番外編「信楽紅蓮」前編
【月華の紫石英】番外編、紅蓮視点です。
本編で書けなかった部分の補足的な内容でもあります。母国が滅びた後、紅蓮がどのように過ごしていたのか。そして、紫焔と再会を果たした後のちょっとした日常の様子を含めた前後編のお話です。
<本編のざっくりとしたあらすじ>
人攫いに攫われ、売り飛ばされた主人公・紫焔は母国から離れた国で男娼として働いていた。ある日、紫焔の容姿と同じ特徴の「銀の髪を持つ者」に大金を払うという噂話を耳にする。まさか自分のことではないかと不安に駆られる紫焔の前に、かつての知人・紅蓮が現れた。紅蓮からの催促もあり、娼館の仲間を巻き込まないために身請けされることを決めた紫焔だったが、常連客の横槍や追手からの襲撃など様々な事件が発生し命の危険に晒されることとなる。しかし、常連客・優の友人である要に救われ、駆けつけた紅蓮と合流したことで無事に追手から逃れることに成功。優の手助けによって国外への脱出を果たした。
海を渡り、新たな地に足を踏み入れた紫焔たちだったが、追手をまいたことで話し合う時間ができたと考えた紫焔は過去に犯した罪について紅蓮に告白する。しかし、罪の意識に苛まれていた紫焔は無自覚的に自身を断罪するかのように話を誘導していた。その結果、怒りに支配されそうになった紅蓮と一触即発の空気となるも、要の仲裁もあって事なきを得る。冷静な事実確認を求められ、紫焔は渋々ながらも過去の出来事について再び紅蓮と要に語り始めた。それは、二人の母国が滅んだ日の凄惨な事件についてである。
罪の意識による事実誤認を改め、紅蓮と和解を果たした紫焔は要を交え、現在の母国がどのような状況にあるのか考えることになった。そこで紅蓮からかつて母国で共に働いていた菜々子と接触を図ることを提案される。紆余曲折を経て菜々子とも旅を共にすることとなった紫焔たちは、旅の目的を定め、ついに母国へと向かうために立ち上がった。
以下、注意書きです。
・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です
・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません
・本作品に出てくる全ての呼び名、動植物、無機物等は独自設定であり、もちろんファンタジーです
・戦闘シーン等が出てくる関係から暴力的、流血表現や残酷な描写が出てくる場合があります
当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。
どうぞよろしくお願いします。
※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止
一.
天満月の国が崩壊し、絶体絶命の状況にいた紅蓮は、中将・水木の奮闘によって無事に国外への脱出を果たしていた。
国境付近での任務は失敗に終わり、紅蓮が率いる右軍を待ち構えていた者たちの手によって右軍はほとんど壊滅。自身も負傷した紅蓮には、既に切れる手札が残されていない。
国境を越えて天満月の隣国へ移動した紅蓮は、街に入った途端に意識を失った。知らず知らずのうちに紅蓮の心身は限界を迎えていたのだ。
次に目を覚ましたのは、天満月の国が燃え尽きてからゆうに七日は過ぎた頃だった。
「やっと起きた!」
「先生! この人起きたよ!」
「死んでなかったー!」
わぁわぁぎゃあぎゃあ。それが、紅蓮が目覚めた瞬間に聞いた声だった。
幼少期特有のふっくらとした丸い輪郭と瑞々しい肌。甘く高い声と成長途中の短い手足。寝台に仰向けで眠っていた紅蓮の顔を覗き込んでいたいくつもの顔が、紅蓮が目蓋を開けた瞬間に弾かれたように遠のいていく。
騒がしい少年少女に連れられて寝台までやって来たのは、白髪交じりの女だった。
腰に巻き付けた調理用の前掛けで濡れた手を拭いながら、女は紅蓮の傍で腰を折った。年を重ねて刻まれた皺を携えた手が、優しく紅蓮の額にのせられる。紅蓮はその温もりに安堵し、密かに目を細めた。
「良かった。熱は下がりましたね。声は出せますか?」
「……ああ」
なんとも心許ない発声になる。数日振りに声を出すとこんなふうになるのかと、紅蓮は新しい気づきに瞬いた。
「無理はしないで。喉が火傷していたんですよ、あなた」
「そうか……」
炎上する国を駆け抜けて脱出したのだ。皮膚も内蔵も未だに機能している方が驚きである。紅蓮は眠り続けた影響でがちがちに固まった筋肉を無理やり動かし、上半身を起こした。
見守っていた女が目玉を零しそうなほどに目を見開いて驚いている。
「はらまぁ。たいした体力だこと」
「迷惑を、かけたようで。すまなかった」
「いいえ。あなたを連れて来たのはこの子たちなんですよ。感謝してくださるというのならこの子たちに」
女が背後を振り返る。それを合図に、遠くでこちらを窺っていた少年少女がぱたぱたと駆け寄ってきた。子供たちの姿を目にして、紅蓮は再び目を細める。
天満月の国で何度も通った集落を思い出した。
目の前の子供たちは紫焔よりもずっと年下だろう。それほど遠くない記憶だというのに、あの月の光を集めたような銀色の髪も、鉱石のように輝く紫紺の瞳もひどく懐かしい。会いたいと、紅蓮は柄にもなく強く願った。
「助かった。礼を言う」
紅蓮は子供たちに向けて寝台の上から頭を下げた。さすがに立ち上がることはできそうになかった。上半身を起こすだけで精一杯だ。体が悲鳴を上げている。
必然的に高い位置からの謝意になってしまったが、子供たちも保護者の女も紅蓮の礼に驚いていた。
「……お返事は?」
女が真っ先に我に返って子供たちに反応を促す。催促された子供たちは、銘銘に紅蓮へと返事を伝え出した。「どーいたしまして!」「おじさん死んでなくてよかった!」「すげー重かったよな!」「レイヲイウー!」言いたい放題だ。
後々話を聞くと、実際に紅蓮の体を運んだのは子供たちではなく、子供たちから助けるように頼まれた周囲の大人たちだったらしい。どう見ても普通ではない事情を抱えていそうな紅蓮を、捨て置かずに家に連れ帰り治療まで施してくれたのだ。放置されていれば今頃命はなかったかもしれない。
紅蓮は深く感謝し、女にももう一度礼を言った。
「構いませんよ。ここは人を助けるための場所なんです」
「……それは、どういう?」
紅蓮は室内を見回して首を傾げる。自分からすると、ごく普通の一般家庭に見えた。
「ここは孤児院。私はここの施設長なんですよ」
女は柔らかに笑って紅蓮に建物の説明をした。しかし、耳馴染みのない言葉に紅蓮はますます首を傾げる。
「コジイン、とは何だ?」
「……ああ、そうですよね。あなたの国には孤児院はないと聞きます。本当なのですね」
施設長と名乗った女の口振りに、紅蓮は眉を寄せた。咄嗟に手許を探るが、愛刀はどこにもない。
「怖がらないで。大丈夫ですよ。あなたがあの国から逃げて来たことは分かっています。あんなに血みどろで、煙に巻かれていたんですからね。誰にだって分かりますよ。あなたの刀剣ですが、子供たちが不用意に手をつけたりしないようにそちらの衣装箪笥の中に仕舞ってあります」
「そうか。手間をかけさせた。……殺気を向けて悪かった。気が立っているんだ」
紅蓮は素直に謝罪し、軽く頭を下げた。施設長はにこやかに微笑むだけだった。彼女のまわりで子供たちがきゃっきゃと騒いでいる。無邪気な姿は紅蓮に過去を思い出させて、僅かばかり寂しい気持ちを連れて来た。
「孤児院というのは、身寄りのない子供たちの家です」
「ではこの子供たちは」
「私の実の子ではありません。ですが、とても大切な家族です」
「カゾクです!」
「そうだよ! 家族なの!」
「先生大好き!」
紫焔のいた秩序のある集落が家になった形と考えれば良いのだろうか。
あの集落よりもさらに、ここでの生活は整っているように見える。
「紫焔は……」
「はい?」
「いや、俺のようにあの国から出て来た者が他にいないか?」
紫焔もどうにかして脱出しているかもしれない。そして、紅蓮のように誰かに救われているかもしれない。可能性はとても低いだろう。しかし、絶対にないとも言い切れない。
「たくさんいますよ」
施設長の返答に、紅蓮は慌てて顔を上げた。
「この国だけではなく、天満月の周辺の国では避難民の受け入れで混乱していますからね」
「そうか……」
一国が消え去ったのだ。逃れて来た国民の数は相当なものだろう。紅蓮は拳を握って、体にかけられていた寝具の毛布に皺を作った。
右軍の大将として自分にはもっとできることがあったはずだ。軍の怪しい動きを察しながら、何一つできないまま自分を信じてついて来てくれた隊の者を犠牲にした。後悔ばかりが思い出される。しかし、いつまでも俯いていたところで事態は好転しない。師の叱責を思い出す。
紅蓮の師・玄海は常に厳しい男だった。軍人たるもの、みだりに己の感情を悟らせてはいけない。己の感情に振り回されてはいけない。常に冷静に、客観的に物事を見極めろ。心身を鍛え上げ、己を律せよ。
それこそが、己を強くし、支え導くために重要なことである。紅蓮は深呼吸して感情を制御するように努める。
「世話になった」
施設長に再び礼を言って、動かない下半身を叱責した。寝台の上から足をおろし、立ち上がろうと試みる。すぐに施設長の手が咎めるように引き止めた。
「逞しい人だというのは分かりましたが、さすがに今日その日に動き出すのは感心しませんよ。せめてもう少しは大人しくしていなさい。勝手に動かれて結局どこかで倒れられでもしたら、あなたを助けたこの子たちの善意に水を差すことになりますよ」
施設長の厳しい視線が紅蓮を射抜く。彼女の傍で、子供たちも紅蓮を必死に見上げていた。大人げない態度を見せてしまったようだ。紅蓮は溜息を吐いて腰を下ろした。
「暫く、世話になる」
「よろしい」
敵わない。
聞くところによると、施設長は紅蓮よりも二回り以上年上だった。人生経験の厚みが違う。彼女からすれば、二十歳の紅蓮など子供も同然だ。
それから暫くの間、紅蓮はこの孤児院の世話になることとなった。
目覚めた日から驚異の快復力を見せる紅蓮に施設長は呆れている。一方で子供たちは人間離れした紅蓮の様子に興奮気味に目を輝かせていた。
孤児院に世話になりながらも、時折外に出かけて紫焔の情報を集める。そんな日々が続いた。しかし、目ぼしい情報は得られないままだ。体もまだ元通りとはいかなかった。
一刻も早く体を自由に動かせるようにするため、紅蓮は日々鍛錬を続けている。その勇ましい姿が物珍しいのか、興味を引かれた子供たちに紅蓮は度々質問攻めにされることとなった。
「おししょーさんがいるの?」
「そうだ」
「どんな人? 今何してるの?」
「厳しい人だった。今は空の上だ」
そんな話をしていると、過去の自分を自然と振り返ることも多くなる。
紅蓮はかつて、紫焔と出会った頃のことを思い出していた。
二.
紅蓮が軍人として軍に入隊することになったのは、偏に玄海との出会いがあったからだ。
一般家庭に生まれた紅蓮は、名字を持たない格の低い身分だった。そんな紅蓮には、幼い頃にどこからか紛れ込んできた野犬に襲われて命を落とす寸前だった経験がある。その時紅蓮を救ってくれたのが、玄海だった。
優れた剣士の玄海は野犬であろうとも太刀打ちなどさせずに瞬く間に斬り伏せてみせた。少年だった当時の紅蓮は呆然としているだけだったが、何を思ったのか彼はそんな紅蓮に手を差し伸べたのだ。
「弟子にならないか?」
と言って。後から本人に理由を聞いたが、野犬相手でも恐怖に駆られる様子を見せなかった紅蓮に将来性を感じたかららしい。この子供、見込みありだと。
当時、玄海には既に三人ほど弟子がいた。しかし、結局最後まで残ったのは紅蓮だけであった。玄海の厳しさに誰もが打ちのめされ、ついていけなくなったせいだ。
紅蓮は偶然、人よりも頑丈で無頓着な性質だった。そのおかげか、どれだけ厳しく指導されても落ち込みすぎることもなく翌日には平生通りに戻っていた。人は紅蓮の動じなさを鉄仮面だなんだと時に茶化し、時に恐れた。しかし、玄海からすればそんな紅蓮でさえも感情的だと言う。
「ほら、また。直線的な攻撃になっている」
ひゅん、と鞘で足を払われ、紅蓮は地面に転がった。
「もう一度」
紅蓮は地面を殴って立ち上がった。目の前に立つ玄海は埃一つついていない。
「怒りが顔に出ている。未熟者」
「……怒ってない」
玄海に近づこうと一歩足を踏み出した瞬間、紅蓮は再び地面に転がされていた。
「集中力が足りない。何故何度も同じ過ちを繰り返す?」
紅蓮は師からの説教に、眉間に皺が寄ったのを感じた。
「ほら、怒りが顔に出た。紅蓮は分かりやすすぎる。そのすぐ顔に出る性格をまず直す必要があるな」
「直るわけない」
こういう性格なのだ。周囲からすれば無表情に見えるらしいが、玄海には手に取るように紅蓮の表情変化が分かるらしい。玄海がおかしいのだ。しかし、師の言葉に逆らえば更に転ばされることは明白だった。
「意地悪で言っているわけではないぞ」
玄海はにこりともせずに告げる。
「軍に入れば周りは敵だらけだ。誰もかれもが競っている。お前の寝首を掻こうとする者も現れるだろう。そんな中を生き抜くには、相手に感情を悟られないことが大事だ。自分を見せるな。己を律して常に俯瞰で物を見よ」
「……腹立たしい相手にはどう接すればいいんだ」
紅蓮は唇を曲げて玄海を睨み上げた。玄海は珍しく、ふっと力の抜けた笑みを浮かべて頭を傾ける。
「笑っておけ」
「答えになってない」
しかし、玄海の指導は正しかった。少なくとも、玄海のやり方で本人がどんどん上にいく姿を紅蓮は目の当たりにしたのだ。紅蓮は玄海のようにはできなかった。
師のおかげで心身は異常なまでに鍛え上げられ、紅蓮の右に出る者はそうはいない。しかし、笑顔で相手を受け流す術は得られなかった。
玄海が元帥にまで到達し、紅蓮も軍に馴染み活躍し始めていた頃から少しずつ、玄海とは疎遠になっていった。あえてではない。互いに多忙を極め、会う機会が減ってしまったのが原因だ。
玄海の噂は頻繁に耳にしたし、玄海も紅蓮の噂は耳にしていたことだろう。時折、紅蓮のもとには玄海から手紙が届いた。内容は他愛もないことばかりだ。大抵、しかと鍛え続けよという言葉で締められている。ある日届いた手紙を手にした時も、またそのような内容なのだろうと思った。
しかし、封を切って中に目を通した時、自分の認識の誤りに気づいた。
そこに書き残されていたのは、玄海の遺言だったのだ。
手紙は、いつもと変わらぬ格式ばった調子で挨拶から始まる。そして、自身の病気について実に簡潔に書かれていた。そこには何の感傷もない。玄海らしい文章だった。問題は、最後の内容だ。玄海は紅蓮に頼みがあると書き綴っている。
とある集落で暮らす「銀郎」という名の少年と会うように指示があった。その少年を命を懸けて守れとも書かれている。
紅蓮は手紙を最後まで読み終え、眉を寄せて顔を歪めた。なんとも身勝手な手紙ではないかと憤りを覚えたからである。勝手にあの世に逝って、忘れ形見を弟子に押しつけようというのだ。
紅蓮は怒りを持ったまま玄海の家を訪ねた。
手紙が紅蓮のもとに届くころには玄海は既に息を引き取っていたようで、紅蓮は師の最期に間に合わなかった。それでも、玄海が亡くなったのはここ数日の話だ。しかし、彼の家族は涙のひとつも浮かべていない。
玄海は紅蓮とは違い、厳格で格式高い家庭に生まれた。身分の高い家なのだ。その環境下であの鋼のような精神性を手に入れたのだろう。そしてそれは、彼の家族もまた同様であった。
感情のままに言葉を吐き出し、悲しみを露わにすることなど彼の家族はしないのだ。
紅蓮自身、長年玄海に鍛えられ続けてきた。彼らの己を律する立ち居振る舞いが誰よりも身近なこととして理解できる。
玄海の墓前を前にしても、遺言めいた手紙を読んでいても、紅蓮は涙を流さない。それでも心に空虚さを覚えた。しかし、それだけだ。悲しい、苦しい。そんな感情はもうどこかへ捨ててしまったのかもしれない。
玄海が残した手紙の指示を、無視するという選択肢もあった。だが、紅蓮は渋々ながらも集落を訪ねてみることにした。世話になった師の心残りだ。もし、解決できるのであればしておきたい。そんな思いからの行動だった。
しかし、向かった先の集落では「銀郎」なる者を誰も教えてくれない。紅蓮を警戒して、口を割らなかった。そうなれば紅蓮としても、これといって執着の無い相手だ。このまま見つからなかったということで終わりにしてしまおうかという諦めの感情が頭を占めていく。
集落を進み続け、奥までやって来ると美しい白い花が草原のように広がっていた。
街では見かけない花だ。風に揺れる花弁が紅蓮を歓迎しているようにも、嘲笑っているようにも見える。紅蓮はその花畑のような光景を暫し眺め、その先へと視線を飛ばした。そこには深い森がある。
軍人としての勘なのか、紅蓮はその森に不愉快さを覚えた。不穏な気配がこちらにまで伝わってくる。森の中に何がいるのか。確かめる必要があるだろうか。一歩踏み出そうとした矢先、背後から声がかかった。
「そこから先へは行かない方がいい。お目当ての人間はいなかったんだろう? 来た道を引き返してここを出て行け」
集落の古びた家屋の上に、誰かが立っている。紅蓮はその少年らしき人影を見上げて目を細めた。丁度逆光になっているせいで相手の顔が判別できない。
「目当ての人間?」
まるで紅蓮が誰を訪ねて来たのか知っているような口振りだ。
「軍人さんが何の用か知らないけど、そこから先には行かない方がいい。忠告はしたからな」
相手は慌てたように言い募って、屋根の上で身を翻す。
その忠告を素直に受け入れる価値があるのかどうか、紅蓮には判断できない。紅蓮は相手のこともこの集落のことも知らない。しかし、白い花が咲き誇る先の森が妙に気がかりだ。
何かが起こったとしても、それは紅蓮一人の責任となるだろう。紅蓮は腰に下げている刀剣の柄に触れ、再び森と向き合ってそちらに足を進めた。
「死んでも知らないからな!」
背後から、これが最後通告だと言わんばかりに棘のある声が飛んでくる。随分とお節介な相手だ。紅蓮はその声を無視して森の中へと進んで行った。
踏み込んだ森は闇に支配されていた。
周囲から獣の足音が響いてくる。紅蓮はこの森が、人の手が入らない野生動物の生息地なのだと理解した。歩けば歩くほど、紅蓮の周囲を取り囲むように響く足音が増えていく。獲物がやって来たと喜んでいるのか、敵が現れたと警戒しているのか。どちらにしても、相手が紅蓮を襲撃するつもりであることは明白だった。
紅蓮が足を止めた瞬間、背後から一匹の獣が襲い掛かって来る。紅蓮は体を回転させ、その獣を即座に斬り捨てた。
次いで左側から二匹、右側から一匹、同時に飛び出してきた。地面を渾身の力で蹴りつけ、紅蓮はその身を上空へと浮遊させる。体勢を崩しつつも振り抜く刃だけは正確に。無慈悲に。玄海に叩き込まれた教えが体を無意識に動かした。
そこからまるで耐久勝負かのように、次々と獣に襲い掛かられ続けた。紅蓮は移動しながら獣を斬り続ける。この獣たちは明らかに人間の味を知っている様子だった。可能であれば、ここで全て斬ってしまった方が集落の人間は安心だろう。しかし、その前にこちらの体力が尽きる。
ひとまずは襲ってくる連中だけを狙っていくしかない。紅蓮は無心になって獣を斬った。いつの間にか空はすっかり暗くなっていた。森の中に光が届きにくいせいで、時間の感覚が狂っていく。
死角から物音がした。次いで獣の呻き声が上がる。紅蓮は振り返ってこちらに食いつこうとしていた獣を斬り伏せた。
獣には短刀が刺さっていた。周囲の獣を全て退け、紅蓮は短刀を投げた者を求めて顔を上げる。その瞬間、まるで図ったように強い風が通り抜けた。
太い枝の上に人影が見える。その少年が深く被っていた外套の帽子がふわりと背に落ちていく。風の悪戯によって枝葉が揺れ、生まれた隙間から木漏れ日が差した。
月の光を閉じ込めたような銀色の髪が晒される。紅蓮はすぐに理解した。彼が、玄海の心残りなのだ。
「俺の助けは要らなかったみたいだな」
皮肉を言うように、少年が呟いた。しかし、紅蓮は彼の言葉を短く否定する。
「短刀のおかげで負傷を免れた。礼を言う」
少年は枝から下りて紅蓮の前までやって来た。近くで見ると、その双眸が紫紺の色で輝いていることに気づく。紅蓮の頭の中に、天満月の国に古くから伝わる伝承がよみがえる。
玄海はとんでもないものを残していったらしい。目の前にいるこのあどけない少年の容姿。これは、この国においては誰よりも特別なものだ。
「銀郎、か」
紅蓮は確認のために名を呼んだ。銀郎の瞳が紅蓮を映す。その瞬間、紅蓮は自然とその場で膝を折って跪いた。
「俺は紅蓮。名字はない。師から頂戴し、書類上は信楽紅蓮となっている」
何故、自分は当たり前のように彼に傅くような真似をしているのだろう。分からない。それでも紅蓮は冷静であれと己を律して静かに事の次第を伝えた。
「師の言葉に従って、ここへ来た」
本当は、渋々来ただけだった。しかし、今は違う気がする。
紅蓮はそっと目の前の少年を見上げた。夜の闇でも眩しいほどの銀の髪が風に揺れている。銀郎がその紫紺の瞳から大粒の涙を零した。
「玄海、死んだのか」
呆然としたような口調だった。そうして、ぼろぼろと溢れる涙の粒が少年の頬を濡らしていく。
紅蓮は呆気にとられた。銀郎の掛け値なしの真っ直ぐな涙が肌を滑って地面に落ちる。その涙が、紅蓮にはこの世の何よりも美しく見えた。
「病で。一月程前のことだ。最期はほとんど苦しまなかったと聞いている」
「……そうか」
ごしごしと何度も涙を拭う銀郎をじっと見つめる。紫紺の瞳を濡らす大粒の涙は、一向に枯れる気配を見せなかった。
「俺は師に、お前を託された」
玄海からの手紙について話している間も、銀郎の目からは涙が次々と零れ落ちていく。その光景は紅蓮の記憶に深く深く焼き付き、空虚だった心に鮮やかな色をつけた。
ぎゅっと胸が締め付けられる。紅蓮は銀郎が悲しむ姿を目の当たりにして、自分も同じように悲しんでいることに気づいた。今になってようやく、師の死を現実のものとして受け止められた気がする。
徐に、紅蓮は立ち上がった。銀郎の涙を溜めた瞳がこちらを見上げてくる。紅蓮は導かれるように片腕を伸ばし、銀郎を抱きすくめた。
まだ幼い体がすっぽりと腕の中に収まる。紅蓮は相手の温もりに命の息吹を感じ、胸にじんわりと訪れたどうしようもない悲しみに身を委ねた。少年の頭の上にそっと顔を寄せる。
「師の遺言をどう受け止めればいいのか分からん。今もまだ、迷っている。それでも」
短く息を吐く。その息はみっともなく震えていた。視界が歪み、目頭が熱くなる。きっと空の上で、玄海が紅蓮に説教していることだろう。感情に振り回されて、己の心を悟らせるなど愚かだと。
しかし、どうか今だけは。紅蓮は願って目蓋を閉じた。深い森の中、見ているのは銀郎だけだ。その銀郎も、紅蓮の腕に包まれてこちらの顔は見えないはず。だからどうか今だけは、許してくれ。
「ありがとう」
紅蓮は万感の想いを込めて告げる。
師の死を悼んでくれた銀郎の汚れのない真っ直ぐな涙に心から感謝した。銀郎を抱き締める腕が震える。紅蓮の目頭からぽつりと小さな涙の粒が零れ落ちた。
三.
天満月の国から逃げようとした国民の中に、人攫いに捕まった者がいるという話を耳にした。
紅蓮はすぐに詳細を求めて駆けずり回ったが、碌な情報は得られなかった。紫焔は銀の髪に紫紺の瞳を持つ稀有な見た目だ。捕まればすぐに分かると思ったが、簡単ではなかったようだ。
紫焔はまだまだ子供だが、愚かではない。己の容姿がいかに人目を引くかは理解しているはずだ。そうなると、彼はその見た目をなんとか目立たせないように動いている可能性もある。当然、彼が生きていればの話だが。
「探している人は見つかりそうですか?」
施設長が連日出かける紅蓮を気遣って、豪華な食事を振る舞ってくれた。
その食事を有難く頂きながら、紅蓮は首を横に振る。
「生きては、いないかもしれない」
それだけは考えたくないことだ。しかし、どれだけ探しても見つからない。
「その人って紅蓮さんの恋人?」
無邪気な少女が紅蓮の足に纏わりつきながら聞いてくる。紅蓮は苦笑して再び首を横に振った。
「でも大事な人なんでしょ?」
「そうだ。己の命よりも大事だ」
「じゃあやっぱり恋人だ!」
きゃーと楽しそうに笑いながら少女が走り去っていく。最後まで人の話を聞かない落ち着きのなさが可笑しい。紅蓮は肩の力を抜いて、施設長の料理を口に運んだ。
「私もてっきり、恋人を探されているのだと思っていましたよ」
施設長が穏やかな声で言う。紅蓮は虚を突かれて思わず咳き込んだ。
「恋人ではないな」
「ではご友人?」
「友人……とも違うな」
では何なのか。紫焔と紅蓮の二人を示す言葉が思い浮かばない。知人では距離があり、友人ともまた違う。恋人ではもちろんなく、家族や仲間かと言われるとそれも違うだろう。
「最も近いのは主だろうな」
そもそも忠誠を誓う儀式まで行った相手だ。主従関係と表現するのが現状では一番相応しい。しかし、紫焔が聞けば眉を寄せるだろう。その姿を容易に想像できて、紅蓮は笑みを零した。
「はらまぁ」
施設長が顔を綻ばせるのが見える。紅蓮は不思議に思って彼女を見返した。
「何だ?」
「いえ、そんなふうに優しく笑われるところは初めて見たので。主と仰いましたけど、その方はあなたにとってとても大切な方なのですねぇ」
「……よく分からん」
大切かそうでないかと問われれば大切だろう。だからこそ、こんなに血眼になって彼の行方を探しているのだ。
「まぁまぁ、随分と子供っぽいことを仰って」
くすくすと施設長が楽しそうに笑う。心外だ。第一、子供っぽいなどと言われたこともない。
「子供っぽいのはあいつであって俺じゃない」
「そうなのですか?」
「誰かが傷つくのは見たくないだの、目の前で危ない目にあってる人がいるなら助けたいだのと恥ずかし気もなく言うようなやつだ」
紫焔が口にする汚れのない綺麗な言葉。それらを紅蓮が言葉にすると途端に陳腐に聞こえる気がした。施設長が驚いたように瞬いている。
「そうですねぇ。とても非現実的です」
「……あんたでも、そう言うんだな」
紅蓮は呟くように応えた。子供を救い、導く仕事をしている施設長でさえ紫焔の言葉が甘い戯言だと判断する。その通りだろう。紅蓮も同じように思っている。それでも、紫焔はくじけずに言うのだ。
綺麗事を言い始めるのが誰であっても構わないだろうと。それならば自分が、現実に打ちのめされてもずっと言い続けると。
馬鹿な決意だ。理想と現実の狭間で苦しむ未来が目に見えている。それなのに、紅蓮はその真っ直ぐさに、踏みにじられようとも立ち上がろうとする懸命さに胸を打たれた。
かつて銀郎であった頃に見た、彼の美しい涙が思い出される。紅蓮はきっとあの日から、まだ小さなあの背に魅せられたのだ。
「現実はとても厳しいですから」
施設長は窓の外へ視線を送って息を吐いた。
「こういう仕事をしていると、尚更気づかされます。救える数には限りがある。私の手は二本しかなく、たった二本では抱えきれないほど多くの子供たちがいる」
「そうだな」
苦しいことだ。しかし、現実とはそういうものだ。
紫焔は集落という狭い世界で生きていた。だからこそ、あんな綺麗事を言えるのだろう。しかし、同時に彼はあの国の集落と言う「見捨てられた」場所で生きてきたのだ。世の不条理を痛いほど理解しているはずだ。それこそ、生まれながらに。
それでも彼は眩しい程に前を向く。紅蓮はまるで目の前に紫焔がいるかのような眩しさを感じて目を細めた。
「会いたい」
自分の想いを確認するように呟く。施設長は何も言わなかった。聞こえなかったふりをしてくれたのだろう。紅蓮は目蓋を閉じて、目蓋の裏で紫焔の姿を鮮明に思い描く。
どうか無事でいてくれと、心が叫んでいた。
身体機能が無事に戻った頃、紅蓮は長い滞在で世話になった子供たちや施設長に礼を言い、旅に出る旨を伝えた。見送りに来た施設長に頭を下げる。
「迷惑をかけた」
「いえいえ。とんでもない。元気になって良かったです」
「感謝している。心から」
施設長がいつもと変わらない優しい笑みでこくんと頷く。
「道中お気をつけて」
「ああ」
「紅蓮さん」
踵を返そうとした紅蓮を、彼女の声が引き止めた。振り返ると、真剣な顔をした施設長と視線が合う。
「探し人が見つかることを祈っています。ですがもし、もし万が一その方に先立たれていたとしても。後を追ってはいけませんよ」
彼女の双眸には悲しみが宿っている。紅蓮は黙って相手の言葉を聞いた。
「きっとその方も、あなたに後を追って来てほしいとは思わないでしょうから」
「ああ……思わないだろうな。あいつなら怒るだろうから」
万が一、紫焔がもうここにはおらず、紅蓮がその後を追うような真似をすれば。紫焔は少しも歓迎しないだろう。
「それが分かっているなら良いのです。お身体を大事にしてくださいね」
「世話になった」
紅蓮は施設長に深く感謝し、彼女と別れた。
それからは怒涛の日々だった。
紅蓮は様々な国に渡り、紫焔を探し続けた。しかし、消息はまるで掴めないままだ。天満月の国の周辺をあらかた捜索し終え、紅蓮はいよいよ彼が亡くなっている可能性を振り払えなくなっていた。
不安が頭をもたげる。そもそも最初から紫焔が生きているかどうかさえ不明なのだ。自分は決して見つからない者を探しているのではないか。そんな恐怖に二の足を踏む。しかし、死んだという明確な情報も手に入れたことはない。それだけが、紅蓮の希望だった。
ここにいないのであれば、海の向こうなのではないか。不意に紅蓮は新たな可能性を見出し、海を渡ることにした。
そうしてようやく辿り着いたのが、陽輪ノ国である。
紅蓮は情報収集に加え、日銭を稼ぐためにこの国で有名な「夜遊び通り」に向かった。
娼館では存外、男手を必要としていることがある。今回も目論見通り、用心棒や荷運び等様々な仕事が手に入った。そんな中で、客のひとりが娼婦に「男娼の中に珍しい色の目のやつがいるらしい」とこそこそ話をしていたのが耳に入った。
紅蓮はその客を捕まえ、少々得物をちらつかせながら情報を聞き出した。男曰く、男性限定の娼館で働く部屋付き男娼の中にいるらしい。男も噂で耳にした程度で、具体的に何色なのかまでは知らないようだった。曖昧な情報だが、調べてみる価値はあるだろう。
紅蓮は早速、男性限定娼館について情報を集めた。
しかし、ただでさえ夜遊び通りは秘匿性が高く、そのうえ相手は部屋付き男娼だ。部屋付き男娼と直接会える客など多くない。そのほとんどが大金持ちであることは明白で、そんな相手をとっ捕まえて脅迫まがいに情報を引き出すのはさすがの紅蓮でも容易にはできなかった。そんな真似をすれば、情報を引き出した後に厄介なことになりかねない。結果、情報収集は極めて困難となる。
そうして手をこまねいているうちに、港で妙な噂話が広がっていることを耳にした。どうやら誰かが「銀の髪の持ち主に大金を払う」と言っているらしい。紅蓮は眉を寄せた。あまりにも怪しい噂話だ。天満月の国でも、軍人が紫焔を探している様子が見られていた。無関係とは思えない。
紅蓮は目をつけていた男性限定娼館・麒雲館の店主にどうにか話をつけ、用心棒として娼館内部に侵入することにした。
そこでようやく、長い旅を経て辿り着いたのだ。ずっと忘れられなかったあの紫紺の瞳に。




