2024/10/16_9:51:47
俺の親友、森田健介が行方不明ななってから、昭和59年(1984年)末で、2年になる。森田健介は『明永商事』のエリート社員だった。その健介の妻になった俺の妹、紘子は2歳になる仁美を抱かえて、毎日、泣き暮らしている。そんな妹を見ていると、消息を絶った健介が憎い。何故、健介は自分たちの前から消えたのか。生きることが辛くなって蒸発したのか。中国に長期出張していて、何かの事故に遭遇したのだろうか。それとも日本に戻り、何処かで暮らしているのか。あるいは中国の何処かで生存しているのであろうか。いずれにせよ、明確にしてあげなければならない。お袋も滅入ってしまう。俺だって困ってしまう。父が亡くなり、お袋と2人暮らしの複雑な家庭に、嫁さんの来てもいなくなってしまう。当然のことであるが、健介は、去年いっぱいで解雇されてしまっている。それにしても、あの健介が、俺や俺の家族を裏切る筈がない。俺と彼とは大学時代から助け合って、大学を卒業した。地方出身の彼は、俺の目黒の家に、しばしば泊まりに来た。亡くなった父も誠実な彼を見て、家族同様の付き合いをしていた。そして俺の妹、紘子を嫁がせた。なのに何故、健介は・・・。突然、俺たちの前から姿を消してしまったのか。妹に何か気に入らない悪い所でもあったのか。勤務先内で、都合の悪い事でもあったのか。それとも何かの事件に巻き込まれたのか。分からない。分からない。分からない事がいっぱいだ。何とかしなくてはならない。
〇
11月の日曜日、俺は妹が行きたがらない世田谷区喜多見のマンションに、部屋の後片付けに、小池祐子と出かけた。銀杏の葉が黄金色に輝く、爽やかの日だった。2人は、喜多見駅から5分ほどのマンションに辿り着き、その5階の部屋から富士山を眺めてから、布団や書物、食器類などの梱包を始めた。衣類など妹の物は、妹が仁美を連れて、実家に戻って来た時、持ち帰ったので、部屋になかった。健介の衣類や帽子、靴などが、残されていたので、それもダンボール箱に詰めた。その後片付けを手伝いながら、祐子が言った。
「勿体ないわね。こんな素敵な所を引き払うなんて」
「仕方ないよ。旦那がいなくなったんだ。家賃だって高いんだ」
「貴男が住めば良いのに・・・」
「こんなに広い所に、俺、1人でか?」
「私が一緒に住んで上げても良いわ」
「危ない、危ない」
俺は雑誌記者だ。結婚する気にはなれない。給料が安い。何時、事件に巻き込まれるかも知れない。結婚したら、相手が可哀想だ。何時、帰るとも分からない毎日だ。今日、東京にいたかと思えば、明日は九州、札幌だ。家庭生活なんてありゃしない。苦労を掛けるに決まっている。だが祐子は、同じ雑誌社の同じ職場の事務員だ。そこらへんのことは心得ている。結婚するのなら無難な相手かもしれない。だが、健介のことがはっきりするまでは・・。そんなことを考えている俺に、額の汗を拭きながら祐子が確認した。
「小物は全部、ダンボール箱に入れたわよ」
「サンキュー」
「大物はどうするの?」
「古道具屋に売却するつもりだ」
「でも哀れなものねえ。甘いマンション生活も、3年で、ジ・エンドだなんて・・・」
「可哀想な奴さ」
本当に可哀想な奴だ。俺は、そう呟いてから、祐子に言った。
「折角の日曜日なのに、荷作り手伝ってもらってすまなかった。駅の近くに美味しいフランス料理の店があるんだ。これから、そこへ食事に行こう」
「まあっ、嬉しい」
2人は5階からエレベーターで1階に降りた。そして1階の管理人室の管理人に頭を下げて、外に出ようとすると、管理人が声をかけた。
「森田さん。ポストに沢山、郵便物が入っていますよ。たまには見て下さいね」
「済みません」
俺は夕子とポストの中を覗いた。化粧品店からのハガキ、求人案内、スーパーマーケットのバーゲンセールの広告、水道代の請求書などが、中にいっぱい入っていた。ダイヤルを回し、中の物を取り出した。何と、その中に紘子に宛てた森田健介から封書があった。俺は慌てて、祐子と部屋に戻った。俺は心を落ち着かせ、その封書を開けた。そこには、こう書かれていた。
〈 この手紙を、お前が読んだ時、僕はもう、この世にいないかも知れない。僕は仕事に夢中になりすぎた。その為、とんでもないことになってしまった。知っての通り、僕の仕事は中国への機械やプラント設備の輸出。ところが何度も現地に訪問するうちに、悪い連中に関わってしまった。深入りしてしまったのだ。
もっと、いろんな事を書きたいが、書けばお前の身が危なくなる。ただ言いたいのは、仁美をよろしく頼むということだ。
この手紙を読んでも、決して騒ぐな。流太兄さんだけに見せろ。流太兄さんは、事件記者だ。きっと、お前を救ってくれる。運があったら、また会おう。
健介 〉
俺は一緒に手紙を見た祐子の緊張した顔を目にした。この手紙の内容は、妹や健介の両親には勿論、誰にも知られてはならない事だった。俺は祐子に釘を刺した。
「見なかったことにしてくれ」
妹の夫、森田健介は事件に巻き込まれたのだ。彼はもう、この世にいないかも知れない。俺は、この事件調査の為、このマンションの賃貸を延長することに決めた。健介を助け出す為には、身内をも欺かなければならない。俺は、そう決心し、祐子と再び部屋を出て、1階に降り、その後、フランス料理店『ポアティエ』に行った。俺は祐子と美味しいフランス料理を口にしながらも、心は虚ろだった。
〇
俺は健介の手紙にあった悪い連中を探す為、『明永商事』の森田健介が出入りしていたバーや関係先を当たってみた。馴染みのバーは銀座に2軒あったが、そのいずれも『明永商事』の社員たちが利用している店で、健介に特別の女がいる店でもなかった。健介の関係客先は中国との友好商社や香港の商社で、その人間関係の調査は、困難を極めた。そした或る日、俺は妹との会話の中から、健介が石油化学プラント会社の技術者、若杉純一としばしば中国出張していたことを聞いた。その若杉純一は、健介の写真アルバムに載っていた。いかにも技術設計者という風貌で、気の弱そうな雰囲気を漂わせていた。その若杉の勤める浜松町の会社に訪問すると、若杉は外の喫茶店で話そうと言った。俺の訪問を待っていたかのようだった。喫茶店『セーヌ』で名刺を交わし、コーヒーを一口飲むと、若杉は健介の事を話してくれた。
「森田さんには大変、お世話になりました。会社を辞められたことも聞きました。一体、どうしたのですか。元気でいますか?」
「それが、行方不明になったまま、どうしているのか分からないのです」
「ええっ。本当ですか?」
「なので、森田について、知っていることを教えてもらおうと、若杉さんを訪ねたのです」
「そうでしたか。森田さんは明るい人でした。学生時代もそうだったのでしょう」
「そう。あいつは頭も良かったが、剽軽で、女の尻ばかし追いかけていた。だが、ああ見えて根は勤勉で真面目な男さ」
「確かに森田さんは、女性が好きですよね。マッサージが好きで、私を何度か、新宿へ連れて行ってくれました」
若杉は変な所で俺の言葉に同感だと言った。そこで俺は森田が何処のマッサージ店を利用していたか、若杉に訊いた。
「そのマッサージ店は歌舞伎町の『レモン』ですか?」
「いいえ。『ベルジュ』です。あの店に、幸子という彼女がいましてね。彼が行くと、ロハで、いろんなサービスをしてくれるそうです。私も何度か付き合わされました」
「ほう。『ベルジュ』ね」
「豊島さんも一度、行かれたらどうです。あの店の幸子に聞けば、何か知っているかも・・・」
俺は若杉が教えてくれた『ベルジュ』の幸子という女の名前を頭に刻み込んだ。
「森田と中国へ出張したようですが、どちらの方へあいつと出張しましたか?」
「北京と上海、それに青島、厦門、広東。まあいろいろですね」
若杉は健介との出張の思い出の数々を話してくれた。彼は健介の手紙にあった悪い連中とは関りなさそうだった。
〇
翌日、俺は新宿のマッサージ店『ベルジュ』に行った。俺はそこで幸子を指名した。待合室で、少し待つと、活発そうな女の子が跳び出して来て、俺の番号を確かめ、俺をカーテンルームに案内した。
「あんた、私を指名したけど、初対面よねえ。誰の紹介?」
「森田健介の紹介で・・」
「そんな。森田さんは私を紹介したりしないわ。必ず、町子や洋子を紹介する筈よ。あんた刑事でしょう」
「いや。森田の友人だ」
「嘘でしょう。森田さんが、私を指名するように言う筈ないわ。あんた、森田さんを探しているのでしょう。私に質問したって何も知らないわよ」
「確かに森田の紹介ではない。しかし、森田と俺が学生時代からの親友であることは、嘘ではない」
「それを証明する何かある?」
そう言われても、俺が森田の親友であると言う証明は、第三者を連れて来ない限り、何処にも見当たらない。大学生時代、大洗海岸に泳ぎに行った時に撮った2人の写真を持参すれば良かったと思った。
「今あるのは俺が豊島流太であるという証明だけだ。俺の運転免許証だ。見てくれ」
「確かに貴男の言われた名前の免許証ね」
「これを見せても、俺が森田の親友であるかどうか、君には分からないだろうね。親友だと証明するものは何も無い」
「立派な証明よ」
「えっ、信じてくれるのか?」
俺はびっくりした。俺の名前が幸子に通じたみたいだ。
「あんたが豊島さんね」
「そうだ」
「森ちゃん、今、日本にはいないわよ。きっと中国だわ。森ちゃんの奥さん、豊島さんの妹さんでしたわね」
「うん、そうだ。良く知ってるな」
「森ちゃん、奥さんのこと、とても愛しているわ。大学時代、仲間だった豊島さんの事も、得意になって私に話してくれたわ。私、豊島さんにサービスしちゃう」
「良いんだ。今日は森田の話を聞かせてくれれば、それで良いんだ」
「でも・・・」
俺は健介の抱いた女を抱く気にはなれなかった。それよりも、俺の知らない健介のことを、少しでも多く知りたかった。俺は幸子から、健介に関するいろんな事を聞いた。中でも、この話はショックだった。
「森ちゃんはピストルを持っていたわ。何か怖い仕事をしているみたいだったわ」
「それは本当か」
「本当よ。だから森ちゃんを探すのは止めた方が良いわ。もし探すなら、貴男もピストルを持つ事ね。そうでないと、命が幾つあっても足りないわよ」
「森田は、そんなヤバイ仕事をしているのか」
「そうに違いないわ。だから、森ちゃんを探すなら、ピストルが無いと・・」
「警察でもないのに、ピストルなど、手にする事は出来ない」
「それが出来るのよ。私が良い人を、紹介して上げるわ。森ちゃんと親しくしていた香港人よ」
「香港人?」
俺は、またまたびっくりした。幸子は、そんな俺の顔を見て笑った。
「私、森ちゃんと一緒に香港に行った時、その人に会ったの。電話して上げるわ。彼なら森ちゃんの消息を知っているかも。貴男が中国へ行って、森ちゃんを探すというのなら・・」
俺は健介を探す為なら、この命を賭けようと思った。妹の紘子や姪の仁美の為だ。何としても、健介を探し出し、決着をつけなければならない。
「俺は中国へ行って森田を探す。お願いだ。その人を紹介してくれ」
「高いわよ」
「高くても良い。紹介して欲しい」
俺は夢中になって、幸子にお願いした。すると幸子は俺の肩を軽く叩いて、笑った。
「冗談よ。貴男が森ちゃんを日本に連れ戻してくれれば、私、何も要らない。明日、連絡してみる。私のマンションの電話番号、教えるわ。明日の午後1時半頃、電話を頂戴」
幸子は、そう言って、小さなメモ用紙にマンションの電話番号と携帯電話の番号を書いてくれた。幸子は心の優しそうな女だった。こんな仕事を辞めて、別の仕事をするよう説教しようと思ったが、初対面なので止めた。
〇
翌日、午後1時半、俺は幸子のマンションに電話した。すると彼女は香港と連絡が取れたので、高円寺の喫茶店『ポエム』で、話しましょうと言った。俺は彼女の指示に従い、電車を乗り継ぎ、目黒から高円寺まで行った。喫茶店『ポエム』は駅前にあり、直ぐに分かった。ちょっと暗い店の中に入って行くと、奥まった席に幸子が座って、コーヒーを飲みながら俺を待っていた。彼女は微笑んで言った。
「ここ、直ぐ分かりましたか?」
「はい。駅に降りて見回して直ぐに・・」
俺は、そう答えて、幸子の相向かいの椅子に座り、コーヒーを註文した。白いワンピースの上に枯葉色のショート丈ベストを羽織った彼女は『ベルジュ』で会った時と別人のように見えた。俺は一呼吸おき、真っ直ぐに幸子を見詰めて訊いた。
「香港と連絡が取れたということですが、協力していただけそうですか?」
「ええ。貴男が香港に訪問したら、協力してくれるって。香港のボスも森ちゃんを探しているらしいの」
「その香港のボスって、何の仕事をしているの?」
「ちょっと説明が難しいんだけど、まあ貿易の仕事かな」
「それで森田と親しくしていたというんだな」
「まあ、そんなとこね。一言で言うと、遊び人仲間ね」
彼女らしい言い方だった。いずれにせよ、相手から俺の受け入れについて、オッケーとの返事を頂いたとの報告だった。俺は幸子から、その香港人の氏名、勤務先、住所、電話番号を教えて貰った。仄暗い喫茶店での打合せが終わってから、俺たちは新宿に移動し、『長春館』で焼き肉を食べた。満腹になったところで、幸子が俺をからかった。
「とても美味しかったわ。何故か眠くなっちゃった。ホテルで一眠りしましょうか」
「おお、怖い。遠慮しとくよ」
「何が怖いの。私、真面目に言っているのよ」
「あんたとそんな関係になったら、森田に悪いよ」
「馬鹿ね。冗談よ冗談」
そんなやりとりをした後、彼女は『ベルジュ』の勤務時間になったからと言って、歌舞伎町のマッサージ店へ出勤して行った。俺は幸子のメモを再確認し、香港に行く決心をした。翌日、俺は会社の総務部に家庭の事情を説明し、半年の休職を申請し、その許可をいただいた。小池祐子が休職までしなくともと忠告したが、1週間程度の香港旅行で、健介を見つけられるとは思えないので、浜田部長に本当の理由を述べ、来年1月から正式に休職することの了承を得た。
〇
昭和60年(1985年)2月27日、水曜日、俺は香港へ向かうことになった。母と妹と姪に見送られて、梅の花咲く自宅を出発し、東京駅で小池祐子と待合せして、大丸デパート内のレストランで昼食。その後、東京駅前からタクシーで箱崎のティーキャットに行き、リムジンバスで成田に向かった。箱崎のティ-キャットまで見送りに来てくれた祐子と、改札口でキッスの別れをしたかったが、恥ずかしくて、手を振るだけの別れとなった。リムジンバスが『成田国際空港』に到着するや、キャセイ航空のカウンターに行き、荷物を預けた。それから土産物を買い、手荷物検査、出国手続きを済ませ、18時発、CX505便に搭乗。マルコポーロ席に座り、ホッとする。乗客はいろいろ。商社員風の日本人男性、欧米のビジネスマン。新婚旅行らしきカップル。子供連れ中国人家族などなど。機内は既に夜の気配。その搭乗機は定刻、『成田国際空港』を離陸。香港へ向かって飛行。俺は日本とさよならする。CX505便は緑色の翼を広げ、成田から九州沿岸、沖縄沿岸、台湾沿岸を経て、飛行し、現地時間、21時30分に香港の『啓徳国際空港』に無事到着した。懐かしの空港は旧正月旅行の帰り客で混雑していた。『啓徳国際空港』で入国手続きを済ませてからタクシーに乗り、香港島にあるホテルに向かった。九龍と香港島を結ぶ海底隧道『クロスハーバートンネル』を抜けると、そこは銅鑼湾。そこからモリソンヒルの『帆船酒店』に行き、チェツクインしたのは10時過ぎ。部屋に入り、ホッとしていると、部屋に電話がかかって来た。
「もしもし、トヨシマさんですか?」
「はい。豊島です」
「私、チャンさんの秘書のキャシーと申します。今、ロビーにいます。これから、部屋に挨拶に行きます。よろしくね」
「オッケー」
俺は、そう答えて時計を見た。10時半になろうとしていた。しばらくすると、部屋のドアがノックされ、ドアを開けると、キャシーが可愛い笑みを見せて入って来た。俺はちょっと赤面した。彼女は小さな名刺を出し、自分の正式名と年齢を言った。22歳。長い黒髪の女性だった。彼女は、俺に伝えた。
「ではチョンさんからの明日の予定報告をします。明日の朝、私が、ここへ迎えに来ます。8時半までに朝食を済ませておいて下さい。それから『香港長栄実業』に案内します。そこでチョンさんに会って、中国へのビザ申請をしてもらい、中国へ行く日を決めます。中国には、『香港長栄実業』の者が通訳を兼ね同行しますので、安心して下さいとのことです。以上、よろしくお願いします」
「ありがとう御座います。こちらこそ、よろしくお願いします」
「私、豊島さんの友達、森田さんのこと知ってます」
「ええっ、本当ですか?」
「森田さんには、2年前、会いました。何度か香港に来ました。森田さん、良い人」
「森田を知っているのですか。私は、その森田を探しに香港にやって来たのです。森田について知っていることがあったら、教えて下さい」
「森田さんのこと、私たちのボス、チャンさんが、明日、豊島さんに詳しく説明してくれると思います。私、詳しい事、知らない。明日、チャンさんに訊いて下さい。では、バイバイ」
キャシー呂は、そう告げて、帰って行った。俺は、彼女の報告に従い、明日、新宿のマッサージ店『ベルジュ』で働く幸子に紹介してもらった『香港長栄実業』の張成安の事務所に訪問することになった。張成安とは、どんな人物か。マッサージ店の幸子が知っているような男であるから、特殊な仕事をしている人物に違いない。余分なことを考えると眠れそうになかったが、移動の疲れで、何時の間にか深い眠りに落ちていた。
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目覚めれば香港は霧だった。かって訪れた時と似ている。午前7時半、ホテルのレストランで朝食。8時半過ぎ、昨夜、会ったキャシーがレストランに現れ、コーヒーを飲みながら9時にホテルを出発する約束をした。それから部屋に戻り、小池祐子に無事、香港に到着したことを報告し、カバンと手土産を持って、ロビーに行き、キャシーとタクシーを拾った。向かったのはジャクソン通りにある高層ビルの12階にある『香港長栄実業』の事務所だった。キャシーに案内され、会長室に訪問すると、張成安会長が、笑顔で俺を迎えてくれた。
「你好。ようこそいらっしゃいました。私が張成安です」
「豊島流太です。よろしくお願いします」
「待っていましたよ」
張会長は、油っぽい両手で、俺の手を、むんずと掴んだ。俺も力を入れて両手で彼と握手した。張会長は背が低いが、浅黒い顔の太っちょの男だった。中々の恰幅をしていて、迫力があった。握手を終えて、俺をソフアに座らせると、張会長が、俺に訊いた。
「飲み物は何が良いですか?日本のお茶もありますよ」
「ありがとう御座います。ではコーヒーをお願いします」
「では私もコーヒーにしよう」
張会長は、そう言って、キャシーに合図した。そのキャシーを見送ってから、張会長は俺に話しかけて来た。
「幸子さんから、いろいろと聞きました。健を探しているのですね」
「はい、そうです。健介は私の妹の夫です。健介が日本に帰国していないのが分かったので、香港に探しにやって参りました」