第一章「陽輪ノ国から」陸
友人・田城もびっくりな暴走を優がしてしまう回。優視点です。
※今回も独自設定の娼館が舞台です
※ファンタジーの世界観です
※直接的な描写はありませんが、そういうことを前提に会話していたりする部分もあるのでご注意ください
八.
焦点が合わないほどの近さ。ぼんやりとしていたムラサキの双眸がゆっくり見開かれていく。その変化で我に返った優は、慌てて身を引いた。
「……っ! す、すまない」
「いや、えーと……、その、よく眠れたか?」
身を起こした優に合わせるようにムラサキも上半身を起こし、困ったような顔で後頭部に手を回している。二人の間に沈黙が落ちる。しかし、仕掛けた側だというのに恐らく優の方がムラサキよりも困惑していた。
思考が定まらず、混乱していると表現するのが正解かもしれない。優は自分が一体何をしたのかまだ理解しきれていなかった。
「すまない」
優は思わず、再び謝罪を口にした。
そういえば、ムラサキは以前「接触は別途支払いを」と言っていなかったか。唐突に思い出して、優は顔を上げた。
「支払いはちゃんとする」
「いや、それは別に良いんだけど……そろそろ時間だ。ちょっと寝すぎちゃったな。優が眠れたのは良かったけど、これだと俺が仕事しないでお金だけもらったことになるな」
どうしようか、と思案顔のムラサキは既に先程の口づけを忘れているかのような雰囲気だ。まるで何もなかったかの如く、いつもと変わらない様子だった。
なんとなく、だ。なんとなくその平然とした様子が面白くない。優は睨むような気持でじっとムラサキを見つめた。そこで、不意に袖で隠れていた彼の手首に不穏なものを見つけて息を止める。咄嗟に出した右手がムラサキの手首を掴まえた。
「これ、何だ」
ムラサキの手首には、誰かに強い力で掴まれたような指の跡が残っていた。
「え?」
「この跡だ。まさか、客に乱暴されたのか」
「あぁ、これは……」
少し間をおいて、ムラサキは口角を上げてわざとらしく色事を匂わせる笑みを浮かべて見せた。
「この前来たお客さんがちょっと激しかっただけだ」
笑みの奥にさらりと本音を隠して、ムラサキは優との間に見えない壁を作る。
「……こういった商売ならば、商品であるムラサキの体は何よりも慎重に扱われなければならない。体を傷つけるような客は出禁にしろ」
作られた壁を乗り越える資格を、ただの客でしかない優は持たない。それでも言わずにはいられなかった。
優の訴えを聞いて、ムラサキは不思議そうな顔を返す。そして、歯を見せて遠慮なく笑い出した。先程のわざとらしい笑顔よりずっと惹かれる笑顔だった。
「優は真面目で、理性的だな。でもちょっと現実的じゃない。無茶ができるからあえてここにくるような客だっているんだよ」
「それを甘んじて受け入れるのか?」
腹の奥がぐつぐつと煮えたぎっている。優には制御が難しい感情の波だった。ぐっと、知らぬ間にムラサキの手首を掴む力が増していく。
「俺はこの娼館に買われた身分だからな。色々な決まり事はあるけど、結局のところ逆らうことはできない」
他の者がどういった契約なのかは不明だが、ムラサキは麒雲館の店主に買われてここで働いているらしい。借金があるのだろう。どれだけ稼いでも、ムラサキに入る金銭は雀の涙だ。稼ぎのほとんどは店主の懐に入る。借金を清算しなければ、この先一生ムラサキは店主のものだ。
彼はこの麒雲館に縛られ、身動きができない。手酷く痛めつけてくるような客が相手であっても逃げることは許されないのだ。それを断つ方法は────、たった一つだ。
「だったらここを出ればいい」
優は告げて、ムラサキの顔を正面から見つめた。
「必要な金は私が払おう」
何を言っているのか。優は自問する。しかし、不思議なことに後悔はない。
呆気にとられたような顔で沈黙しているムラサキの手首を、さらに強く掴んだ。
「ムラサキ、お前を身請けする」
簡単な話だ。
ムラサキの拘束を断つには、身請けすればいい。誰もが容易く身請けできるほど安くはないだろうが、ムラサキの手首に残る跡をただ見つけることしかできない焦燥に比べれば何ということもない。わざわざここまで通う必要もなくなり、一石二鳥ではないか。
動揺で混乱していた頭が冴えてきた。優はこれしかないと覚悟を決める。
一瞬の沈黙の後、ムラサキが微笑した。今まで見たことのない種類の笑みを見せられ、優は嫌な予感を覚える。彼はそっと優の手を解いて顔を上げた。
「ありがとう。でも俺、身請け話を受ける気はないんだ。ごめんな」
何の迷いもない。即決だった。
ムラサキはあっさりと、優の人生をひっくり返すような一大決心の提案をひらりと躱してしまったのだ。
無情にも優の持ち時間が終わり、碌に話し合いすらできないまま麒雲館を出ることになった。ムラサキは変わらない態度で手を振っていたが、優としては求婚を流されたような気分だ。
かつて優に白い薔薇を贈った使用人は、こんな気分だったのだろうか。すでに解雇した使用人の顔は、もう思い出せない。今更非情な真似をしたことに気づく。後悔したところで失ったものは取り戻せない。
麒雲館でたっぷりと眠ったおかげで、頭だけは妙に冴えていた。
胸中に渦巻く掴みどころのないもやもやとした感情は、それから数日経っても消えないままだ。優は誤魔化すように仕事に没頭した。いつも以上に没頭する様子は、屋敷の者から見ても鬼気迫るものがあったらしい。優に話しかけてくる者はほとんどいなかった。
そんな優の乱れを見計らったように、友人である田城が暇つぶしと称して宝生家に顔を覗かせる。本当に鼻が利く男だ。
「仕事の方はだいぶラクになったか」
「ああ。通常に戻った」
「つまり激務ね」
「それより何の用だ。私は今暇じゃない」
「優が暇な時って今まで生きてきて一瞬でもあったの?」
「ない」
「即答だよ。こえぇ。こんな人間にはなりたくないね俺は」
「私もお前みたいな人間にはなりたくない。というか、本当に喋っている余裕がないんだ。悪いが帰ってくれ」
書類だけに目を落とし続ける優の一心不乱な様子をどう思ったのか、田城は片眉を跳ねさせた。
「相変わらずの仕事人間……ってのとはちょーっと違うか? 何かあったか。変だぞ」
友人という存在は不思議なものだ。言葉がなくとも、伝わってほしくないことまで勘づかれることがある。田城が人より他者の分析に長けているからだろうか。
書類に書き込みをしながら、優はぼそりと呟いた。
「袖にされた」
「は?」
「フられた」
言い直すと、田城が勝手に優から書類を取り上げてしまった。そのまま執務室から連れ出され、応接室のテーブルを挟んで長椅子に座らされる。
「詳しく」
田城はたいそう愉快気な顔だ。人の不幸は蜜の味らしい。友人の辛酸を嘗めるような経験に対し、不健全なことだ。
「身請けしたいと申し出た。断られた。以上だ」
「身請け? 待て待て。ちょい待ち。そりゃお前最近あの娼館にお熱だってのは聞いてたけどよ。身請け? まじか」
身を乗り出した田城は珍しく困惑している。
「人には夜遊び通りに行くなと説教しておいて……いや、今そんなことはどうでもいい」
「何をブツブツ言っている。話は終わりだぞ。もう帰れ」
立ち上がろうとした優の肩を、田城が強引に抑え込んで再び座らせる。単純な力比べであれば、田城の方に分がありそうだ。
「相手は男娼だよな?」
「そうだ。ムラサキだ」
「身請けってお前、ムラサキって野郎を囲うつもりだったのかよ」
「下品な言い方をするな」
「事実だろうが。お前は宝生家の跡取りだぞ。男娼を買ったところで他にどうするってんだ?」
「────別に」
そこまで深く考えていなかった。
身請け話も、あの瞬間はそれしかないと口から飛び出していた提案だ。今でもそれしかないと思っている。そのあとのことなど、考えてもいない。
「生真面目なヤツが遊びにハマるとこうなるか……なるほどな」
「何が言いたい」
「俺が悪かった優。お前もう夜遊び通りには行くな」
田城は真剣な顔で意味不明なことを言った。当然、断る。しかし、田城は認めなかった。
「遊びならいい。遊びしかダメなんだよ。お前が一番よく分かってるだろ。立場ってモンを」
「遊び……?」
「ムラサキってやつを買って、遊んで、いらなくなったら捨てる。それなら問題ないってことだ」
「捨てる?」
ムラサキを捨てる。何のために。
田城の危惧は分かる。しかし、頭で理解できても納得ができない。納得できない自分に、優は混乱した。
「俺を見習え。楽しくヤッて、ぽいだ。それが基本。分かった?」
「……そもそも、私はムラサキと何もしていない」
口付けはしたが、あれも想定外のことで。基本は触れさえしていない。そこまで考えて、優はふと疑問に思った。
ではムラサキは、優にとっては友人と言っても可笑しくはないのではないか。接触はほぼなく、会話を楽しんでいるだけだ。気の置けない友人。何も違和感はない。
優の告白に、田城は口をぽかんと開けていた。
「何だその顔」
「手出してねぇの?」
「出して……はいない」
「お前、あれから何回あそこに行った?」
「片手では足りないな」
両手でも足りないだろうか。
「それで、何もしてねぇって?」
「していない」
少し嘘が混じってしまっているが、ほとんど何もしていないのは事実だ。
「優……お前、何しに行ってんだ?」
呆然と、田城が失礼なことを吐き捨てた。
九.
田城がどう思おうが田城の自由だ。好きにすればいい。優が田城の遊びを止められないように、田城にも優の行動を止めることはできない。
身請けに必要な相場を調べ、金を用意した優は日を改めて再び麒雲館に向かった。ムラサキ自身が言っていたのだ。決まり事はあるが、逆らえはしないと。そうであるならば、優が交渉する相手はムラサキではない。店主だ。
受け付けの際にムラサキを身請けしたいと伝え、持ち込んだ金を見せた。奥から出てきた店主が金をちらりと見下ろす。値踏みするその視線は商売人のそれだ。
「ムラサキに伝えてきな」
店主は脇に控えていた少年に命じた。彼はムラサキの世話役だろうか。ぱたぱたとかけていく小さな背中がムラサキの部屋の中に消えていく。
「ムラサキには断られている」
「だろうね」
「だから店主に直接交渉しに来た」
「ご苦労なことだ」
少年が駆け戻って来た。店主に何事かを耳打ちしている。優は閉ざされているムラサキの部屋をじっと見上げた。あの部屋にムラサキはいる。今は他の客もいないのだろうか。
「ムラサキが、断ると言ったそうだ」
「……いくら払えば良い?」
「どうだろうねぇ」
「普通であれば身請け話は店側としても利益になるはず。それを断るということは、ムラサキの稼ぎの方がより収益になっているということか」
「そうかもしれない」
「手放す方が店側にしてみれば損失になる?」
「かもしれないねぇ」
煮え切らない返事だ。どちらにしても、この金額ではムラサキを手放す気にはならないようだった。優は無駄な交渉を引っ込め、いつものようにムラサキの時間を購入することにした。
交渉に粘りは大事だが、相手を揺さぶれない以上は今は意味がない。手札を増やさなければ。
ムラサキの部屋に入ると、相変わらず明るさを落としたような室内だった。振り返った彼の表情はあまり見えない。
「また半日分? 仕事は大丈夫なのか」
「問題ない」
「だったらいいけど。それで、今日は何する?」
茶を淹れるために移動してきたムラサキを、優は戸の傍で眺める。
「話を」
静かに答えた優に、ムラサキは頷いて用意した茶を卓に並べた。初めてここに来た時と同じ構図だ。優は定位置に座って息を吐く。
「単刀直入に。ムラサキ、いくら払えば身請けを承諾する?」
「本当に単刀直入だ。値段は関係ないんだ。ありがたい話だけど身請け話を受けるつもりはない」
優は一度ムラサキの言葉を咀嚼した。
「───ずっと考えていたんだが、身請けというから大げさに聞こえるんだ」
「うん?」
ムラサキが淹れた茶を飲んで、優は顔を上げた。
「私はムラサキと、良い友人になれると考えている」
「友人……」
「そうだ。この間、接触はしてしまったがあれは事故のようなもの。それ以外に接触はしていないし、私たちの関係にまだ名はないだろう」
だからいくらでもここから構築できる。恋人、愛人、友人────。二人なら何にだってなれるはずだ。友人として、ムラサキとこれからも付き合いを続けていければ田城だって文句はないだろう。
しかし、優の甘い考えをムラサキ本人がさらりと否定する。
「名はあるだろ。客と、男娼だ」
客で優を示し、男娼で自身を示す。知的ささえ感じさせる双眸を見せながら、冷ややかに告げるムラサキは浮つく優よりも現状を見ていた。
「どうあっても身請けされる気はないか」
「ないよ」
「私は、別に身請けすることでムラサキをどうこうしたいわけじゃない。それでもか」
「優って……不思議な人だよな。普通、自分のものにしたいから身請け話が出るのに」
くだけた笑いを見せるムラサキには変な気負いが何もない。目の前に座っているのが優だからなのか、あるいは他の誰が相手でもこうなのか。知りたい気持ちと、一生知りたくない気持ちが交差する。
身請けは相手を自分のものにしたいから出る話。ムラサキの言葉通りかもしれない。
優がこの提案をした根本のきっかけは、ムラサキの手首に残された顔も知らぬ誰かの跡だ。それが許せないと思った。手酷い扱いをされてほしくないと考えた。それは言葉を変えれば、優がムラサキを自分のものにしたいと考えているからだと言えるのではないか。
では、優がムラサキに抱くこの感情は、彼を友人にするには持て余すものかもしれない。
「不思議なのはお前の方だ。身請け話は、普通なら運が良いことだと聞く。それを断るとはな」
「そうだな。贅沢な話だ」
「つまり、ムラサキは私が……。身請けがではなく、私が相手だから嫌ということか」
それならば、いくら払っても答えが変わらないことにも納得がいく。沈みかけた思考は、しかし、すぐさま返されたムラサキからの否定で救われた。
「違う。誰が相手でも、俺の答えは変わらない」
「そうか……」
ムラサキの本心が読めない。彼の本心を知る人間は、この世に何人いるのだろう。誰一人いないのか、たった一人だけいるのか。その一人は、少なくとも今は優ではない。
優はここで出会ってからのムラサキとの時間を思い出した。
「ムラサキは、この仕事が気に入っているんだな」
困難は多い。非情なことも、優が知る以上に多いだろう。それでも、ムラサキには悲壮感がない。
他の者たちとムラサキが明らかに異なっているのは、そこかもしれない。理不尽に憤ることはあっても、この仕事に対する悲壮感はあまり感じない気がした。
あはは、とムラサキが楽しそうに笑う。
「そうだな。うん。案外、気に入ってるかもしれない。色んな人と関われるのが楽しいんだ。まぁ、そんなことを言ってられるのは俺がたまたま部屋付き男娼って立場でいられているからだけどな」
「煩わしい、ではなく?」
「楽しいよ。自分にはない考えを知ることも多い」
「自分にはない考え、か。それは少しだけ理解できる」
ムラサキと会話していると、優はそれを感じる。ムラサキには、優にはない考えがある。優からは決して出ない考えが出てくることがある。興味深いうえに、話しているとガチガチになっていた頭が解けていくような不思議な感覚になる。田城風に言えば、彼に絆されているのだろう。
「優と話すのも、楽しいよ。俺は」
「……そうか」
何と返せば良いのか分からず、優は思わず横を向いた。
「私も……、貿易関係の仕事をしているから、多くの人間と関わる」
「へぇ。それってやっぱり外国の人とも?」
「そうだ。文化の違う相手は興味深い。外見的な違いもある」
「たとえばどんな?」
「たとえば……、陽輪ノ国では黒髪や黒目が多いが、金髪で青い目の者がいたりする」
ムラサキがゆっくり瞬いた。この話には興味があるのかもしれない。人に興味があるムラサキからすれば、国外の人間についてはなおさら知りたくなるものなのだろう。
「そういえば」
優は最近耳にした噂を思い出す。田城が愉快そうに話していたことだ。普段はこういった噂に興味はないが、ムラサキが興味を持つならば話題のタネにするのも良いだろう。
「港である噂が広がっているらしい」
「噂?」
「銀色の髪の持ち主に大金を払う────と」
すでに何人かが銀色の髪と言って大金をせしめに行ったらしいが、「これではない」と突き返されたとか。銀色と一口に言っても、それを求めている者たちには明確な基準があるらしかった。
ムラサキが茶を飲み干し、空の湯呑を卓上に置いた。
「お酒、飲む? 俺は飲みたくなったんだけど」
「構わない」
「じゃあ準備するな」
立ち上がったムラサキが、酒瓶と猪口を二つ手にして戻って来る。
優に渡した猪口にとくとくと酒を注いで、自分の猪口に手酌しようとしたところを止めた。ムラサキの手から酒瓶を受け取り、彼の猪口に酒を注ぐ。
「ありがとう」
「お前から酒を飲みたいと言うのは珍しいな」
「たまにはな」
座り直したムラサキが、猪口に口をつけて微笑む。
「それで? 結局その銀髪の持ち主は見つかってないのか?」
「おそらくは。あくまで噂話だから仔細不明だ」
「そっか。残念だ」
外見の特徴が異なる国外の人間。考えると、ムラサキの瞳もそれと同じではないだろうか。少なくとも優は、これまで一度も紫紺の瞳を見たことがない。ムラサキだけだ。
「ムラサキ。お前はどこから来たんだ」
咄嗟に、好奇心が言葉になって飛び出した。質問してすぐに後悔する。娼館で働く者は、素性を探られることを嫌うことが多い。ムラサキはこちらの一線を決して踏み越えないというのに、失敗した。
押し黙るしかない優は、そっとムラサキを窺う。
「────さぁ。どこからだろう?」
柔らかに笑む。しかし、その笑顔は一線だ。優とムラサキの間に引かれた越えてはならない一線。
相手の気持ちを無視してその一線を踏み越えたいと思うのは、身勝手な欲だろうか。優は唇を引き結んだ。ムラサキの一線を越えることができる者は、この世界に存在するのだろうか。もしするのであれば、それはなんと不愉快なことか。
友人と、それ以外の線引きはどう行うのだろう。肉欲があれば、それは愛情なのだろうか。しかし、女も男もころころと相手を変えている田城が一人ひとりに深い愛情を持っているようには見えない。田城自身も、愛情なんかねぇよと笑って言い放つだろう。
「すまない」
優は安易に友人になれると考えた己を少し恥じた。そして、ムラサキから許されていない一線を踏み越えようとしたことを後悔する。
「そこで謝るのが優のすごいところだよなぁ」
「どこがだ。すごい者は、そもそも謝罪が必要なことなど言わないだろう」
「そうか? どんな人でも失言や失敗はあると思うけど。完璧な人なんて、きっとどこにもいない」
「私は────」
完璧であれと、育てられてきた。人より優れた者であれと、教育されてきた。それが悉く覆っている気がする。しかし、それを無力と口惜しく思うことはあっても愚かしくは感じない。
優が話す途中で、ムラサキが立ち上がった。猪口は空になっている。寝台の方へ移動したムラサキを視線だけで追いかけた。閉まっている障子を何故かしっかりと閉め直し、ムラサキが優を振り返る。
「ところで優は麒雲館の規則、どこまで知ってる? 最初に聞くと思うんだけど」
「覚えてない。最初は興味もなかった。何かあるのか?」
「やっぱりな……」
はは、と軽く笑うムラサキが意味深に首を傾ける。
「何だ?」
「部屋付き男娼を買う時の規則。必要な回数と時間。それを超えれば次の段階がある」
ムラサキは言って、寝台に腰を下ろした。
「優は今日でその回数と時間を超えたんだ。だから、どうしたい?」
「どう、とは?」
「抱かれたいか? それとも……」
室内の照明がちかちかと光る。揺らめく蠟燭の火を、ムラサキが息を吹きかけて消した。
優の喉を焼いた酒が体内をゆっくり巡っていく。
「俺を抱きたいか?」
脈打つ音を、こんなにも鮮明に聞き取ったのは初めてかもしれない。ドクリと、心臓が鼓動する。耳の横で心臓が動いているかのようだ。
ムラサキを抱く。想像すらしていなかったことを提案されて、戸惑いを隠せない。
ムラサキとの時間はいつもどこか非現実感があった。それがあまりに唐突に、ここが紛れもない現実であることを突きつけられる。他でもないムラサキの言葉によって。
「抱く?」
騒がしい。優は猪口を持つ手に力を込めた。心臓が、あまりにも騒がしい。これは何なのだろうか。恐怖、緊張、不安。あるいは───。
「そうだ。どうしたい? もちろん、何もしないって選択もできる。優が選ぶことだ」
「……は、話を。話がしたい」
喉が、ひどく渇いた。優は空になった猪口を煽る。空っぽだったはずのそれから酒が喉を下って、熱を生んだように錯覚した。
「分かった。じゃあ、話をしよう」
ゆるゆると笑うムラサキはこれといって変わった態度をとらない。優とは違う。これが、彼の仕事だ。対話も、ゲームも、行為も。
ムラサキは優の隣に片膝をついて、空になった猪口に酒を注ぎ直した。今度は優が止める間もなく、手酌で自身の猪口にも酒を注ぐ。かつん、と優の持つ猪口に己の猪口を軽くぶつけ、口をつける。ムラサキに倣って、優も酒で唇を湿らせた。
「優の仕事の話、話せる範囲でいいけどもっと聞かせてくれないか? 色々な人がいて、物があって面白い」
「……ああ」
ムラサキの声がどこか遠くで響いているように聞こえる。優の意識が散漫なせいだろうか。
そっと視線を動かし、優は目の前で片膝をついたままのムラサキを窺った。紫紺の瞳が同じ瞬間に優を見返す。視線が交わった。
───友人になれるなどと、何故思えたのか。もはや優には分からなかった。
手にした猪口を捨てて、吸い込まれるような勢いで目の前の黒髪に手を伸ばす。引き寄せた後頭部は、逆らうことなく近づいた。二度目に触れた唇は酒でしっとりと湿っていた。啄むように触れ、そっと離れる。
「友人には、なれそうもない」
素直に口にした。目の前の顔が、くしゃりと崩れて楽しそうに笑う。その顔が、きらきらと光って見えた。今は朝陽など差し込んでいないのに。
「何にもならなくたって、それはそれで面白いかもしれないだろ」
「そうか。では、試してみよう」
そうして優は、もう一度ムラサキの唇を奪った。
次回、ようやく物語に新しい展開が……あるはず。
ここまでお読みくださった方がもしいらっしゃいましたら、お付き合いいただき本当にありがとうございます。できれば今後もお読みいただけると嬉しいです。