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第一章「陽輪ノ国から」参


三.


 部屋の障子を僅かに開け、ムラサキは通りを眺める。


 夜遊び通りに並ぶ店が続々と開店準備を始めていた。行き交う人々。他愛のない話し声。人々の営みの音を耳が拾う。

 ムラサキはこの瞬間の音が好きで、この時間になるといつも外へと意識を向けて耳を澄ませている。人の営みはまるで命の音そのもののように感じられた。



 麒雲館(きくもかん)の店先に一台の馬車が止まった。ムラサキにはどことなく見覚えのある馬車である。美しく手入れされたその馬車は、この通りには場違いな程に立派だ。

 馬車から誰かが降りて来た。まだ店は始まったばかりで、夜遊び通りとしては早い時間だ。客が来るのは珍しい。暫くすると、部屋の扉の外から世話役の少年が声をかけてきた。


「ムラサキ、客です。宝生の旦那です」

「……意外だなぁ」

「会いませんか?」

「まさか。大丈夫。通してくれ」


 一応、部屋付き男娼の位置にいるムラサキには客を取捨選択する自由が与えられている。あくまで、一応、ではあるが。客からの対面を拒否する権利があるのだ。しかし、そうはいっても結局のところ優先されるのは男娼のお気持ちではなく金である。商売なのだから、当たり前の話と言われればそれまでだ。

 つまるところ、選択の意思は確認されるが、それが通ることはほぼない。これが現実だった。



 個室・紫の部屋に入って来たのは、すらりとした長身で利発さを感じさせる涼やかな容姿の男。彼は受け付けで宝生と名乗った。

 今日身に着けている黒の外套には汚れひとつない。この世の不浄など知りもしないと言わんばかりの、清廉潔白さを思わせる容貌だ。


「先日はどうも」


 ムラサキは遠慮なく笑って出迎えた。宝生はにこりともせずにつかつかと歩み寄って、待ち構えるムラサキの横をさっさと通り過ぎて行く。


「時間が惜しい。座るぞ」


 端的に述べてずかずかと室内に入って行く背中は、ムラサキを振り返ることもしない。愛想というものが微塵もない男だ。


「情緒がないなぁ」


 ちょっと、と慌てて宝生の背を追った。紫の部屋の中央はムラサキが客と対面で座れるように場を整えている。そこに座れば互いの距離は近すぎず、遠すぎない位置となる。


「度々のご指名ありがとうございます。今日は何しますか?」

「指名は今日が初めてだ。先日のは違う」

「そうだった。前回はお連れ様が選ばれたんでした」


 どことなく憮然とした表情の宝生は、しかし、不機嫌というわけでもないようだ。表情の変化はあまり大きくはないが、よくよく見ていると小さな機微が伝わってくる。案外、素直な男なのかもしれない。

 この宝生が初めて麒雲館にやって来たのは先日の夜のことである。





 彼が初めて麒雲館(きくもかん)にやって来た日は、今日よりもずっと憮然とした表情で、顔にはっきりと不本意ですと書いてありそうな雰囲気だった。察するに、宝生の友人が仕事で根を詰めていた彼を強引に「遊び」に連れ出したのだろう。

 今日は趣向を変えて、男相手なんてどうだ? ────といったところだろうか。事実、ムラサキがちらりと見た宝生の友人は、随分とこの手の遊びに慣れている様子だった。

 しかし、宝生の方はどうやら全くの守備範囲外だったようで、手続きから金払いまで何から何まで未経験だった。見かねた友人が、自分の奢りだから高級なやつにしとけと言って料金を支払い、部屋付きとしてたまたまムラサキが選ばれたのである。


 先日の宝生は部屋へ案内された後も暫くは無言で、じっと座っているだけだった。それはもう、険しい表情で。

 その表情から一秒でも早くこの時間を終えたいことが伝わってきたものだ。



 その日宝生の相手をすることになったムラサキは、苦笑しながら酒ではなく茶を準備していた。

 宝生のような態度の客も、実はそれほど珍しくもないのだ。所謂、付き合いで来ざるを得なかったような人たちがそれにあたる。

 男娼の中にはそんな相手でも上手く誘導して良い値を払ってもらう者もいる。ムラサキも時と場合によってはそうだ。しかし、宝生はその手の誘導にのっかるような柔軟で流されやすいタイプではなさそうだった。


「まぁ、お茶でも飲んで。なんならひと眠りしたら?」

「必要ない」


 にべもない。

 腕を組んでじっと座るその様はまるで銅像だ。

 宝生は怒っているが、怒りの矛先は無理やりここに連れて来た友人に向いているのであって、ムラサキには向いていない。

 ムラサキは息を吐いて、宝生の対面に座った。自分で用意した茶に口をつける。そこそこ美味い。宝生はこちらに何の関心もないようだった。その様子が少し面白い。

 戸惑うか、忌み嫌うか、見下すか。興味がなくとも連れて来られた者はそういった反応を示すことが多い。しかし、宝生は完全に無関心だ。


 部屋の中にいても聞こえた大声。きっとあれは、宝生の友人の声だろう。別れ際に言っていた「仕事一筋も大概にしろ」は、本当に、本当なのかもしれない。

 目の下にはうっすら隈が見えるし、身綺麗ではあるが、どこか疲れているようにも見える。ムラサキは双肩の力を抜いて、とんと茶を入れた湯呑を卓に置いた。

 立ち上がって部屋の奥に置いてある寝台を整える。


「お客さん」

「放っておけ。時間いっぱい、何もする気はない」

「うん。だから、ここ。使ってくれ」

「聞こえていないのか? 何もする気は……」

「何もしないって。時間になったら起こすから、寝れば?」


 ぱち、と宝生の双眸が瞬いた。その時初めて、彼はムラサキの姿形を認識したような気がする。


「さすがに俺は部屋から出るわけにはいかないから、扉の近くで座ってるよ」


 貴重品はちゃんと隠し持っといてくれよ? と、茶化して言えばますます不思議そうな顔を見せてくる。


「お前は」


 ぽつりと宝生が呟いて、ムラサキを睨んだ。


「まさか男娼ではないのか?」


 質問の意図が不明だ。

 首を傾げながら、ムラサキは気負いなく「男娼だけど」と返した。


「支払った金額は半刻分。何もしないのは職務怠慢になるが」

「えぇー……そうくるか」


 予想外のことを言われてしまった。

 宝生の友人の言葉にムラサキも今なら共感できる。まさしく仕事一筋も大概にしろ、だ。他人の仕事にまで厳しいとは。金を払っている側であるから当然なのかもしれないが、根本的な考え方が少々真面目すぎる。

 説教されて落ち込んだムラサキは、力が抜けてがくんと寝台に腰を落として溜息を吐いた。


「職務放棄してごめん……」

「────いや、そもそも放棄させようとしてるのは私だったな」


 後悔を滲ませる声音だった。宝生はようやく険しい表情を解いて、力の抜けた顔を見せる。


「寝ないんなら、俺の仕事に少しだけ貢献してくれるか?」


 ムラサキは笑って自分の隣をぽんぽんと手で叩いた。はーと深く息を吐いた後、宝生が重い腰を持ち上げて移動してくる。渋々、といった様子でムラサキの隣に座った。寝台が二人分の体重を受けて軋む。


「何をすればいい?」


 生真面目な問いかけだ。ムラサキはにかっと笑って気楽に答えた。


「おしゃべり」


 手の一つでも握らされると思っていたのか、気負っていたような宝生がぽかんとした表情を浮かべている。ムラサキはわざとらしく手をヒラヒラとさせて目を細めた。


「何だよ? 俺とイイことできると思った? 接触はさらに別途お支払いいただきますよ」


 本当は、宝生の友人によって接触を含む料金が支払われている。それでも、あえてムラサキはぼったくりになるような発言をした。相手が嫌がることをしては意味がない。一銭でも多く稼げと怒る店主の幻覚が見えそうだが、ムラサキは無視して相手の意思を尊重する。


「だから半刻、おしゃべりしようか」


 ムラサキの提案に、宝生が初めて笑みらしい笑みを浮かべた。





 それが、先日の出来事である。


 そして今日、まだ早いこの時間に何故か再び宝生がやって来た。今度は一人で。あの日に何かしらの粗相をした可能性を考えながら、唐突にこちらを振り返った男の姿を見返す。怒っている様子はない。では、彼の気分を害して怒られるわけではないのだろう。

 ムラサキが気になったのは再訪そのものだけではなく、今回彼が買った時間の長さについてもだった。


「今日は一刻?」


 前回は結局、半刻弱しゃべりっぱなしだった。他愛もない話から、宝生が仕事にかけている時間の長さについて。そこから派生して健康を大事にというお小言のような話にまで発展した。まるで久しぶりに会った親と息子の会話だ。

 しかし、ムラサキにも弁解したい気持ちがある。宝生は踏み込んだ話をされるのもするのも嫌そうだったのだ。踏み込まず、表面だけを撫でる会話を長時間継続させるには、色々なところへ話題を発展させる他ない。



 ムラサキの対面時間の確認に、宝生は憮然としたまま頷いた。


「そうだ」

「えーと、じゃあ何する?」


 トランプ、花札、将棋、囲碁。この場には一通りのゲームは揃っている。二人であることを考えると将棋や囲碁が適しているか。ゲームを示しながら、ムラサキは仁王立ちしたままの宝生を振り返る。


「それとも、この前みたいにおしゃべりでもするか?」

「そうだな……」


 視線で宝生を促すと、彼は頷いて移動して座る体勢になった。


「最近はちゃんと寝てるのか?」

「寝ている。問題なくな」

「ご飯はちゃんと食べてるか? 仕事優先して今日絶食中とかじゃないだろうな?」

「小言はやめろ。お前は私の親か」


 笑うムラサキに、宝生が僅かに目を細める。

 彼は今、先日部屋に入った時最初に座った場所に腰を下ろしている。ムラサキも彼に倣って対面に座った。向かい合った二人は、前回と同じ位置だがあの時とは明らかに違っている。当たり前のように視線が交わった。

 無関心だった宝生が、今日は最初からムラサキを見ているからだ。


「今日は、礼を言いに来た」

「礼?」

「先日は、付き合ってくれて助かった」

「いや、それは筋が違うんじゃ……俺はお金を払ってもらった分働いただけだから」

「そうだな。でも、助かったのは事実だから」


 先日、半刻を費やした後に同じく半刻を費やした友人に肩を組まれ、宝生は帰って行った。友人の方は金を払った分しっかりと楽しんだようだが、部屋から出て来た宝生を見て嬉しそうに笑っていたので、宝生が息抜きできたと考えたのだろう。

 実際は会話を楽しんだだけだが、それは宝生かムラサキが話さなければ友人には分からないことだ。上手く誤魔化すことができたのかもしれない。


「まぁ、事なきを得たのなら良かった」


 ということで宝生からの礼を無理やり納得して受け止めておくことにする。大金を払われて礼を言われるのは妙な気分だ。


「でも礼だけなら一刻もいらないだろ」


疑問を抱いてムラサキが宝生をじっと見つめる。


「それは……────────息抜き、だ」


 彼は誤魔化すように視線を外して顔を背けた。

 もしや半刻弱の対話で彼の中の意識改革に貢献できたのだろうか。たまの息抜きも大事だと。

 ムラサキはにやりと笑みを浮かべた。そうとなれば今からの時間をまったりと過ごす準備だ。


「じゃあ、今日こそお茶飲んでくれよな。けっこーおいしいから。実はこっそり茶菓子もあるんだ」


 うきうきと茶を用意していると、背後で宝生が溜息を吐いた。


「なんだ? やっぱり俺の淹れたお茶は飲めないって?」

「いや。ただ、お前……、そっちからすると、しゃべるだけの客で大丈夫なのか」


 真面目さは変わらず、らしい。しかし、真面目であることは美徳だ。自分自身を追い詰めない範囲であることが一番ではあるが。

 用意した茶と、煎餅や甘味菓子を小さな籠に入れて卓上に置いた。


「何も問題はないよ。もちろん支払った額や男娼の位によってそのへんは変わるけど」

「位か。部屋付き男娼を射止めるには金を湯水のように注ぐ必要があるらしいな」

「勉強したのか」

「……少しな」


 ムラサキは座り直して、改めて宝生と向かい合う。


「そのとおり。だから、仕事でのいつもの俺の基本はゲームだ」

「ゲームか。何が得意だ?」

「やる気があるなら内容は宝生の旦那に任せる」

(すぐる)だ」


 会話を断ち切るように告げられ、ムラサキは首を傾げた。宝生は表情を変えないまま、静かにもう一度口を開く。


「優だ。宝生優。人より秀で、優秀であれと名付けられた」

「名が体を表すを地でいく人がいたもんだなぁ。じゃあ、優さん」

「さん」


 不快そうに宝生の肩眉が跳ねた。ムラサキは肩を竦めて見せる。


「優……?」

「それでいい。で? 結局お前…………は、何のゲームが得意なんだ」


 同じ質問を再び。先ほどのムラサキの流した回答はお気に召さなかったらしい。ムラサキは碁を指す動作をしながら、宝生────優を見上げた。


「ムラサキ。それが俺の呼び名だよ」


 その日二人は時間いっぱいまで会話を楽しみながら、囲碁に興じた。

 勝敗は五分五分。勝ったり負けたりを繰り返す。最後まで決着がつかなかった。


 優は別れ際、次は将棋で勝負だと言い残した。負けず嫌いな一面があるのかもしれない。ムラサキは受けて立つと返して宝生を見送ったのだった。


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