第一章「陽輪ノ国から」玖
娼館で働いていたムラサキはある日用心棒として雇われてやって来た男がかつての知り合いだと気づく。その男・紅蓮と再会を果たし、彼にムラサキを狙う者がいる事実を告げられた。このままでは周囲を巻き込みかねないと不安に思ったムラサキは、紅蓮と結託して娼館を出る決意をする。紅蓮に身請けされる形で店主とも話をつけ、身請けの日を迎えたムラサキだったが、乗り込んだ馬車の中で待っていたのはムラサキの客・宝生優だった。ムラサキの思いとは裏腹に、優に身請けされたムラサキの身柄は馬車で宝生家へと運ばれる。
宝生家での暮らしの回です。
以下、注意書きです。
・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です
・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません
・娼館についても独自設定であり、もちろんファンタジーです
当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。
どうぞよろしくお願いします。
※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止
十四.
到着した宝生の屋敷は立派な邸宅だった。
広い庭は手入れが行き届いている。屋敷内に入ると何人もの使用人がてきぱきと働いている姿が目に入った。仕事一筋の男に仕える使用人もまた、主と同じく仕事熱心で手際が良いらしい。帰宅した主人に執事が恭しく頭を下げる。足先まで綺麗で洗練された所作だった。
おかえりなさいませと声をかけられた優は、しかし、碌な返答もせずにさっさと屋敷内を進んでいく。愛想がない。そんなそっけない態度はいつものことなのか、執事は気にした様子もなかった。
「ムラサキ、何を突っ立っている。こちらだ」
優に手招きされ、ムラサキは執事に軽く頭を下げてから彼のもとに足早に近づいた。案内された部屋は彼の寝室のようだ。
一人で眠るには大きすぎる立派な寝台が置かれ、大人二人が手を広げて並べるほどの大きな窓が二つ並んでいる。窓の外には手すりのついたベランダがあるようだ。
麒雲館では姿形を誤魔化す目的もあり、常に薄暗い室内にしていた。逃亡しないように見張られてもいたので男娼時代は外出する機会も少なかったものである。
カーテンで隠されていない大窓の寝室は、ムラサキにはあまりにも眩しく感じられた。慣れない明るさに思わず目を細める。白を基調としている内装がその眩しさに拍車をかけた。
「奥の扉は浴室だ。好きに使っていい」
「寝室に風呂付き……?」
ぎょっとして隣に立つ優を見上げた。驚かれたことに驚いたのか、優が僅かに瞠目している。薄々気づいてはいたが、宝生優という男は割と箱入りなのかもしれない。屋敷の構えにしても、使用人の数にしても、宝生家がいかに富豪であるかを実感させられた。
それにしたって金に物を言わせて身請けの手順を一足飛びするような横槍を入れるのはいかがなものかと思うが。しかし、それを言い出すと紅蓮との身請け話もかなり強引に進めた手前、店主に対して正面から文句も言いづらい。それを計算に入れた上で、店主はより利益の高い方へムラサキを売ったのだろう。
優との距離感をムラサキは計りかねている。紅蓮との計画を潰され、優を巻き込みかねない状況への焦りや不安。悪い方へと転がっていることへの憤りもある。
優が悪意から突拍子もない行動に出たわけではないと分かっているからこそ、彼に怒りをぶつけて良いものかどうかさえムラサキには判断できなかった。
立場上、ムラサキはすでに優の所有物ということになる。当然、逆らえるような関係性ではないが、優がムラサキに高圧的ともとれる態度を取ったのは馬車の中でだけだった。
一通り屋敷のことや今後の生活に必要なことをムラサキに伝えると、優はすぐに仕事に戻った。彼は多くの時間を屋敷の中にある執務室で過ごすようだ。仕事場である執務室は普通であれば無関係な人間は入室禁止だろう。しかし、何故か優はムラサキの入室を許可した。
周囲の視線が気にかかったが、屋敷にいるのは優と使用人だけだと事前に聞いていたこともあり、ムラサキは好奇心に負けて彼の執務室を覗くことにした。
優の執務室は大量の本や書類で溢れている。彼は卓上に置かれた書類をおそろしいスピードで処理しながら、逐一指示を飛ばしていた。
「仕事一筋……なるほどなぁ」
この仕事ぶりを見れば納得だ。優の優れたところはその処理能力だけではない。まるで途切れない集中力だ。仕事に戻ってからどれだけ時間が経過しても、彼の集中は一切乱れなかった。
暫く優の仕事を眺めていたムラサキだったが、明らかに使用人ではない者も多く行き交い始めたところで身を隠すように移動した。生まれ持った色彩を誤魔化す暗闇が、宝生の屋敷にはない。ムラサキは大人しく寝室に引っ込んだ。
優の寝室に戻ると、いつの間にかムラサキの荷物が運び込まれていた。綺麗に整頓されたそれらは、屋敷の使用人たちが運んでくれたのだろう。
寝台の隣には小さな卓が置いてある。ムラサキは卓に備え付けられている引き出しを開け、その中に首から下げていたロケットペンダントを入れた。服の下に隠すように持っていたそれは、表面が少し傷ついている。
ムラサキはペンダントを入れた引き出しを閉めて息を吐いた。この卓はムラサキが好きに使っていいと優が言っていたので、ここに私物を置いていても問題はないだろう。
大窓から日光がさんさんと降り注ぐ。いまのうちにカーテンを引いて窓を隠してしまいたい。太陽が傾く前に。
優が再び寝室に戻って来たのは昼になってからだった。
「嘘つきだ」
ムラサキは寝室に顔を出した彼を見て開口一番、冷ややかに告げる。扉を開けた途端に失礼なことを言われた優はきょとんとした顔になった。そんな顔をしていると彼は妙に幼く見える。ここに来て初めて知った優の新しい一面だ。
「嘘つき……?」
戸惑う優をムラサキは遠慮なく睨む。
「この屋敷には私と使用人しかいないって言ってたよな?」
「……言った、かもしれない」
「言ったよ。仕事の関係者っぽい人たちが続々と来てたんだけど」
「それは……、すまない」
ぽつりと零された謝罪に居た堪れなさが籠っている。彼にもし犬のような耳があれば、ぺたんと垂れていたことだろう。
ムラサキは双肩を竦めてから笑った。優を相手にすると、どうにも怒りを持続させるのが難しいようだ。これはある意味彼の才能かもしれない。
「今後もこんなふうにいろんな人が来るなら、やっぱり髪を染めておきたいな」
「どうしてもか?」
不満そうに返され、ムラサキは首を傾げた。
「この色、嫌いか?」
「嫌いというより、好きではない」
「それは嫌いって意味では……?」
「違う。嫌いというほど積極的な感情はない」
理解できたような、できないような。
どちらにしても優はムラサキの黒髪が気に食わないらしい。彼はムラサキに髪を染め直してほしくないのだ。
「でも俺、どうしても染めたいんだ」
「何故だ」
嘘や誤魔化しを許さない顔で、優が問いかけてくる。逡巡は一瞬で、ムラサキは決意して口を開いた。下手なことを言うより、素直に事実を伝える方が良い時もある。
「港の噂話。銀色の髪の持ち主────あれだ。あれは、たぶん俺のことだと思う」
「……何だって?」
「髪の色のせいで変な騒動になりたくない。だから染めたい」
少々思案したような優は、暫くしてからひとつ頷くとムラサキの黒髪を指で掬った。
「銀だったのか。綺麗だろうな」
何故探されているのか。誰に探されているのか。優は聞いてこなかった。
ムラサキの髪は生え際から本来の色が見え始めている。
「そうでもない。光の当たり具合によっては白髪にも見えるだろうし」
ムラサキの髪を弄んでいた指先が後頭部にまわって項を撫でる。優の指にはペンだこができていて、少し歪で、無骨だ。それが彼の真面目さと不器用さを思わせる。
優しく項を撫でていた優の指先がするりと移動してムラサキの耳朶に触れた。耳の後ろへと滑る指がむず痒い。ムラサキは優を咎めるように睨んだ。
「くすぐったい」
「そうなのか? 私は楽しいが」
「俺は楽しくない」
「そうか。残念だな。髪のことは分かった。使用人に言って、染める道具を用意させよう」
優が折れた。頑固に頑固をぶつけて押し勝てた気分だ。
「ありがとう!」
ムラサキは顔を上げて喜んだ。良かった。これで少しは不安の原因を潰せる。屋敷の中にいたとしても、誰の目につくか分からない。できる対策はしておきたかった。
喜ぶムラサキの反応を意に介さず、優はムラサキの耳朶を指と指の間に挟んで弄ぶ。しつこいぞと文句を言おうとしたムラサキは、顔を上げた途端に近づいた優に驚いて閉口した。
瞬きの間に距離を詰められ、気づけばムラサキは優に唇を塞がれていた。
優の色事に関する電源の位置がいまいち掴み辛い。驚いて固まるムラサキを放って、優の手が後頭部に戻る。
顔を引き寄せられ、口付けが深まった。このまま口付け以上のことにまで発展しそうな雰囲気に慌てて、ムラサキは彼の肩を叩いて抗議した。優の唇が渋々といった様子で離れていく。
「……っ、仕事は?」
「普段は休め休めと説教するくせに、何だそれは」
「真昼間だ」
「時間に何の関係が?」
「……部屋の外には人がいっぱいいるだろ」
「私が許可しなければ誰もこの部屋に入っては来ない」
「……昼食は食べたのか?」
「食べた」
「こら、今の嘘だろ。分かるぞ」
「食べてはいない。後で食べればいいだろう」
「今さっさと食べて、少しくらい仮眠とった方が良いんじゃないか?」
ムラサキは次々と質問を重ねる。優が迷惑そうに眉を顰めた。
目の前で溜息を吐いた彼は、ムラサキの後頭部に置いていた手を滑らせてそっとこちらの衣服の裾を掴んだ。
「言い訳は終わったか?」
「うっ……何だよ急に慣れたような顔して……」
店に来ていた時の初心な男はどこへ消えたのか。ぶつぶつ文句を言うと、優が相好を僅かに崩した。
「ムラサキこそ、急に慣れていないような態度だな」
「慣れてないんだよ。身請けされたのなんか初めてなんだから」
「────そうか。そうだったな」
今度こそ優は、誰の目にもはっきりと分かりやすく嬉しそうに笑った。
優からの感情が、どんどん単なる興味関心だけではなくなっていくのが分かる。彼がムラサキに向ける感情の矛先に、目に見えるほどの好意が溢れていた。
優がムラサキを強引に身請けしたのは、手に入れようとしていたものを横取りされそうになって躍起になったから。という可能性もあるかもしれないとムラサキは考えていた。しかし、それだけではなかったようだ。
嬉しいと思う気持ちがある。ありがたいことだと感謝する気持ちがある。宝生優という人物を好ましく思う。それでも、やはりムラサキはここで生きていくわけにはいかなかった。
衣服の下に潜り込んだ優の掌がムラサキの肌に触れる。触れた彼の指先は熱いほどに暖かく感じられた。間近に感じる優の吐息や鼓動が理不尽に奪われてしまわないように、一刻も早くどうにかしなければと心が焦る。しかし、今のムラサキにはどうすることもできない。
ムラサキは不安な心に今だけはそっと蓋をし、目蓋を伏せて目の前に転がる現実から一時の間、目を逸らした。
次回、友人が襲来します。




