第一章「陽輪ノ国から」漆
娼館で働くムラサキは、客の宝生優から港での噂話を聞く。「銀色の髪の持ち主に大金を払う」──その話を聞いたムラサキはこのままここで働き続けることはできないと覚悟を決める。
ある日、娼館で用心棒を雇うことになった。やって来た用心棒を見て、ムラサキは記憶の中のある人物を思い出す。見覚えのある髪、佇まい。しかし、まさか彼がここにいるはずがない。記憶に蓋をして仕事を再開するムラサキだったが、そんな彼のもとに先日追い返した元常連客が普通ではない様子で押し入ってきた。
以下、注意書きです。
・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です
・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません
・娼館についても独自設定であり、もちろんファンタジーです
当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。
どうぞよろしくお願いします。
※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止
十.
───銀色の髪の持ち主に大金を払う。
貿易の仕事をしている優が、耳にした噂話。それを聞いた時、心臓がひやりとした。ムラサキは表情を変えないように注意を払わなければならなかった。優が違和感を持つような反応を見せずに済んだのは幸いである。
宝生優は勤勉で、仕事熱心な男前だ。一途すぎるところと頑なな一面が玉に瑕、と考える者もいるだろうが、話しぶりからしても懐の暖かさからしても、彼が大きな会社の幹部か代表、それなりの地位にいる男だと察せられる。
そういった身分であれば、結婚ひとつとっても戦略的な要素が含まれることもあるだろう。「遊び」であるならば兎も角、そうではない身請け話などおそらく本人の独断専行に違いない。
優は表情の変化が乏しいためか、初対面では冷ややかな印象を受ける。しかし、それを差し引いても彼は良い男で、良い人間に思えた。
ムラサキに構う必要もなく、彼にふさわしい相手がいるはずだ。ましてや港での噂話が事実ならば、ムラサキに近づかせてはならない。
もうじき時間だ。
寝台で眠る優から疲れは見えない。彼とこうして朝を迎えるのはこれで二度目だ。一度目は疲労困憊の彼を半ば強引に眠らせて休ませた。二度目の今日は、やっと客と男娼らしい朝の迎え方ができたようだ。
優の目の下に隈は見えない。仕事の方は本当に以前よりは恙なく進んでいるようだ。ムラサキは優の黒髪をそっと撫でた。
「優、時間だ」
小さく揺すると、優はすぐに目を覚ました。
「ここで仮眠じゃなくて、ちゃんと家で休みなよ」
「小言はよせ」
「はいはい」
身を起こした優が生真面目な顔になって、ムラサキの頭の上から足の先まで視線を移していく。
「体は平気か?」
それはまるで、恋人に向けるような甘やかな問いかけだった。ムラサキはむず痒い心地になって不自然にならない程度に視線を逸らす。
「平気平気。それよりもう時間が終わるからそろそろ……」
「また来る」
優は真摯な瞳を向けてくる。しかし、その瞳に見合う人間はもっと他にいる。少なくともムラサキではない。だからこそ、ムラサキは小さく首を振った。
「優、もう来ちゃだめだ」
「……何故」
ムラサキの発言に驚いているのか、混乱しているのか、変化に乏しい優の表情からはいまいち読み取れない。
「話した通り、俺は身請け話を受ける気はない。優の友人にもなれない」
「何にもならない関係に、なる話はどうした」
「……あれは、駆け引きだよ。優流に言うなら、交渉術だ。おかげで今回、俺はいつもよりお金を払ってもらえる」
軽薄さを滲ませて小首を傾げる。いつにないムラサキの態度に優は眉を寄せた。
「納得しかねるな」
「納得しなくてもいい。優との時間は楽しかったけど、しつこいのは嫌いだ」
だからこれでお終い、と言って笑った。不機嫌と困惑の間のような表情で、優が口を閉ざす。そうこうしているうちに時間がきた。
「それじゃあ」
また、は言わない。手を振って優を追い出す。優は最後まで何も言わなかった。彼がこちらの理不尽な物言いに気を悪くしてくれれば儲けものだ。飽きてここに来なくなればさらに良い。
優と別れ、部屋に戻ったムラサキは溜息を吐いた。鏡に映る自分を確認する。そろそろ髪を染め直しておきたい。しかし、不用意に外へ出かけるのは得策ではないだろう。
このままひっそりと麒雲館で働いて生きていく。そんなことは、ムラサキに許される生き方ではない。分かってはいたが、いざその現実を鼻先に突きつけられると少なからず落ち込んでしまった。落ち込む自分に呆れて、その愚かさに嫌気が差す。
ムラサキに残された時間はもうあまりない。今後のことを思って、再び重い溜息を吐いた。
十一.
優と別れた日から数日が経過しても、ムラサキの日常にこれといった変化はなかった。安堵したいところだが、日常というものは突然壊れるものだ。油断はできない。弛みそうな気を引き締め直さなければと深呼吸する。
世話役の少年がムラサキを呼んだ。どうやら、先日店主が言っていた対策がとうとう実行されることになったらしい。一階へ移動すると、店主の隣に長身の男が立っていた。
「用心棒を雇うことにした。腕っぷしが強いそうだからね。今後はこいつに厄介事は対処してもらうよ」
店主が長身の男を指差す。男はぴくりとも動かなかった。目を隠すように顔の半分を覆う仮面を着けている。そのせいで容姿も分からない。しかし、服の上からでも分かるほど鍛えられた体をしていた。
男の赤みがかった茶髪を見て、ムラサキは昔の記憶を揺り起こされる。記憶にある色と目の前の用心棒の色が重なった気がして動揺した。ムラサキは咄嗟に動揺を隠して唇を引き結ぶ。
似ている。他人の空似だろうか。しかし────。
思考を巡らせながら恐る恐る用心棒の男を見上げる。仮面の向こうで、男の瞳がムラサキを捉えた気がして心臓が跳ねた。しかし、男は何も言わない。やはり、他人の空似なのだ。彼がここにいるはずがない。そもそも、生きているかどうかさえ曖昧だった。生きていてくれと心から望んでいるが、ムラサキには彼を探す術がない。それでも、いつか必ず探し出してみせると決意していた。
ムラサキには彼を探す理由があるが、彼にはムラサキを探す理由がない。だから彼が生きていたとしても、麒雲館に来るはずがないのだ。
麒雲館でこの用心棒が活躍するまでに、あまり時間はかからなかった。
以前ムラサキが対応した乱暴な元常連客が再びやって来たからだ。男は受け付けもせずに二階へ上がり、個室・紫に押し入ってきた。
「ムラサキ!」
男は双眸をぎらつかせて鼻息荒く名を呼ぶ。ムラサキは丁度、別の客の相手をしていたところだった。それを見た男が客を押しのけて間に割って入り、抵抗しようとしたムラサキを押し倒した。完全に不意を突かれて反応が遅れる。
ムラサキの衣服にかかった男の手は必要以上に力んでいた。至近距離で見た男の目は血走っていて、碌に眠っていないことが窺えた。睡眠不足だけでなく、男の精神がかなり危険な状態であることは明白だった。異常な腕力、整わない呼吸、不安定な視線。何か違法な薬物を摂取しているのかもしれない。
男はとにかく普通の状態とは程遠い様子である。会話で落ち着かせることは不可能だった。ムラサキは咄嗟に服を掴む相手の手首を掴み、男の膝裏近くの太腿に足を引っ掛ける。相手が一瞬でも力を緩めれば、その瞬間に体の位置を入れ替えるつもりで隙を窺った。
しかし、ムラサキが行動に移すより先に、覆い被さっていた男が吹き飛んだ。男は壁を突き破りそうな勢いでぶつかって、その衝撃で気を失う。男の体がずるずると落下して崩れ落ちた。
ムラサキは暫く呆然として第二の侵入者に蹴り飛ばされた男を見つめ、その落下音とともに我に返って男を撃退した相手を見上げる。そこに立っていたのはあの用心棒だった。どうやら蹴り一つで男の大きな体を吹き飛ばしてしまったらしい。
「あ、ありがとう」
用心棒の手がムラサキに伸びて来る。思わず身構えたが、男はムラサキが身を起こすのを手伝い、そのまま黙って部屋を出て行く。片手で気絶した男を引き摺りながら。
「すごい用心棒だな」
事の成り行きを見守っていたムラサキの客が呆気に取られて言う。本当にその通りだ。強いなんてものじゃない。片足を上げても体幹がまるで揺らがないところも圧巻だった。まるで、ムラサキの記憶の中にいるあの男のように。
そうではないと誤魔化して記憶に蓋をしていたものが一気に噴き出す。他人の空似ではない。あの動きを見て確信した。
客が帰った後、ムラサキは引き出しに仕舞っていたロケットペンダントを取り出して握りしめた。覚悟は、とうの昔にできている。あちらもムラサキがその正体に気づいたことを悟っただろう。
ムラサキの予想通り、その日の明け方近くに個室・紫を訪ねて来る客人がいた。
ムラサキは客がいなくなっても仮眠を取らず、男を待ち構えていた。入って来たのは、こちらが見上げるほどの上背のある男だ。顔の上半分を覆う奇妙な仮面が真っ先に目に入る。
男の体格の良さが薄暗い室内でもはっきり分かる。鍛え抜かれた体であることもまた、見ただけでも十分に伝わってきた。初対面の時と同じように、ムラサキはその姿に遠い昔の記憶を呼び覚まされる。記憶にある姿よりも男の身長は高く、体も大きく逞しくなっていた。
意を決して訪問者を室内に招き入れる。足音が近づき、止まった。ムラサキは呼吸を整えて男を振り返った。しかし、見上げようと思っていた視線は男の姿を捉えるために自然と下へと移動する。
立っていたはずの男が、いつの間にか膝を折ってムラサキに頭を下げていた。立てた片膝の上に片腕を置き、男は空いたもう一方の手で仮面をそっと外す。
現れた素顔に、ムラサキは呼吸を忘れて見入った。やはり、そうだったのだ。
「ここに辿り着くまで、随分と長い時間をかけてしまった。不甲斐ない。すまん」
赤みがかった茶髪。外套の中に隠されていた刀剣が見える。この男のことを、偉丈夫だと言って黄色い声を上げていたのは誰だったか。顔を上げた男の赤銅色の双眸がムラサキを捉える。
「だが、生きていてくれて良かった」
万感の思いをこめて吐き出された言葉に、ムラサキは息を詰めた。喉がぐっとしまったような気がする。そんな資格もないのに眼頭が熱くなった。彼が放った言葉は全てこちらが言いたかったものだ。生きていてくれて良かった。無事で本当に良かった。
彼ともう一度会うことこそが、ムラサキの使命だった。
「紅蓮ひとりか? 他の皆は?」
「俺の部隊はほとんど壊滅した。残った者も今はどこにいるか……」
「……そうか」
予想はしていた。あの時、多くの落命者が出てしまったのだ。紅蓮は自分の苦労を告げはしないが、おそらく相当な困難の中なんとか生き延びたのだろう。
紅蓮が跪いたまま顔を上げた。
「ここを出るぞ。紫焔」
ムラサキをその名で呼ぶ者と、またこうして顔を合わせる日が来るとは思わなかった。
「出る……?」
分かっていたが、とうとうその時が来てしまったのかと焦る気持ちもある。咄嗟に聞き返したムラサキに、紅蓮は頷いて見せた。
「俺は迎えに来たんだ。それもすぐに動く必要がある」
「……港の噂話か」
「知っていたのか。そうだ。あれは間違いなく、お前のことだ。どこからどうやって噂が流れたのか分からんが、お前を炙り出そうとしている者がいる」
紅蓮が言うならば間違いない。やはりムラサキが優を遠ざけたのは正解だったのだ。そして、遠ざけなければならないものは、宝生優一人だけではない。ムラサキの心を読んだかのように、紅蓮が畳みかけるように告げる。
「ここの人間を巻き込みたくはないだろう」
「でも居場所まではまだバレてない……よな?」
「今はまだ、な」
不確実なことだ。一週間後には見つかるかもしれない。あるいは、明日見つかるかもしれない。行動は早い方が良い。ムラサキは頷いた。迷っている時間はない。
ムラサキの都合で他者を巻き込み傷つけるようなことがあってほしくない。紅蓮には話さなければならないことがあるが、今優先すべきなのは麒雲館を出ることだった。
「だったら紅蓮、頼みがある」
「金だな?」
「話が早くて助かるな」
「明日までに用意する。問題はない。入用になるかもしれんと貯めこんでいたからな」
「頼りになるなぁ。さすが大将だ」
「元、な」
白い歯をのぞかせて、紅蓮が意外なほどやんちゃな顔を見せた。
次回、ムラサキは無事に麒雲館を出ることができるのか?です。