第一章「陽輪ノ国から」弐
二.
部屋付き男娼はその性質上、基本的に常連となった客を相手にすることが多い。ムラサキが個室を与えられたのは、偏にこの紫紺の瞳によるだろう。
多くの客を見てきたが、同じ瞳を持つ者を見たことがない。麒雲館の店主が目を輝かせてムラサキを買ったのも、この珍しい瞳の色があればこそだ。
高値で購入され、この娼館にやって来て数年。最初こそムラサキも世話役として男娼のもとについていたが、この国で成人とされている年からは男娼として働いてきた。
現在、ムラサキは二十歳だ。とはいっても、おそらくは二十歳くらいだろうという曖昧さである。ムラサキは自分の正確な生年月日を知らない。これはそれほど珍しい話ではない。
夜遊び通りで働く者の何人が、己の出自を正確に把握しているだろうか。把握している者を数える方が早いくらいかもしれなかった。夜遊び通りは、ある意味で恰好の隠れ蓑なのである。
誰かから逃げている者、借金を抱えている者、出生証明書を国から発行されていない者、無許可で陽輪ノ国へ入国した者。様々な人間がここで偽りの自分を演じて生きているのだ。
「ムラサキ、四宮の旦那様がいらっしゃいました」
世話役に部屋の外から声をかけられ、分かったと返事をしてそっと息を吐いた。ムラサキは卓上に置いていた銀色のロケットペンダントを手に取り、そっと引き出しの中へ仕舞う。
さぁ、今日も仕事だ。
「元気にしてたか? ムラサキ」
紫と名付けられた個室の扉を開け、四宮が現れる。四宮はここ数年で一気に名を上げた若手実業家だ。ムラサキのもとへ通い始めてまだ日も浅い。頭が良く、自尊心が高い男である。
「久しぶりだな。四宮の旦那」
ムラサキは片手を軽くあげて挨拶した。客に対する態度としては随分と横柄に見えるだろう。しかし、四宮は愉快そうに片眉を上げて見せるのみだ。口許には笑みさえ浮かべている。
「相変わらず態度がでかいな」
「俺はお客さんに合わせて対応を変えてるだけだ」
「へぇ? つまり俺が反抗的な人間が好きだと言いたいのか」
「いーや。旦那は反抗的な態度を見せられるのが嫌いだろ」
「分かってるじゃないか」
四宮が嬉しそうに笑う。
ムラサキは四宮が好む香りの香を焚いて、室内に満たしていく。
「でも旦那は生意気なやつは好きだ」
違うか? ────と、ムラサキは目を細めた。こちらへ近づき、腰を下ろした四宮は大層ご機嫌である。どうやら正解らしい。
客に合わせた対応をすることは重要だ。この時間を心地良いと思ってもらうことがムラサキの仕事の一つでもある。
しかし、時にはどれほど合わせようとしても合わせられない相手がいるものだ。例えば最初からこちらを見下し、嘲るために近づいてくるような無頼漢がそれにあたる。
四宮の相手を終えて、空き時間ができたムラサキは一階に下りていた。麒雲館では、部屋付き男娼以外は一階に並ぶ個室を交代で使用する。そのうちの一室から、一人の客が男娼の髪を掴んで引きずり出して来た。
「別のやつに変えろや」
大声で文句を言って、引きずっていた男娼を廊下に投げ捨てる。空気がぴんと張り詰めた。
ムラサキは恰幅の良い無頼漢に近づく。金を払えば全てが思い通りになると勘違いしている者は少なからずいる。この男もそうなのだろう。
「お客さん、どうしたんだ?」
無頼漢が振り返る。男の足元で、男娼が口から血を流していた。酷く殴られたのだろう。頬が腫れ上がっている。止めようとしたのか、世話役の少年も頬に傷を作っていた。
ムラサキは男が振るった拳を避け、体を沈めながら右足を軸に半回転する。相手の視界では突然消えたようにも見えるだろう。男の左腕を捕らえて捻り上げ、その背に押しつけた。ぎゃあと短く悲鳴を上げた男の腕をさらに強く捻る。
「だめだな、暴力は。暴れたいなら闘技場でも行ってきな」
「このッ、何様だテメェ! 男娼ごときが偉そうに」
「今すぐここを出て行くなら見逃すけど」
「黙れくそったれ! 手をはなせ! ぶん殴ってやる」
反省の色はなし。行動を改めるつもりもないようだ。
ムラサキは無防備な相手の膝裏を容赦なく突いた。がくりと膝を折った男が床に倒れる。男の背に乗り上げ、膝で押しながら体重をかけて腕を掴む手に力を込めた。
「痛っ! くそッ!」
骨を軋ませるほど捻り上げる。男の関節は悲鳴を上げているだろう。
「だったら二度と人を殴れないように腕の骨を粉々に砕く」
男の耳元に唇を寄せ、氷のように冷ややかな声で告げる。無頼漢がひゅっと息をのんだ。
「出て行ってくれるか?」
再度伝えながら、ムラサキはさらに力を込めた。
男は顔を青くしながら何度も頷く。ムラサキは相手の腕を解放した。自由になった途端に男は転がるように麒雲館を飛び出していく。ムラサキはひらひらとその背に手を振った。
「ムラサキ」
怪我をした少年がムラサキに駆け寄って来る。
「ごめんなさい。助かりました」
「いーよ。こういう時のために毎日鍛えてるからな」
ムラサキは袖を捲り上げて力拳を作る。体は資本だ。己の身は己で守る。これが、夜遊び通りで生きていくために忘れてはならない暗黙のルールだ。
少年の頭を撫でて笑いかけた。まだまだ成長途中の少年の傷ついた頬が目に入る。ムラサキは追い出した相手を心の中で罵っておいた。
店内の騒動を聞きつけた店主がようやく顔を出した。迷惑そうな顔つきに男娼たちが無言になる。店主はあくまで雇い主であり、庇護者ではないのだと全員が理解しているからだ。
「何してんだい。とっとと引っ込みなムラサキ。お前は顔でも売ってんだ。簡単に店先に出るんじゃない」
「はいはい」
店主は男娼が殴られることよりも稼ぎが減ることを懸念している。殴られれば商品価値が下がることについては無視だ。結局商売にも悪影響を及ぼすことになりそうだが、その矛盾をどう考えているのだろうか。
「でもあの手の輩が大きい顔し始めたら厄介だ。そろそろ何か対策してくれないか? 店長」
「お前に言われずとも考えてるさ。もう少し待ちな」
「お、これは良い返事だ。良かったな皆」
店主が重い腰を上げて対策を考え始めていたのは意外だったが、朗報だ。
ムラサキは倒れている男娼の頬にそっと触れ、介抱する。彼は完全に気を失っているようだった。
「ムラサキ。彼は僕が看るので部屋に戻ってください。すぐに次の客が来るのでは」
「そうだな。でも運ぶのは手伝う。体格差きついだろ」
青年を担ごうとする世話役の少年から引き取り、ムラサキは意識のない青年を抱えた。
「ありがとうございます」
「いーのいーの」
「でもムラサキ、さっきの客、乱暴者だったけどあんなふうに追い出しちゃって良かったんですか」
「俺がその分稼ぐ。それに、いい大人が子供に手を上げるなんて最悪だ。大人は子どもを守るもんだ」
あの無頼漢は世話役の少年にまで手を上げたのだ。
「こんなふうに理不尽な暴力を振るうやつなんて腕の二本でも十本でもへし折ってやんないとな」
「ムラサキ……人の腕はそんなにないです」
「えー、なら足の分も入れて四本にしとくか?」
「だめです」
ムラサキは、ははと笑って少年からの注意を受け流した。
この程度の揉め事はムラサキたちにとっては日常茶飯事なのだ。いつまでも暗くなっていても仕方ない。
ムラサキは今日もこの麒雲館で密やかに生きている。