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月華の紫石英  作者: あっとまあく
鉱甲山国編
49/116

第三章「隣接」 拾壱

<あらすじ>母国・天満月の転覆と共に国外へ売り飛ばされた紫焔は、海を渡った先の国で男娼として生活していた。しかし、そんな紫焔のもとに不穏な噂話が舞い込む。何者かが銀色の髪の持ち主を探しているというのだ。それは、紫焔の特徴と一致していた。娼館の人間を巻き込むことを恐れ、紫焔は娼館を出る決意を固める。

 母国で親しくしていた元大将・紅蓮と再会を果たし、追手から逃れるために海へ出た紫焔たちは紆余曲折を経て異国の地を渡り歩く。新たな地で出会った幼い少女・風風と彼女の付き人・来来。二人の母国に入国を果たし、紫焔たちは風風に汚名を着せた真犯人を掴まえるため「裏の舞踏会」に参加することになった。


以下、注意書きです。

・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です

・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません

・本作品に出てくる全ての呼び名、動植物、無機物等は独自設定であり、もちろんファンタジーです

・戦闘シーン等が出てくる関係から暴力的、流血表現や残酷な描写が出てくる場合があります

・実在しない薬物描写がありますが、薬物推奨の意図はありません。あくまでフィクションです

当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。

どうぞよろしくお願いします。

※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止


十一.


 外からは見えにくい奥まった場所に佇む屋敷。

 白の外壁に包まれたその屋敷は、今は暗闇に溶け込んでその姿を見え辛くさせている。


 僅かに灯る玄関口の明かりに誘われるようにして、ぽつぽつと人が集まっていく。正面玄関には二人の用心棒が立っていた。彼らの前に進み出た紫焔(しえん)は、風風(ふうふう)たちに教わった通りの合言葉を告げる隣人を横目で窺う。彼は埃一つない美しい礼服に身を包み、優雅な立ち振る舞いで用心棒たちの目を掻い潜る。慣れたものだ。

 無事に玄関を通り過ぎた二人は、舞踏会が開かれる地下に向かって階段を下りた。磨かれた革靴が眩しく光る。紫焔もまた、礼服に身を包んでいた。しかし、彼との立場の差を明確にするためにあえて彼が着ているものよりも見劣りする服にしている。二人は目元を隠す仮面を着けて足を進めた。


 豪華な両開きの扉の前に到着すると、脇に控えていた使用人がそっと首輪を差し出してきた。首輪にはご丁寧に引き紐まで取り付けられている。たいそうな趣味だ。紫焔は苦笑しそうになるのを堪えて隣に立つ相方を見上げた。彼は愉快そうに仮面の下で目を細め、嘲笑ともとれそうな含みのある笑みを浮かべて見せる。

 このような場において、彼ほどの適任者はいないだろう。少なくとも紫焔たちの仲間の中では。すべての立ち居振舞いがあまりにも様になっていた。


「テメェにはお似合いの装飾品だな」


 彼がぞんざいな調子で感想を述べる。それはどうも、と答えたいところだが愛玩物(コレクション)としてここにいる紫焔が所有者である彼に対等な口を利くのは良くないだろうか。

 使用人から首輪を受け取った彼は、紫焔の首にそれを手際よく着けた。そして首輪から垂れる引き紐を腕に絡めて持つ。これで誰が誰の愛玩物かすぐに分かるようになった。

 使用人が扉を開けて中へ進むように促す。紫焔は彼と足並みを揃えて室内へと進んだ。地下とは思えない華美な装飾に彩られた巨大な部屋が紫焔たちを迎える。眩しさに目を細めた紫焔は、不意に隣の男の手に引き紐を引かれたことでぐらついた。


「おい」


 ささやかな抗議は他者に聞こえない音量でしかできない。


「おい? そんな舐めた口利いて良いと思ってんのか?」


 にやりと口許を緩めた相手は実に愉快そうだ。


「要……」

「ご主人様って呼んでみ?」


 この人選をした時、彼は心底嫌そうに拒否していた。だというのに、今は随分と楽しそうだ。

 紫焔はなんとなく釈然としない気持ちになって平坦な声で言われたままに呼んでみた。


「ごしゅじんさま」

「気色悪い」

「じゃあ呼ばせるなよ」

「まだお嬢さんの方が良かったなァ」


 田城要は引き紐を持たない方の腕を天井へと伸ばして文句を言った。

 しかし、二人の仲は最悪だったので仕方ない。結局、要と紫焔、紅蓮と風風で潜入することになったのだ。紅蓮は渋っていたが、菜々子や来来(らいらい)が参加できない以上はそれ以外の人選はできなかった。


「つーかお嬢さんも首輪してんだよなこれ。悪趣味な舞踏会で間違いないな。反吐が出るぜ」

「俺もそう思う」


 風風の引き紐を持つ紅蓮。恐ろしい絵だ。できれば見たくない。


「そんで? どうすんだっけ?」

「主催者に近づく。できれば薬物の取引や現物を押さえたい。入手先が分かるような証拠があれば手に入れる」

「そんなうまくいかねぇと思うけどな」

「……うまくいかせないとだめだ」


 風風たちを謂われなき罪でこれ以上追い詰めさせないために。

 紫焔は仮面の下で真剣な視線を周囲へ向ける。この中に、風風を嵌めようとした人物がいるかもしれない。

 ぐっと首輪を引き寄せられる。喉が圧迫されて紫焔は軽く嘔吐いた。生理的な涙が目尻に浮かぶ。現況の要を睨むと、彼は静かな目で紫焔を見下ろしていた。


「どんなやつがいるか分からねぇんだ。俺の傍から離れるなよ。守りきれねぇ」

「……頼もしいな」

「厚意じゃねぇぞ。こっちは旦那に脅されてんだよ。テメェに怪我させたら首が飛ぶぞってな」


 ぶるりと身を震わせ、要が訴える。紫焔は堪えきれずに苦笑を零した。


「仲良くなったなぁ、二人」

「──お前、俺の話聞いてた?」


 いつまでも入口の前で立っているわけにはいかない。紫焔たちは中央へと歩みを進めた。既に舞踏会の場は盛り上がっているようで、自分のご自慢の愛玩物を互いに紹介し合っている。

 中には犬や猫を腕に抱えて紹介している者もいた。何故そんな人がここに来ているのか、紫焔は理解に苦しんだ。愛玩物の中には人でも動物でもなく、無機物もあった。高価な宝石や煌びやかな衣装、様々だ。予想していたよりも幅広い。それらが正規の手段で所有者のもとにいったのかどうかは分からないけれど。


 室内の中央には螺旋階段が設けられており、階段を上がった先には壁に囲まれた個室のようなものがある。中二階のような空間だった。周囲の話から察するに、あそこは常連専用の私的空間らしい。あからさまに怪しい場所だ。

 あの中に何かがあるかもしれない。紫焔はじっと個室を見上げた。室内を歩き回る使用人たちのうちの一人が、要の前で立ち止まって飲食物を差し出して来る。彼は透明な硝子細工のグラスを受け取った。

 去って行く使用人の背を眺めつつ、要が周囲に怪しまれない程度にグラスの中の酒の匂いを確認している。そっと傾けて唇を湿らせた彼は、途端に眉を寄せてグラスから口を離した。


「おい、紫焔」


 声を潜めた要が紫焔に耳打ちする。


「入ってんぞ。これ」


 多分だけどなと苦々しく告げられた。紫焔は彼が手に持つグラスをまじまじと見つめる。要の舌を信じるのであれば、この酒の中に少量の薬物が混入されているということだ。

 紫焔は要の腕を掴んだ。彼はたった今、それを口に含まなかったか。


「要!」


 顔を近づけて彼の様子を窺おうとした。しかし、要が引き紐を引いて紫焔を遠ざける。


「舌先に触れさせた程度だ。問題ねぇよ。いちいち騒ぐな。変に思われるぞ」


 薬の扱いは要の方がずっと心得ている。要が問題ないと言うのであれば大丈夫なのだろう。しかし、それでも心配になる。薬物による精神の崩壊を、紫焔たちは来来で目の当たりにしたばかりだ。


「水で口を漱いだ方が良い」

「水ったって、そこにも入れられてるかもよ?」


 その可能性は十分に考えられる。要の指摘に紫焔は押し黙った。紅蓮たちは大丈夫だろうか。いや、きっと大丈夫だろう。紅蓮のことだ。このような場で警戒心もなく簡単に飲食するとは思えない。風風にも飲食させることはしないだろう。

 要にしても、今回は確認の目的もあってわざと少しだけ口に含んだのだ。冷静にならなければと紫焔は胸の内で自身を宥める。

 しかし、紫焔たちの周囲では参加者が当たり前のように飲み食いしている。中身を知っているとなんとも恐ろしい光景だった。彼らは少量ずつ薬物を摂取し、そのうちに虜になっていく。そういう手筈なのだろう。

 それでも、随分と危険な橋を渡っているようにも思える。立食が基本で一度の飲食は少量。本命が別にあるとはいっても、談笑がてら次々と別の品を飲み食いすればそれだけ薬物の量も増えてしまう。いつ過剰摂取になっても可笑しくない。命にかかわることだ。

 紫焔はふつふつと湧き上がる怒りを覚えて拳を握った。


「随分と仲睦まじいんですねぇ」


 怒りを抑えるために俯いていた紫焔は、視界を遮るように差し出されたグラスを見て顔を上げた。いつの間にか紫焔たちの前に来ていたのは、白い礼服に身を包んだ柔和な表情の男である。手には要と同じように引き紐を持っていた。紐の先には首輪を着けた女が立っている。彼女は自分の所有者である男にしな垂れかかるように体を預けていた。


「……そちらも仲が良さそうで」


 要がさらりと応える。

 紫焔の前に差し出したグラスを、男が揺らして受け取るように促してきた。受け取ってしまえば飲まなければならない。そうしなければ怪しまれるだろう。


「どうした? 酒は嫌いかな」


 男がグラスを持ち上げて紫焔の唇へと持っていく。どうしても飲ませたいらしい。紫焔は覚悟を決めてグラスを受け取ろうと手を伸ばした。

 しかし、横から伸びてきた要の手がグラスを上から覆って塞ぐ。要は悪戯っぽく微笑んで相手に小首を傾げて見せた。


「こいつ、飲むとぶっ倒れちまうんですよ。酒に弱い体質で。面倒な愛玩物なもんでね」

「そうなのか。つまらないな」

「飲ませるなら人のもんにじゃなく、()()()()()にどうぞ?」


 要は視線で男の隣にいる女を示した。手で覆うように掴んでいたグラスを離し、男へと押しやる。男が不快そうに片眉を上げ、ぴくりとその指先に力が込められる。紫焔は咄嗟に要の前に飛び出した。その一瞬後に、ばしゃりと紫焔の上半身に酒がかかる。


 突然の騒動に周囲の視線がこちらに集中した。紫焔は髪の先からぽたぽたと滴り落ちる酒を視線で追いかける。動揺を鎮めて息を整えた。少し気に食わない物言いをされたからといって、即座に酒をかけるなんて随分と余裕がない態度だ。仮面の下で目の前に立つ男を見上げた。数秒前まで冷静に見えた男が頬を上気させている。その目が異様に血走っていた。

 思えば、ここにいる者たちのほとんどが既に少量の薬物を摂取しているのだ。今更ながら紫焔はその異常性に息を呑んだ。ここにいる誰もが突然、理性を失ったり感情の制御ができなくなったとしても不思議はない。男は自分の行動に驚いたのか、すぐに我に返ったように慌ててグラスを引いてその場を去った。

 このひと悶着に周囲が注目していたのもそこまでで、すぐに視線があちこちへ流れていく。それは異様な光景だった。誰もかれもが集中力がなく、警戒心も好奇心も一瞬で無かったかのように振舞っている。

 ここでもし、誰かが薬物を過剰摂取して倒れたとしても騒ぎは一瞬で収束するだろう。主催者側からすれば、最初から過剰摂取による騒動の心配など必要なかったのだ。腹の奥でふつふつと憤りが生まれて来る。紫焔は奥歯を噛み締めた。


「舐めるなよ」


 要がいつの間にか使用人から布巾を受け取ってきていた。彼は力任せに紫焔の体を拭いていく。


「目に入ったか?」

「入ってない」

「仮面邪魔だな」


 拭き辛そうに舌打ちして要が文句を言う。しかし、その仮面のおかげで目に入らなかったのかもしれない。


「要」

「何だよ」

「ご主人様が愛玩物をかいがいしく世話するのはどうなんだ」

「その呼び方やめろ」

「要」

「何だよ」


 いい加減黙れと言いた気な顔で睨まれる。紫焔は要ではなく、要の向こうを見ていた。こちらの視線を追いかけた要が背後を振り向く。脇に使用人を二人控えさせた男が要の前で立ち止まった。燕尾服を着たその男は恭しく頭を下げる。


「主人があなた方とお話ししたいそうです。どうぞこちらへ」

「主人?」

「本日の催しの主催者です」


 要がひゅーと口笛を鳴らした。


「新しい服でも見繕ってもらおうかねぇ。野蛮な参加者のせいで俺の愛玩物がびしょ濡れだ」

「承りました」


 男に促され、紫焔たちは階段を上がった。どうやら例の個室に主催者がいるらしい。どうりで会場にはそれらしい人物が見当たらないわけだ。


「そちらはこちらの部屋へどうぞ。お着がえをご用意しております」


 使用人に腕を掴まれ、紫焔は半ば強引に個室とは別の部屋に導かれる。


「それは俺のもんだぞ。好き勝手されちゃ困るな」


 引き離されそうになったところで要が紫焔の腕を掴んで引き止めた。


「所有者様はあちらの個室でお待ちください。主人がお待ちです。着がえが終わり次第、彼も向かわせます」


 要が主催者と対面できる。紫焔は要の手をそっと外した。こちらの意図を汲み取った要も逆らわずに手を放す。互いに一瞬だけ視線を交わらせた。


「そんじゃあ、個室でくつろがせてもらおうかな」


 要を連れて使用人が個室へと入って行く。紫焔は燕尾服の男に促されて別の部屋へと入った。

 室内には中央後方に煌びやかな椅子が置かれていて、その椅子に優雅に腰かけている人がいた。腰元まできそうな長い髪を肩から流し、足を組み替えて座り直した男は何故か仮面を着けていない。まるで計算されたかのように左の目の下に黒子がある。

 どう見ても着替えのための部屋ではなかった。紫焔は引き返そうとしたが、燕尾服がいつの間にか引き紐を握っていたせいで意思とは反対の方向へ後退する。燕尾服の男が手にしていた引き紐を椅子に座る男へと手渡した。


「ふぅん。銀髪ですねぇ」


 興味深そうにこちらを見つめる男こそが、恐らく彼らの主人。この舞踏会の主催者なのだろう。

 銀色の髪を染めずにおいたのは、風風に止められたからだ。その髪と目があれば、主催者の目に留まるかもしれないと。どうやら彼女の勘は正しかったようだ。


「こちらへ来なさい」


 命令された紫焔は反応に困った。正面から風風を嵌めたのかと問いかけても無駄だろう。薬物の在り処や入手先を問い詰めても同様だ。大人しく従うべきだろうか。

 こちらが探りに来たことを悟られない方が良い。紫焔は要の愛玩物という立場を継続することにした。


「ご主人様の命令以外聞けない」


 主催者から視線を逸らして、要を探す素振りを見せる。要が聞いたらきっと顔を歪めるだろう。


「ふぅん。随分と躾されているんですねぇ」


 とんとん、と男は顎に指先を当てて愉快そうに笑った。そして、自然な動作で手首を動かして引き紐を手繰り寄せる。首輪が男の方向へと引き寄せられた。紫焔はその場に踏ん張ることもできずに前方へと倒れた。


「仮面を」


 主催者の言葉で使用人が動く。紫焔が抵抗する間もなく仮面を外された。視界を遮るものが何もなくなる。椅子に座っていた男は、踊るように軽やかに腰を持ち上げて床に倒れる紫焔の前に膝をついた。


「おやぁ、これはこれは。美しい瞳だ。まるで紫石英のよう」


 男の冷ややかな指が紫焔の目元を掴む。まるで目をくり抜くような勢いで目蓋を開けさせられた。

 男は紫焔を人として見ていない。そういった視線を麒雲館で幾度となく見たことがある。風風がこの場にいなくて良かった。彼女はきっと胸の内に抱く正義感を隠せない。隠せない彼女だからこそ、紫焔は力になりたいと心から思ったのだ。


「この宝石のような瞳をくり抜いてどこへ飾りましょうかね。銀の髪は刺繍に使いましょう」


 歌でも歌っているかのように軽やかな口調で声を弾ませ、男は紫焔の礼服を邪魔そうに引っ張った。そして、鎖骨下の刻印を見咎めて目を眇める。


「あぁ……。なんとも無粋なものがありますね。汚らしい」


 男は右手の掌を天井に向けて持ち上げた。使用人に顔を向けず、紫焔を見たまま「小刀を」と短く命じる。隣に立っていた使用人が懐から小刀を取り出して男の手の上に置いた。

 紫焔は無意識に恐怖を感じ、後退ろうと動く。しかし、男が服を掴んで離さないせいで動けなかった。


「大人しくしていなさい」


 小刀の刃が鎖骨に触れる。


「邪魔な模様を取り除いてあげますからね」


 ────あの男、()()()()なのよね。


 そう言った風風の言葉を急に思い出した。紫焔は顔を上げて男を見つめる。


「痛いのは嫌だ」

「……ふぅん。そうでしょうとも」

「──痛いのは、嫌だ」


 聞き分けの無い子供のように、紫焔は二度繰り返した。視線を落として目蓋を半分ほど伏せる。意味ありげに周囲を見回してから再び男と目を合わせた。


「賢い愛玩物だ」


 男が愉快そうに笑う。紫焔がわざと繰り返した意味を察したらしい。男は再び右手を持ち上げて小刀を支えながら指先をひらひらと動かした。使用人が素早く男のそばに片膝をつき、手の中に小さな袋を置く。半透明なその袋は丁度掌ほどの大きさで、中に少量の白っぽい薄茶色の粉が入っていた。

 紫焔は気づかれないように視線を鋭くさせる。これがもし本物だったら、それを当然のように所有している様子の彼らは完全に黒だ。


「会場で飲み食いはしていないのですかね。ご主人様が嫌ったのでしょうか。食べていれば今頃、恐怖すら感じず楽だったでしょうに」


 男の言葉を信じると、要の勘が当たっていたことになる。やはり、会場で振る舞われていた飲食物には少量の良くない隠し味が入れられていたのだ。

 紫焔は証拠を目の前にして拳を握った。男の両脇に使用人が二人。紫焔の背後、部屋の出口の位置にも二人の使用人が待機している。四人を制圧もしくは搔い潜り、男を押さえて証拠を掴む。できるだろうか。紫焔はぐっと軸足に力を込めた。


 できるかどうかではない。やらなければ風風たちが罪を着せられたまま投獄されてしまう。どうせこのまま流れに身を任せても紫焔は良くてもばらばらにされて体の一部が男の所有物になるだけだ。

 男の左手は未だに紫焔の服を掴んだままである。まずはこの手をどうにかしなければならない。袋の中身を取り出すために、男が小刀を床に置いた。袋を開けるために両手を使うかと隙を窺うが、男は袋も床に置いて先に置いていた小刀に再び手を掛けた。ざく、と袋の端を小刀で刺して開封する。どうやら意地でも紫焔から手を放すつもりはないらしい。


 こちらが何かを仕掛けようとしていると察しているのかもしれない。左手の力が緩む瞬間を待っている間に、薬で前後不覚にされてしまうだろう。紫焔は覚悟を決めて頭を勢いよく下げた。つられて男の手も下に動き、反動で上半身も前に傾く。

 紫焔は片手を床に着いて足を跳ね上げた。もう一方の手で小袋を鷲掴む。背後から伸びて来た腕を蹴り飛ばし、体を回転させて男の後頭部に踵を落とした。しかし、これは脇に控えていた使用人の手に阻まれる。そのまま足首を捉えられ、紫焔の体は逆さ吊りにされた。


「こいつッ!」


 男の怒る声。男を心配する使用人たちの声が部屋の中で飛び交う。

 紫焔は着いていた手が床から離れる前に力いっぱい床を押して体を持ち上げた。捕まっていない方の足が使用人の顔面を蹴り上げる。捉えられていた片足が外れ、自由を取り戻した。

 すぐに体勢を立て直そうと身を起こした紫焔は、しかし、背後から羽交い締めにされて腕で拘束される。頭を思いっきり振って背後の男の鼻頭に激突させたが、腕の拘束は外れなかった。足を絡めて軸足を捌き、転倒させようと動く。


「なんという騒がしさ。とんだお転婆ですねぇ」


 突如視界が薄茶色に染まった。

 男が使用人から別の小袋を受け取って開封し、紫焔の顔に向かって投げつけたのだ。中身が飛散して紫焔の顔どころか、紫焔を拘束していた背後の使用人にまでかかる。反射的に目蓋を閉じて唇を引き結ぶが、効果は薄いだろう。

 紫焔を掴まえていた腕の拘束が緩んだ。背後で使用人の呻く声がする。紫焔と同じく、薄めもしていない薬を直接浴びてしまったのだ。男はこうなると分かっていて薬を投げつけた。仲間の苦しむ声にも動揺する素振りはない。

 拘束を失った紫焔の体は床の上に落下して倒れ込む。立ち上がろうにも、平衡感覚がまるでつかめない。奥歯を噛み締めて呻き声を殺した紫焔を嘲笑った男が、目の前で屈みこんでこちらの髪を掴んだ。


「安心してください。これで痛みもなくなる」


 なくなるのではない。感じなくなるだけだ。否、より正確に言えば、痛みを感じていてもそのことに気づかなくなる。男の声が反響して聞こえた。紫焔は手探りで辺りを確かめ、恐らく男がいるであろう場所に突進する。

 頭が相手の肩かどこかにぶつかった。空いている片手を伸ばして小刀を攫う。男が困惑したように「何を」と呟くのが聞こえた。紫焔はぐらぐらと揺れる視界の中、小刀を太腿めがけて振り下ろした。



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