら、キッスでもしてやりたいところだが、それはしてはならない事だった。彼女は『黄浦公園』の向こうに見えるのが『上海大厦』だと教えてくれた。また、朝早くに来れば太極拳でにぎわっていると説明してくれた。夜なので船が、灯りを点けて往来していて、ゆっくりと時が流れていた。海岸を散歩した後、麗華に『和平飯店』のロビーの奥に案内され、そこのバーでジャズバンドの演奏を聴きながらワインを飲んで楽しんだ。ちょっと良い気分になったところで、俺たちは『錦江飯店』に戻ることにした。タクシーの中で、麗華が言った。
「私たちのホテルの近くの『丁香花園』にダンスホールがあるの。これから行きませんか」
俺は、迷った。健介の彼女と、これ以上、親しくなって良いのだろうか」
「上海の夜を楽しまないで、素通りするのも勿体ないわ」
俺は、麗華の要望に応え、『丁香花園』のダンスホールに行った。会場は踊り客でいっぱいだった。ミラーボールが輝き、着飾った老若男女が身体を寄せ合い、熱気の中で踊っていた。俺も麗華も既に杭州で一緒に踊ったことがあるので、躊躇することなく踊った。
「こんな風に楽しく上海の夜を健さんと過ごしたことを思い出すわ。健さんは一体、何処にいるのかしら」
「内モンゴルで消息を絶ったらしいが、呼和浩特に行ったら会えるかも」
「そうだと嬉しいわ。私は上海から北へ行ったことがないの」
「広州から北京は遠いからな」
「そうなの。私は健さんにとって、上海から南の女なの」
俺は麗華の言葉から中国が広く、南と北とでは世界が違うという現実を教えられた。中華人民共和国では国民が勝手に移住する事が許されないらしい。中国の戸籍には都市戸籍と農民戸籍があり、勝手に他の州や都市に移ることが許されず、日本の江戸時代の士農工商に似たような制度によって、中国国民は中国共産党に支配されていた。だが鄧小平によって、その縛りが緩和され、少し楽になったと麗華は語った。上海の夜は俺たちを歓喜させてくれる程、魔都に向かって復活し始めていた。私たちは踊り疲れると、ホテルに戻り、別々の部屋で眠った。俺は夜遅い時刻だったが、日本へ電話を入れ、小池祐子に、今、上海にいて、明日、北京へ移動すると報告した。小池祐子は眠っている所を起こされ、ちょっと不機嫌だったが、直ぐに元気を取り戻して、俺が健在であることを確認し安堵したようだ。
〇
4月14日の日曜日、ホテルで朝食を済ませてから、部屋で出発の準備をしたり、母、茂子に電話したりしていると、趙麗華がロビーで待っていると連絡して来た。そこで荷物を持ってロビーに行くと、麗華は『上海国際旅行社』の女性社員から、北京行き寝台車の切符を受取り、情報交換をしていた。旅行会社の女性は北京のホテルまで予約してくれていた。中国は何事も人脈だった。俺たちは北京行きの切符を手にすると、ホテルのチェックアウトし、『錦江飯店』からタクシーで上海駅へ行った。上海駅は、地方から出て来た布団を持った人や、人民服の勤め人、汚れた衣服を着た労働者などで、ごった返していた。そういった人たちを掻き分け、俺と麗華は北京行きの列車に乗り込んだ。車内は高力英たちと広州から上海へ向かった時と同じ軟座席であるが、麗華と一緒なのが、俺の気持ちを安心させた。正午過ぎ、上海を出発した列車は上海の大都会から緑の田園風景の中を走り、北へと向かった。蘇州、無錫などという、馴染の地名の町を眺め、南京から揚子江の長江大橋を渡った時は感動した。何という大河の流れか。俺は中国の壮大さに感動した。車窓の景色に見とれている俺とは対照的に、麗華は同席の老夫婦と世間話をして、ゴトゴト揺れる列車旅を楽しんでいた。徐州に到着したところで夕方になり、老夫婦が下車して、入れ替わりに、女性親子が乗り込んで来た。北京に行くのだと言う。俺は外の景色が夜景になったので、麗華が買ってくれた弁当を食べて、先に上段のベットに登り、読書して過ごした。済南に停車した時は真夜中だった。中々、眠れなかったが、時々、眠っていたらしい。天津に到着したという放送を耳にした時は、もう夜明けを過ぎて、辺りが明るかった。それにしても夜行列車の旅は睡眠不足で辛い。そうこうしてるうちに午前8時過ぎ、北京駅に到着し、俺はホッとした。まずは北京駅近くの『新僑飯店』に行き、チェックインし、午前中、互いの部屋で休息した。正午過ぎ、ホテル内で昼食を済ませた。その後、俺も麗華も北京に初めて訪問したので、ホテルの受付で観光案内地図をいただき、北京市内を散策することにした。まずは天安門広場に行き、その広さを確認し、『故宮』を一回り。『北海公園』を観たり、『景山公園』の山頂から『紫禁城』や北京市を一望して過ごした。その後、『王府井』という繁華街で夕食。北京ダック、餃子、油条、饅頭、刀削麺、杏仁豆腐などの北京料理を美味しくいただいた。満腹になったところで、俺たちは『新僑飯店』に戻り、明日、ゆっくり北京で過ごし、傷の痛みを治し、元気になったところで、呼和浩特へ行くことにした。ホテルの部屋に戻ってから、俺は小池祐子に電話した。
「もしもし。今晩わ。祐子か。俺だ」
「こんばんわ。今日は何時もより早い時刻に電話くれたのね」
「うん。今、北京にいる」
「森田さんの情報、まだ掴めないの?」
「うん。まだ掴めてない。噂だが、森田は内モンゴルで消息を絶ったらしい。紘子には言えないが、森田とは永遠に会えないかもしれない。俺は森田の最後の場所を確かめる。半月ほどで、日本へ帰る予定だ」
「あと半月も。随分、長いのねえ。何故、北京などにいるの?」
「折角、北京に来たんだ。観光がてら、調べたいことがあってね」
「もしかして、中国で良い人、出来たんじゃあないの。女の人と北京遊覧?」
俺は、びっくりした。女の感とは恐ろしいものだ。電話なのに俺はドギマギしてしまった。
「そんなだと良いのだがな」
「そうそう、この間。喜多見のマンションに行ったら、『明永商事』の青山雄三という人から、紘子さんへの手紙が来ていたわ。それで紘子さんに、その手紙を渡し、一緒に読んだわ」
「何て書いてあった?」
「会社を辞めてからの森田君の消息を追っているが、彼の所在は分からない。風の噂で、軍人の娘と恋仲になり、内蒙古の方へ逃走し、それっきりとのことです。それが事実か確認したが、彼は見つかっていません。軍と関係した事だから、これ以上、探しても、無理だと思うし、危険です。何か情報が入ったら知らせます。残念ですが、日本側から捜査するのは控えて下さい。人民解放軍が目を光らせていますので危険です」
「成程」
俺は青山雄三が、何故、紘子に、祐子が話したような手紙を出したのか、不思議でならなかった。紘子は青山雄三を知っていて、健介の捜索を頼んでいたのだろうか。俺は祐子に訊いた。
「紘子は青山を知っているのか」
「どんな人か知らないけど、森田さんと同じ『明永商事』の社員で、親しかったらしいわよ。親切な人みたいよ。森田さんのこと、諦めていないみたい」
「そうか」
「北京にいるのだから、青山さんに会ったら」
「彼には会わない。紘子には俺の行動を、話さないでくれ。俺は近く内蒙古に行く。そこで総てが明白になる。そしたら日本に帰る」
「分かったわ。気を付けてね」
「うん。お休み」
「お休みなさい」
祐子との電話を終わらせてから、俺は青山雄三の事を疑った。もしかすると、健介は青山たちに殺されたのかも知れない。余分な事を考えると、俺は眠れなくなった。だが折角、北京に来たのだから、明日1日、観光を楽しもうと、『万里の長城』などのことを夢想すると、何時の間にか眠っていた。翌日、俺と趙麗華は、タクシーを使って、『万里の長城』、『明の十三陵』、『頤和園』の観光を丸一日、楽しんだ。『万里の長城』からの眺めは素晴らしかった。明日、あの山の彼方に行くのだと思った。観光を終えてから夕方、『民族文化宮』の近くにある『民族飯店』に行った。1階レストランで夕食をしながら、麗華と『明永商事』の様子を窺った。このホテルには、『明永商事』の北京支店があり、青山雄三が現れるかもしれなかった。日本人宿泊客の多いホテルだった。だが青山雄三らしき男は見当たらなかった。俺たちは何の手がかりの無いまま、『新僑飯店』に戻った。ホテルには高力英からも、黄順立からの連絡も入っていなかった。兎に角、呼和浩特に向かうしかない。俺は明日、麗華と出発することを決めた。
〇
4月17日、水曜日。俺たちは呼和浩特行きの準備をして、午前中、『天壇公園』と『瑠璃廠』を見学して時間をつぶし、正午前、ホテルのチエックアウトを済ませ、ホテルに荷物を預け、『北京飯店』や『民族飯店』で時間つぶしをした。そして夕刻、『新僑飯店』に戻り、荷物を持って、北京駅へ行った。北京駅は上海駅ほどではないが、大変、混雑していた。俺と麗華は手を取り合って、京包線ホームに行き、北京駅19時9分発の包頭行きの列車に乗った。包頭は内蒙古という辺鄙な所にあるが、鞍山、武漢とともに中国3大鉄鋼コンビナートのある都市だという。その聞いたことも無い都市に向かって、俺たちを乗せた汽車は動き始めた。八達嶺の峠を越え汽車は西北へ向かって走った。俺と麗華はお茶を飲み、ピーナツやバナナを口にし、軟座席の窓辺に向き合って座り時間を過ごした。夜行寝台席が取れなかった為、この状態で、13時間半過ごさねばならない。そこで俺たちは、いろんな話をした。俺は中国に訪問して、現地で実感していることを喋った。
「中国は今、私たちが乗っている貴社のように、自由資本主義国家に走り出してしまっている。政治家が如何にマルクスの唱えた社会共産主義国家が素晴らしい政治国家だと力説しても、自由資本主義国家に触れた中国国民は、努力すれば報われるという自由資本主義思想をマスメディアを通じ知ってしまった。また個人に於いても事業に投資し挑戦すれば、大儲け出来ることが、実証された。今や鄧小平が共産主義経済から資本主義経済に転換させた改革開放政策は中国全土を吞み込みつつある。女たちは人民服を捨て、綺麗な衣装で着飾り、化粧し、男たちは人民元より外貨券を求め、サングラスをかけ、子供たちはテレビに夢中になり、大人たちは個人商売に精を出すようになった。若者たちは、ディスコ、スナックで深夜まで遊ぶ。俺が想像していた人民服の中国は何処かへ行ってしまった」
そんな俺の話を聞いて麗華は笑った。
「中国は鄧小平主席の指導により大発展しているの。黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫なのよ。都会は活気を帯び、農家は都会に野菜や果物を売って大儲け。国民が目覚めたの」
「成程」
「今は中国の農家の人が日本に観光に出かける時代よ。井の中の蛙、大海を知らずね」
麗華の言葉に、俺は一本とられた。車窓を眺めて微笑する麗華の横顔は神秘的だった。月と星が美しい。汽車は沙城、宣化、張家口、陽高と真夜中の草原を走った。大同を過ぎると、あたりが明るくなり始め洞窟で暮らす人たちや、馬や羊の姿が目に入った。集寧を経ると人家に煙が上がり、乗客が乗り降りし、賑やかになって来た。そして午前8時43分、俺たちの乗った列車は呼和浩特駅に到着した。駅前広場にはチューリップなど、春の花がいっぱい咲いていた。俺たちは駅前から『呼和浩特賓館』にタクシーを走らせた。『呼和浩特賓館』は校舎のような格好のホテルだった。部屋を求めると、無いという返事だった。有っても無いというのが中国人の商売の仕方だと分かっている麗華は、外貨券をちらつかせて、受付の婦人を口説いた。すると受付の婦人は、言った。
「あいや、遠くからやって来たのね。1階の奥の片隅に2部屋あるわ。そこで良かったら」
「では、そこの部屋をお願いします」
「了解しました。お腹はお空きですか?」
「はい」
「かしこまりました。では食堂に朝食を用意させましょう。部屋に荷物を置いたら、食堂へ行って下さい」
「知道了」
俺たちは受付で部屋の鍵を受け取り、1階の奥の部屋に行った。部屋は確かに2部屋だが入口は1ケ所だけだった。麗華に他の部屋が無いのか交渉するように話すと、麗華は断った。
「何を言っているの。私はリュウと一緒の入口の部屋で構わないわ。ベットは別々なんだから」
「ううん、だけど」
「何を余計な事考えているの。ここに来たことは敵陣にいるようなものだから、何時も一緒にいる方がかえって安全で好都合よ」
言われてみれば、その通りだ。俺は自分の勝手な想像を恥じた。入口のドアを開けると右側に風呂場とトイレがあり、その先の正面と左側にドア付きの部屋があった。俺は左側の部屋に、麗華は正面の部屋にそれぞれの荷物を置いた。座席のままの夜行列車に乗って来たので、2人とも、睡眠不足で、とても疲労していた。食堂に行くと、現地人が、俺たち2人を、もの珍しそうに眺めた。ここには俺が今まで旅をして来た広州、上海、北京のような発展している輝きが無かった。50年前から時が静止したままのようだった。俺の想像していた中国が、そのまま、ここにあった。外国人は俺と麗華の他に1組しかいなかった。他の1組は総勢12人のヨーロッパの連中で、観光バスで中国旅行をしているみたいだった。俺は麗華と片隅のテーブルで食事をした。パンと山羊乳と羊肉のメニューで、はっきり言って、美味しくなかった。しかし、郷に入らば郷に従えで、不味くとも食べなければならないと思った。まずは慣れる事だ。朝食を終えると、眠気が2人を襲った。俺と麗華は、各々の部屋に入り、睡眠をとり、体力を取り戻すことにした。それにしても部屋のベットは粗末で、身を沈めると、ギイギイ音がして、耳障りだった。だが、そのやかましい音も、寝返りしないでいると、段々、遠のいて行った。
〇
午後、部屋のドアがノックされ目を覚ますと、趙麗華が俺に声をかけた。
「食事にしましょう」
「もう昼か」
俺は気が進まなかったが、麗華と今朝、食事したばかりの食堂へ行った。朝より沢山の人民服姿の男女が、大声を上げながら、食事をしていた。俺たちに気づくと、時々、視線を投げて来た。パンを口にしながら麗華が、言った。
「連絡が入らないので、食事の後、観光しましょう。呼和浩特は蒙古語で『青い城』という意味の高原都市なの。漢の元帝の妃、王昭君は、北方にいた匈奴の強敵、呼韓邪単于に望まれ、政略結婚の犠牲になり、異郷の地で一生を終えたの。大黒河の畔に彼女の墓があるので、そこへ行ってみましょう」
俺は、宋光明たちの動きが気になって仕方なかったが、何もすることが無かったので、タクシーを呼んで、麗華と王昭君の陵墓を見学した。王昭君は楊貴妃、西施、貂蝉と並ぶ中国四大美人の墓とあって、若い観光客が来ていた。俺は、そこで蒙古刀の土産を買った。麗華は蒙古靴を買った。そんな観光を終え、ホテルに戻ると、黄色いモンゴル衣装を着た若い女性がロビーで待っていた。彼女は日本語で喋った。
「お待ちしてました。私は胡園花と申します。高力英さんからの伝言です。明日、ここに迎えに来ますので、外出せず、ホテルにいて下さい」
「リーンは呼和浩特に来ているのですね」
「はい」
「良かった。安心しました。ホテルで待っていると伝えて下さい」
「では、失礼します」
そう伝言し、胡園花が立ち去ろうとすると、麗華が、彼女に声をかけた。
「園花さん。ありがとう。健さんは元気なの?」
すると園花は、キョトンとして麗華を見詰め返した。
「あらっ、今、何と仰いました?」
「健さんは元気なのと訊いているの?」
「健さんって、何処の人のことかしら。私、そんな人知りませんわ。ではまた」
彼女は、そう言って、深く頭を下げると、ホテルから逃げるようにして去って行った。麗華は彼女を見送り、首を傾げた。
「どうしたの。首を傾げたりして」
「うーん。何でも無い。高さんから、連絡が入って良かったわね」
「うん」
俺たちはロビーから部屋に帰り、それぞれの部屋で休息した。夕刻、俺の部屋のベルが鳴り、俺は受話器を取った。
「はい。どなたですか?」
「リュウ先生。黄順立です。今日、忙しくて、お会い出来ませんでした。でも明日、会える。明日、午前10時に、ホテルに迎えに行きます。ロビーで待っていて下さい」
「黄さんは、今、何処にいるのです?」
「呼和浩特から、少し離れた所にいます。明日、必ず迎えに行きます」
「分かりました。10時、ホテルのロビーで待っています」
俺はそう答えて黄順立からの電話を切った。何時の間にか、趙麗華が、俺の傍に立って、電話を聞いていた。彼女は裸だった。勿論、バスタオルで胸などを隠していた。
「誰からの電話?」
「黄さんから。明日、午前10時、ここへ迎えに来るって」
「そう、黄さんから」
そう喋るや麗華は自分が裸であるのに気づいた。
「ごめんなさい。シャワーを浴びてたら、電話が鳴ったので、裸のまま来ちゃって・・」
彼女は赤面し、慌てて自分の部屋に逃げ込んだ。それは滑稽な姿であるが、実に艶美な後ろ姿だった。乳房をバスタオルで隠していても、後ろからは白い背中や尻が、丸見えだった。俺は興奮した。欲望が湧き上がり、彼女の部屋に押しかけて行って、彼女に襲い掛かりたかった。しかし、彼女が健介の恋人である思うと、その欲望を制御せざるを得なかった。俺は自分の部屋に入り、じっとしていた。10分程すると麗華がドアをノックして、俺の部屋に現れた。彼女は白いワンピースに着替えていた。
「これから街に出て、食事をしましょう」
そう言われ、俺は外出の準備をして、麗華と街に出た。呼和浩特の街は柳やポプラの並木道が縦横に走っていて、汚い商店ばかりが、軒を連ねて並んでいた。行き交う人は漢族の他、モンゴル族、チベット族、回族などいて、異様な街の雰囲気だった。日用品を売っている店が多かった。タマゴやロウソク、古本などを売っている店もあった。食堂らしき食堂は見当たらなかった。麗華が裸電球を点灯させている薄汚い食堂を見つけたので、仕方なしにそこに入った。まずビールを註文し、乾杯。それから羊肉のロースト、麻婆豆腐、焼き芋、キクラゲとチンゲン菜の炒め物、饅頭、羊のスープなどを口にして満腹になった。明日、黄力英たちに会えることになったので、俺はルンルン気分になっていた。ホテルに戻ると、ホテル前に若い男女が集まり、賑わっていた。ホテルの入口に、今夕、ダンスパーティがあるという張り紙を見つけ、麗華が言った。
「今からダンスパーティが始まるの。このままダンスパーティに参加しましょう」
「ああ、良いよ」
ダンスパーティの会場入口は、杭州の『華僑飯店』でのダンスパーティ同様、『呼和浩特賓館』の裏口だった。俺は麗華に入場券を買ってもらった。何故なら、外国人であるという理由で、入場を断られる可能性があったからだ。俺は麗華と手をつなぎ、入場券を見せて、ダンスパーティ会場に入った。その会場は体育館のような広さで、実に開放的だった。バンドメンバーも杭州に比較して人数が多く、劇場のオーケストラのようだった。まるで音楽会のような雰囲気で、パーティが始まると、『白鳥の湖』、『ドナウ川のさざ波』、『黒き瞳』、『闘牛士のマンボ』、『ラ・クンパルシータ』など、流麗な音楽が流れて来た。ところが呼和浩特に住むモンゴルの清純な若い男女は、抱き合って踊るだけで興奮し、素晴らしい演奏に乗り切れなかった。ただひたすら抱き合い、ボックスを踊るだけだった。そのような人たちの中で、俺と麗華は、美しい曲に合わせ、勝手気ままに踊った。俺の白い背広と白い靴、麗華の白いワンピースに赤いベルトと赤い靴とが、モンゴルの人たちの目を奪った。俺に抱かれて踊る麗華の白いワンピースの上に、彼女の黒髪が風のように揺れた。すると下手な連中が中央から退去し、上手な連中だけが、中央で踊った。踊りながら、麗華が言った。
「素敵な夜だわ」
「何故?」
「言わないで。リュウと私は高原の青い城の王子様とお姫様よ。何もかも忘れて楽しく踊りましょう」
俺は、麗華の言葉が気になったが、それを追求せず、夢中になって踊った。何時までも彼女と踊っていたかった。しかし、ダンスパーティは夜の9時30分に終了した。俺たちはホテルの部屋に戻って、麗華の部屋でジャスミン茶を飲んだ。そして少し喋ってから、俺は立ち上がった。
「お疲れ様。ではおやすみ」
すると麗華が慌てて俺の手を引っ張った。
「リュウ。貴方は私に、このまま1人で眠れって言うの?」
俺は、その言葉にドキッとした。麗華の瞳が潤んで濡れているのが目に入った。どういうことか。俺は困惑した。彼女の言葉を素直に信じ、彼女と一緒に眠ってやるべきか。彼女とダンスの続きの快楽を享受したいのだろうか。いけない。これは罠かもしれない。俺は正直いって、心の片隅で、彼女に疑問を抱いていた。そこで言ってやった。
「俺は君と寝る訳にはいかない」
「どうして?」
「君は健介の恋人。君を抱くことは健介への裏切りだ」
俺の言葉に麗華は突然、自分の顔を両手で抑え、ベットの上に身を投げ出し、泣き出した。俺は慌てた。
「何故、泣くの?」
「リュウなんて嫌い。健さんは、もうこの世にいないのよ。そのいない人の為に、私は他の人に抱かれてはいけないの。好きなのに抱かれては駄目なの。死ぬまで私は、他の人に抱かれては駄目なの」
「健介が、もうこの世にいないなんて、どうして言えるのだ」
「明日になれば分かるわ。私たちは明日、健さんのお墓を確かめてから殺されるかも知れないのよ。なのに、その前に心を一つにして来た私たちは抱き合ってはいけないの?」
「麗華!」
俺は彼女が言っている言葉を理解する事が出来なかったが、情欲に突き動かされた。俺はベットで泣き伏している麗華の上に乗って、彼女のうなじに接吻した。それから泣いている麗華を強引に仰向けにして、抱きしめ、彼女を素裸にした。俺もまた麗華に裸にされた。こうなったら俺たちに言葉など無用だった。麗華の長い髪がベットの上で乱れた。俺たちは激しく求め燃え合った。軟弱なホテルの部屋のベットがギイギイ鳴った。その様子を呼和浩特の夜の青い月が、部屋の窓のカーテンの隙間から覗き見していた。俺たちは同じベットで裸のまま眠った。俺たちは明け方まで、同じベットで一緒だった。
〇
4月19日、金曜日の午前10時、黄順立が『呼和浩特賓館』にやって来た。彼はカーキ色のジープから降りると、ロビーで待っている俺たちの所に、ゆっくりと歩いて来た。俺と同席の趙麗華に気づくと、彼はびっくりした顔をした。麗華が何故、呼和浩特までやって来て、俺といるのか理解出来ないみたいだった。
「リュウ先生も隅に置けないですね。こんな美人と一緒とは・・」
「黄さんも御存知と思うが、彼女は健介の恋人だ」
「分かっています。びっくりしました。宋光明と一緒に厦門に帰ったと思っていたのですか?」
「黄さん。久しぶりね。厦門に私の帰る場所なんて無いのよ。広州に帰るのも面倒だから、リュウさんの案内役として、遊びがてら呼和浩特に来てみたの」
麗華と黄順立は、森田健介が香港にいた時代、宋光明らと一緒に、何度か会っていたらしい。2人は、それ以上、余分な事を話さなかった。俺と麗華は黄順立に案内され、彼が乗って来たカーキ色のジープの後部座席に黄順立と一緒に並んで座った。運転手と助手が前の席で、エンジンをかけ、出発の合図をすると、同時に順立が俺たちに言った。
「これから、健の墓場に案内します。車で4時間かかります」
俺は、それを聞いて、ショックを受けた。本当なのか。健介が、亡くなっいるというのは。信じられない。俺は通り過ぎる景色を眺めながら確認した。
「健介が亡くなったというのは本当なのか?」
「はい。内蒙古守備軍の女に溺れ、人民解放軍から隠れ国民党と疑われ、抹殺されました」
黄順立からの返答は、健介が、まだ中国にいて、密かに大仕事をしようとしているのではないかと想像していた俺にとって、衝撃だった。俺たちを乗せたカーキ色のジープは古ぼけた住宅の並ぶ呼和浩特の街の中を走った。見かけない俺たちを、街中の連中が、もの珍しそうに眺めた。ポプラ並木の街を抜け、少し行くと人家もまばらになり始めた。道路も凸凹道。土壁の崩れかけた見すぼらしい家が、所々にあった。やがて道路は陰山山脈に向い、急勾配の石のゴロゴロした坂道を走った。
「この先が日本人が陰山山脈と呼ぶ大青山です。健が亡くなった場所は、あの山の向こう側です」
順立から説明され、こんな所にまで健介は来ていたのかと、驚嘆した。その陰山山脈を越え、幾つかの峠を過ぎ、武川県という田舎町に出た。この田舎町の外れで大麻や芥子を栽培しているという。この田舎町からジープは更に北へ向かった。前方に見えて来る山々に樹木は無く、なだらかな丘陵のうねりがずつと続いていた。飛行する鳥の影も無かった。草原に高射砲が並ぶのを目にして、俺は健介が、ここら辺にいた軍服姿の女性と親しくなったに違いないと想像した。その場所を過ぎると、もう中国という感じはしなかった。青い大きな空と緑の大草原が続く。時々、羊の群れと土壁の家が見える程度で、ただ広大さに驚くばかりだった。紫色や黄色の小さな花が風に揺れ、そよ風が、いらっしゃいと歓迎しているかのように、心地よく頬を撫でた。やがてジープは目的地の烏蘭図格に到着した。俺たち3人は、ジープの運転手らと別に、ラマ教の寺院のほとりで、一休みして、肉饅頭と豆乳で昼食を済ませた。それから、健介の墓にお参りするのかと思ったら、彼らは俺たちをモンゴルのパオに案内し、モンゴル舞踊を見学させた。民族衣装で着飾った若い男女が、広大な草原で、歌ったり、踊ったり、素晴らしい民族歌舞を披露してくれた。日本の歌『さくらさくら』も演奏してくれた。モンゴルの人たちは日本人にとても親しみを感じていた。日本人に似た顔つきの人もいた。モンゴル舞踊を見学した後、近くにある遊牧民の家庭に訪問し、温かい羊乳を飲んだ。電気が無く、暗いランプの生活。ラジオはトランジスターラジオだった。俺は羊乳を飲みながら、麗華が順立に問うのを聞いた。
「健さんのお墓は、まだなの?」
すると黄順立は戸惑いを見せた。腕時計を見たりしてから、答えた。
「もう少し経ったら、墓を知る者が来るので、案内します」
俺は、麗華が、順立とそんなやりとりをしているので、草原に出て、白い石を拾った。石英のような石だった。草原のあちこちに、青や白の石ころが沢山、転がっていて、とても天空に近い場所にいる気分になった。麗華は遊牧民の家から出て来ると、草原で歌を唄った。『愛の夢』という歌だった。
我沈酔在這幸福里
尽情地享受愛的甜蜜
我知道夢的会消失
却不能這様和你分離
啊我・・・
その歌は日本の五輪真弓の『抱きしめて』の中国語の歌唱で、とても美しく聞こえた。その後、30分程してから、俺たちは遊牧民とさよならして、再びジープに乗った。ジープには背の高いモンゴル人が1人加わった。道案内人だという。健介の墓のある所まで行くには、道の無い平原が続くので、現地人でないと到達出来ないという。案内人は太陽と草原のうねりで、自分の位置と方向を判断するらしい。ジープの振動に揺られながら、順立が説明した。
「健の墓は、この草原の一等高い所にあります。そこは昔、ジンギスカンが指揮を執った祭壇のある場所です。ここから30分程,、行った所です」
順立の言葉に俺も麗華も、いよいよかと緊張した。ジープは広大な草原を、ジンギスカンの祭壇のある場所を目指し、突っ走った。そのジンギスカンの祭壇は30分も経たないうちに、草原の円い丘の上に現れた。黄順立はジープから俺たちを降ろすと、モンゴル人たちと、その丘の上の祭壇に俺たちを案内した。ジンギスカンの祭壇は直径15メートル位の円形状の石垣舞台だった。その場所からは草原の四方八方を見渡すことが出来た。祭壇の石垣の上には何本かの幟がはためき、祭の時の献花や樹木の枝が、しおれて風に揺れていた。羊の群れが眼下を草を食みながら通り過ぎて行く。その祭壇の前で黄順立は俺に言った。
「リュウ先生は、健から隠し物が、この平原の何処にあるのか、教えてもらっているのではないですか?」
「隠し物?」
「しらばっくれないで下さいよ。張作霖が満蒙の馬族や匪族からせしめた宝物や奉天城内にあった清朝副宮殿から盗んだ秘宝、それに張学良の財産のことですよ」
「そんな話、聞いてないよ」
「それを確認する為に、中国にやって来たのではないですか?」
「そんな事で、やって来たのではないよ」
「そうですか?」
「それより、健介の墓は何処にあるのです」
「ここです」
黄順立は祭壇の左右には1メートル位の高さの小石の塔が30程度、並んでいるのを指さした。俺は、その小石の塔を見て、これが健介の墓なのかと、奇妙な気分に襲われた。ついに健介の墓を突き止めることが出来たぞ。探しに探した健介の最後の場所を目にして、俺は涙した。妹の紘子や姪の仁美の顔が、走馬灯のように俺の脳裏を駆け巡った。突然、麗華が泣き出した。彼女は小石の塔の前に跪いて、涙をボロボロ流して、中国語で何か喋っていた。健介。お前は何故、異郷の地で殺されるような死に方をしてしまったのか。妹たちを残して、何故、死んでしまったのか。俺は麗華と一緒に健介の墓に手を合わせて、彼の冥福を祈った。そんな時、ジンギスカンの祭壇の丘の下に、1台の白いマイクロバスが停まった。そのマイクロバスから、4,5人の男が跳び出して来た。先頭にやって来たのは『明永商事』北京支店の青山雄三だった。杭州の西湖の『楼外楼』で目にした肥った黒縁の眼鏡をしたあの男だ。彼は俺の前で黄順立に訊いた。
「品物の隠し場所は教えて貰えたかね?」
「健から教えてもらっていないと言っています」
「豊島さん。本当かね。本当に知らないのかね。それを運び出す為に、内蒙古に来たのじゃあないのかね」
俺には全く予想外の質問だった。俺は、青山を睨みつけて訊いた。
「黄さんから張作霖の財宝と訊かれ、何のことやらチンプンカン。健介と何か関係あるのですか?」
「森田は、拳銃の入手の為に呼和浩特にやって来ているうちに、張作霖の財宝の在処を知ったのさ。それを台湾と香港にいる張作霖の孫、つまり張学良の息子に教えて、その移送を仕事にしようとしていたのさ」
「張作霖の財宝?」
「関東軍の司令官、本庄繁は元張作霖の軍事顧問だった。従って張作霖の息子、張学良と、とても親しかった。そのことから、満州事変後、本庄繁は、奉天に残されていた張作霖の財宝や張学良の財産を、部下に命じ、2輛の貨車に乗せて、北京の張学良のもとに送ったんだ。ところが張学良は国民党の蒋介石との会談などで忙しくて、それを受け取る暇が無かった。その為、その財宝は何者かによって密かに元の馬賊たちのもとへ運ばれたというのだ。その在処を森田が探索し、2年前、その場所を突き止めたんだよ。だが、あいつだけの秘密にして、俺たちに教えてくれなかったのさ」
「成程」
「それを知った俺たちは、それも欲しくなってな」
「そいうことか。それで健介を健介を殺したのか?」
俺が、そう言うと、青山雄三は、薄気味悪く笑った。
「その隠し場所を白状しない森田を、何故、殺す必要がある。殺した理由は他にある。森田は私の秘密を知り過ぎたのだ。武川県で栽培した大麻などを、鄭州の密造工場で加工し、厦門に送り込み、そこから宋光明を通じ、香港、高雄に密輸出していたのさ。森田は宋光明と拳銃の取引をしていたことから、そのルートを知った。そこまでは特に問題では無かった。ところが馬鹿な宋光明の部下が、日本への大麻持ち込みの手続きに私が関与していることを、森田に喋ってしまったのさ」
「えっ。貴方が日本へ麻薬を・・」
「森田は自分でも悪事を働いているのに、私の悪事を知ると、意気揚々と北京にやって来た。そして私が鄭州で出来上がった大麻を大連経由で冷凍魚のコンテナに隠して日本に送り込んでいることを追求して来た。冷凍食品なので、税関の検査も届きにくく、日本の私の仲間が、横浜の保冷倉庫から、大麻入り木箱を、サンプリングと称して抜き取り、暴力団に密売している事実を知ると、私を脅して来た。私がしていることが本社に知られれば、私は、即刻、クビだ。森田は口止め料を私に要求して来た。私は、そこで、この烏蘭図格で財宝探しをしている森田を中国人を使って殺した」
「な何ていうことを・・」
「森田は御覧の通り、そこの石の下で眠っている。豊島さん。あんたも一緒に、ここに眠ってもらう」
そう青山雄三が言った瞬間だった。麗華が青山に向かって拳銃の引き金を引いた。バーン。
「健さんの仇!」
彼女が叫んで発射した銃弾は、青山雄三には当たらず、彼の後ろにいたモンゴル人に命中した。と同時に、また銃声がした。バーン。麗華が上半身を前にかがませ、つんのめった。麗華の背後にいた黄順立が麗華を撃ったのだ。俺は事態を読み取り、直ぐ行動に出た。
「裏切ったな。順立!」
俺は倒れ伏す麗華を抱きかかえると、祭壇舞台の石垣の陰に隠れた。それを見た順立が、俺を撃とうとした。その瞬間、俺は電光石火、アストラのトリガーを引いた。バーン。黄順立は、俺の一発で倒れた。今まで身近にいて俺に親切にしていた順立が、血が噴き出す脇腹を抑えながら、転げまわるのを見て、俺は震え上がった。麗華を抱えて蒼白になっているの俺を見て、青山雄三が太い声で笑った。
「豊島さん。無駄な抵抗は止めろ。大人しく銃を渡せ。周りは皆、あんたの敵だ」
俺は6人の男たちに遠巻きにされ、自分の呼吸が荒くなり、寒気を感じ、震えている己自身を自覚した。だが勇気をふりしぼって反発した。
「やれるものならやってみろ。俺にはお前たちを倒す自信がある」
すると青山雄三は、数歩下がって、連れて来た荒くれ男たちに命令した。
「小癪な。お前たち、こいつをやっちまえ!」
その声に、銃を持っていないのに跳び込んで来るモンゴル人がいた。俺は容赦なく引金を引いた。バーン。その瞬間、モンゴル人は大声を上げ、俺の前で赤い血飛沫を飛び散らせ、ドサッと倒れた。俺が追い詰められているのに、麗華は俺の腕の中で、動こうとしなかった。昨夜、麗華が〈私たちは明日、健さんのお墓を確かめてから殺されるかも知れないのよ〉と囁いた事が、今になって分かった。俺は、そんな麗華を草の上に寝かせると、祭壇舞台の石垣の上に跳び上がり、アストラを発射させた。青山雄三は、手下が俺の弾を食らって転倒するのを見て、驚愕した。敵は丘の下のマイクロバスの陰に後退し、滅茶苦茶に俺に向かって撃って来た。草原に激しい銃声がこだました。俺は弾が何時、尽きるのか心配だった。横たわる麗華の所へ戻って、彼女の拳銃も手にして戦った。このまま撃ち合いを続けていたら俺の負けだ。弾が尽きたところで殺される。そんなことが頭によぎった時だった。草原をこちらに向かって来る3つの影が目に入った。敵か味方か。黒衣をまとい、ラクダに乗って何者かが、こちらに向かって来る。その姿は、学生時代、健介と神田の映画館で観た『アラビアのロレンス』に登場したオマル・シャリフを想起させる雄姿だった。先頭の男は左手にアサルトライフルを引っ提げているようだ。彼は俺に向かって大声で叫んだ。
「リュウ。助けに来たぞ!」
そう叫んだかと思うと彼は銃弾30発をこめたアサルトライフルで、マイクロバスの陰に隠れている悪党ども、3人を、瞬時に打ち殺してしまった。流石、香港一の殺し屋、高力英。青山雄三や彼の手下はあっという間に血を流し、草原の草をむしりながら呻き死んだ。絶体絶命と思っていたが俺は助かった。
「リーン。ありがとう」
「間に合って良かった。リュウが殺されたら、ボスに首にされるところだった。王東洋を失ってしまい、随分、時間をかけてしまった。ボスはカンカンだ」
俺は力英と2人の助っ人と握手をして、直ぐに趙麗華の所へ駆け戻った。麗華の身体を抱き上げて揺すったが、彼女は息絶えて、何も言わなかった。力英がマイクロバスの中で震えている運転手を連れて来て、命令した。3人の運転手は、スコップを持っていた。俺と麗華を埋める為に用意していたスコップに相違なかった。
「死んでいる奴らの墓を掘れ」
運転手たちは、ガタガタ震えながら青山雄三たちの死体を埋める為の穴掘りを始めた。その間、高力英が、ラクダに乗って一緒にやって来た2人を俺に紹介した。
「こちらの2人は、健と一緒に宝探しをしていた兄妹だ」
「胡善武です。よろしくお願いします」
「妹の胡園花です。『呼和浩特賓館』で、お会いしましたね」
胡園花は、そう言って笑った。彼女が青いチョッキのような服を着て、ラクダに乗って来たので、俺には彼女だと分からなかった。高力英は運転手たちが、墓穴を掘っている所に近づき、一人の男に言った。
「そこの女性の死体をジープに乗せて、これから案内する所に運んでくれ」
「ドンラ」
男が了解したので、俺は男と一緒に麗華に近寄り、麗華の死体を、ジープまで運んだ。それから麗華を乗せたジープに乗り、ラクダに乗る3人の後について、烏蘭図格のラクダ乗り場まで行った。そこで、力英たちはラクダを返し、自分たちが乗って来た別のジープに麗華の死体を乗せ換えた。そして力英が戸惑っている運転手に言った。
「スコップを、こちらに寄越せ」
「ドンラ」
運転手は自分のジープから、スコップを取り出し、麗華を乗せたジープに乗せた。力英は、それを確認すると、その運転手を仲間の所に帰した。そのジープを見送ってから力英が俺に言った。
「これから健の墓に案内する」
「ええっ。健介の墓は、先程のジンギスカンの祭壇の所じゃあないの?」
俺が、びつくりした声を上げると、力英がモンゴル人姉妹の顔を見てから笑って説明した。
「違うんだ。健が殺された場所は確かに、あそこだ。しかし、健の亡骸は、この兄妹によって、別の所に運ばれ、心を込めて埋葬された。今からそこへ行く」
「分かった」
俺は胡善武の運転するジープに乗って、力英たちと烏蘭図格から、健介の墓のある烏蘭花鎮に向かった。烏蘭花鎮に着いたのは夕暮れ時だった。真っ赤な太陽が草原を染めていた。胡園花が指さして言った。
「健の墓は、あの烏蘭花古城の近くに見える2本のポプラの根本よ」
胡善武は、その野っ原の2本のポプラの木の前で、ジープを停めた。俺は、そこに森田健介と彫られた小さな石塔が土饅頭の上にあるのを確認した。俺はその石塔の前に立ち、泣きそうになって、呟いた。
「健介。お前はこんな所で眠っていたのか」
俺が手を合わせていると、胡善武が力英に訊いた。
「どこら辺に埋めましょうか?」
「うん、そうだな」
力英が、そう言って、俺の顔を見た。それで俺は善武に言った。
「彼女の穴は、健の石塔の隣にしてくれ」
俺の指示を受けると、胡兄妹は複雑な顔をした。そこで俺は園花からスコップを奪い、健介の土饅頭の隣に善武と一緒に、麗華の墓穴を掘った。石だらけのポプラの根元近くに、30分程して麗華の墓穴が完成した。俺は力英と一緒になって、麗華の死体をジープから降ろし、ゆっくりと墓穴に仰向けに寝させた。園花が近くから名も知らぬ草原の花を集めて来た。その花を4人で、手を合わせて眠る麗華の胸の上に飾ってやった。更に、その上に俺のダスターコートを掛けてやった。力英は首の白いマフラーを麗華の顔の上に乗せて言った。
「健と仕合せに眠りたまえ」
俺は、3人と一緒に祈り、それから麗華の墓穴に土を投げ込み、人に気づかれぬよう麗華を土中に埋めた。麗華の墓が健介の墓の隣に出来上がったのは、夕日が沈もうとする時だっだ。地平に真紅の大きな太陽が沈むのを俺は感動をもって眺めた。麗華の埋葬を済ませると、俺たちはジープに乗って、烏蘭花鎮の胡善武の家に行き、胡善武の両親たちと一緒に夕食を共にすることになった。麗華を失った悲しみに暮れる俺を、善武の母親、薄路如が慰めた。善武の父、敢武は張作霖の財宝の在処、百霊廟に健介を案内したことを話した。当時、敢武は北京の張学良軍にいて、張学良が不在の時、満州から財宝が届き、それを張学良の弟、張学思や荷物を届けに来た日本兵、森田健吉、黒田博行らと一緒に、北京から離れた蒙古の地に運んだという。敢武は目に涙をにじませ、健介が、その荷物を移送した森田健吉の息子で、父から聞いた財宝の話が本当か調べに来て殺されたと語った。また酒が回ると、健介は娘の園花が惚れる程、誠実な男だったと娘との関係を暴露した。俺は健介の話を聞き、堪えきれずに、小便をすると言って、家の外に出て涙した。見上げる夜空を満天の星が飾っていた。
《 完 》
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