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月華の紫石英  作者: あっとまあく
陽輪ノ国編
18/81

第一章「陽輪ノ国から」拾捌

貿易船に乗船し、秘密裏に海へ出た紫焔たち。ある日要が怪しい男と遭遇する。男の正体を突き止めるため、貿易船の責任者である優の部屋を訪ねることにした紫焔は、久しぶりに優との再会を果たした。しかし、突如貿易船が襲撃される。一人になった紫焔は部屋に侵入してきた襲撃犯と対峙する。

BがLをなかなかしないと思っていたらようやく…と思いきや今度は戦闘が始まってしまいました。そんな内容なので念のためタグをつけています。暴力表現にご注意ください。

切るところに悩んで長くなってしまいました。


以下、注意書きです。

・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です

・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません

・娼館や貿易船についても独自設定であり、もちろんファンタジーです

当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。

どうぞよろしくお願いします。

※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止


二十七.


 ちかちかと蝋燭に灯した火が揺れている。


 今夜は波が高いらしい。丸窓からのぞく海上は夜の闇でほとんど何も見えなかった。紫焔(しえん)は再び蝋燭の火に視線を戻す。

 橙色のような、赤色のようなどちらとも言えない色味がゆらゆらと揺れた。恐怖がぞくりと背筋の上を這いあがってくる。

 火が恐ろしい。それは紫焔に耐え難い悲しみを思い出させた。


 赤は、紫焔の好きな色であり嫌いな色でもある。

 大切な人を思い出す時、赤銅色の瞳や赤みがかった茶髪が鮮明によみがえる。赤は彼を彩る色でもあるのだ。しかし、赤は同時に紫焔の()()()でもある。



 不意に視界が遮られた。紫焔と蝋燭の間に壁のように立ったのは、紅蓮(ぐれん)である。


「眠れないか」


 紅蓮の向こうで寝台に仰向けになった(かなめ)が見えた。健やかな寝息になんとはなしに癒しをもらった気がする。紫焔は紅蓮を見上げ、瞬いた。


「夜の海って暗いんだなと思ってた。前に船に乗ったときは景色なんて見る余裕なかったんだけど面白いよな。昼間はあんなに青々としててキラキラしてるのに。今は何にも見えない」

「たとえどれほど暗い場所であっても」


 紅蓮は紫焔の言葉を奪うように口を開いた。


「お前の白銀の髪を見失うことはない」


 唐突なことを言われた気がして、紫焔は一瞬呆気にとられる。


「何だそれ。口説き文句?」


 ケラケラと揶揄するように笑うと、紅蓮も口許を綻ばせた。くだけた笑みを久しぶりに見た気がする。彼もずっと気を張っていたのだ。


「口説いたわけではなく事実を言っただけだ」

「堅物だなぁ。分かってるよ。冗談だって」

「紫焔、お前はその見た目を嫌っているかもしれんが、それは他者を導く価値あるものだ」


 紅蓮の声には含みがない。彼からすれば本当に事実を言っているだけなのだろう。

 ()()()()()()()()()()姿()。しかし、それは一体どれほど意味のあるものだろうか。紫焔には分からない。


 見た目が重要視されることはたしかに多いだろう。それはある種、事実かもしれない。しかし、見た目だけではだめなのだ。中身が伴わなければ。あるいは、結果が伴わなければ意味がない。

 そもそも紅蓮は、紫焔にどうあってほしいと考えているのか。知りたい気持ちと、知ってしまえば戻れないと恐れる気持ちが紫焔の中で同居する。


「初めて紫焔と会った時、俺はそれを確信した」

「何年前の話だよ」

「お前にとってどうかは知らん。だが、俺にとっては今もあの日の記憶は色鮮やかだ」


 紅蓮の双眸が遠い過去を見る。


「紅蓮は……何で俺のところに来たんだ」


 迷いを断ち切るように、紫焔はとうとう麒雲館(きくもかん)で抱いていた疑問を言葉にした。答えへの恐怖心からか自然と視線は足元に落ちる。

 紅蓮が腰から提げている刀剣の柄に手を置いて僅かに背筋を伸ばした。


「ずっとお前を探していた。七年間、ずっとだ」


 噎せ返るような血の臭い。皮膚がひりつく熱気と肺が焼けそうになったあの火の海。七年前のあの日の記憶が、激流のように押し寄せる。紫焔は頭を左右に振って息を吐いた。


「俺は人攫いに攫われて海を渡って、別の国へ行った。そこで売り飛ばされたんだ。それであの麒雲館に」

「へぇ、壮絶~」

「!」


 突然割って入った軽やかな声に顔を上げる。紅蓮の向こうで眠っていたはずの要が、片手に頬を置いてこちらを見ていた。いつから話を聞かれていたのだろうか。油断ならない男である。


「その刻印は、人攫いに掴まった時につけられたわけか」

「そうだ」


 要の双眸が興味の色で塗りつぶされる。


「旦那は何で国を出たんだ? どーせ俺はもう知っちゃった側なんだ。いいじゃんか、聞かせろよ」

「お前……博打が好きだろう」

「正解」


 パチンと小気味いい音をたてて要が指を弾いた。片目を瞑って見せる気障っぷりまで披露している。紅蓮は溜息を吐いて、近くにあった椅子に腰を下ろした。


「俺は指令で国境付近にいた。ある事件が起きた時、急いで戻ったが間に合わなかった。紫焔はもうすでにおらず、俺は自ら国を出た」

「事件ねぇ。指令ってのは何だよ。旦那ってもしかして軍人?」

「軍人、兵士……なんでも良いが、その類の所属だった」

「やっぱなぁ。普通じゃねぇもんなアンタ」


 納得したと要が何度も頷く。紅蓮の戦いは用心棒というには洗練されているし、民間組織の人間というには規律性を感じさせるものがあった。


「えぐいほど武功上げたんだろ。そんで隊長とかやってたんだろ?」

「やってたやってた。紅蓮の隊は負け知らずで、要流に言うなら最強の軍隊だったらしい」


 紅蓮の強さは周辺の国にまで知れ渡っていたという。さすがに顔だけで気づかれるということはないが、その通称は多くの人の耳に残っているようだ。さすがに海までは越えていないだろうが。


「こっわ。じゃあ何か? 旦那みたいな人間が何人も集まってたってことか? 兵器だわ、それはもはや」

「妄想は好きにしろ。訂正するのも面倒だ」

「言質は取ったから好きにすんぜ。それで? 紅蓮は紫焔と恋仲だったわけ?」

「おい!」


 話題を急転換され、紫焔は思わず声を上げた。にやにやと笑う要は、本当に、本当に心底油断ならない男である。


「紫焔と会ったのはこいつが十かそこらの時だぞ。ありえないだろう」

「いやいや世の中にはガキ相手にそういうことする最低な人種の大人も存在すっからねぇ」

「俺がその手の人種だと? そもそも出会った頃だと俺も十代だが」


 紫焔が十歳くらいの頃、紅蓮は十七歳くらいだろう。それはもう、輝かしいまでの若者だった。


「旦那の十代、想像できねぇー」


 ゲラゲラとお腹を抱えて笑い出した要に、紅蓮は無言を返している。それでも要は笑い止まずにあまりに可笑しそうなので、紫焔までつられて笑ってしまう。そしてしっかり紅蓮に睨まれた。


「十七歳の紅蓮は、かなり血気盛んだったよな」

「喧しいぞ」


 何故こんなところに来なければならないのかと、顔にしっかり書いてあった。今は無表情もお手の物のようだが、十七歳という若さではまだ無表情に徹しきれない頃だ。十代の紅蓮は、若々しく血気盛んで才気溢れる青年だった。

 赤みがかった茶髪が風に揺れ、意志の強そうな双眸が警戒心たっぷりに周囲を観察していた。そして、あの頃から変わらず頑強で素早く、他者を圧倒する強さを誇っている。


「どーせほとんどこの部屋に引き籠ってなきゃなんねぇんだし、暇つぶしに過去回想してくれよ。俺に隠し事なんかもういらねぇだろ」

「いやぁ、知らない方が良いこともあるぞ」

「その言葉前にも聞いたな」


 ふぁ、と欠伸をした要が片手をひらひらと振る。睡魔が襲ってきたらしい。寝台の枕を引き寄せて俯せになり、ぼふんと枕に顔を押しつけた。数秒も経たずに寝息が聞こえてくる。


「要って疲労の度合い関係なく、一瞬で眠れるっぽいな」


 少し羨ましい。ぼんやりと要の後頭部を眺めていると、紅蓮の視線が肩口に刺さった。


「怪我の具合はどうだ」

「かなり良くなってる。要のおかげだ」


 隙あらば要の必要性と恩を擦り込んでいく。紫焔流の要への援護射撃だ。


「潜伏していた七日間で筋力もかなり戻ったようだな」

「歩く分には何も問題ないよ。もう少し回復したら、前みたいに稽古つけてくれるか?」


 自分の命は自分で守れ。

 以前、紅蓮たちに言われた言葉だ。紫焔は七年前に国から出るまで、紅蓮たちに鍛えられてきた。あの稽古がなければ、今頃要の抜刀で首を斬られて土の下だ。


「そんな場所があればな」

「あー、まぁ……ここじゃ無理だなぁ」


 客室は三人でいっぱいっぱいで、暴れられるような空間はない。


「紫焔」


 紅蓮が静かに名を呼んだ。空気が変わる。

 紫焔は赤みがかった茶髪を見つめ、紅蓮と視線を交わらせた。彼の髪は太陽の光があたると薄く煌めいて綺麗だ。口にはしないが、紫焔は昔から密かに思っていた。

 赤銅色の瞳に自分の姿が映る。


「お前が国を出てからどう生きてきたか、俺は知らない」

「そうだな……」

「碌に守れもしない己に嫌気がさす。俺が愚かでなければお前が売り飛ばされることもなかった」

「紅蓮はできることをいつもやってくれただろ。愚かなんかじゃない」


 ガタガタと風が窓を叩く。

 愚かなのは紅蓮ではない。あの日、何も出来なかった紫焔自身だ。自分一人守ることすらできず、どうして誰かを守れるかもしれないと錯覚していたのか。


 夜の暗い海が波立っている。朝まであとどれくらいの時間が残っているだろう。紫焔は目蓋を閉じて、窓に頭を預けた。






二十八.


 大型貿易船は海の上であることを忘れさせるほどに安定した航行を続けている。波の揺れを感じる瞬間も少ない。


 (すぐる)たちの国を出港してから、順調に航海は進んでいた。現状、追手の気配もなく比較的平和に過ごせているのは僥倖である。

 この貿易船には乗組員以外にも客が乗っているらしいが、用意された客室にほとんど籠りきりの[[rb:紫焔 > しえん]]たちは出会うことがない。



 怪我の完治を目指して安静にしている紫焔は、暇すぎてどうにかなりそうな稀代の遊び人・要の様子を眺めていた。

 要がこのような窮屈な目に遭っているのは紫焔が原因なので、非常に申し訳ない気持ちがある。しかし、面白い息抜きなど思い浮かぶはずもない。

 もう一人、同じく狭い客室に閉じ込められている状態の紅蓮は、ひとり刀の手入れをし時折扉の外で周囲への警戒を続けている。


「要のこと知ってる人って、この船にはいないんだよな?」

「優は、顔は知られてないだろうとは言ってたな」

「だったら要だけでも船の中を散策するくらい良いんじゃないか?」


 紅蓮に向かって提案してみるが、彼からの反応は薄い。


「俺もそう思いますけど? 眼鏡でもかけて変装すっからさぁ」

「さすがに籠りっきりじゃ、体にも悪いし……」

「そーだそーだ。旦那、紫焔の声聞こえてるか?」


 二人から請われ、紅蓮が大きな溜息を吐いた。これは、諦めの溜息だ。紫焔は要と顔を見合わせる。


「目立つな」

「分かってるって」

「尾行されるな」

「はいはい。りょーかい」


 軽やかに立ち上がった要が客室に常設されている机の引き出しを開けた。中には老眼鏡が入っている。彼はレンズだけを器用に抜いて、空っぽになった眼鏡をかけた。それだけで不思議と雰囲気が変わる。さらに、普段は襟足を流して上半分だけ結んでいる髪型を変え、後ろで髪をひとつに束ねた。


「じゃ、遊んでくるわ」


 それだけを言い残し、扉の向こうに消えていく。清々しいまでの早業だった。


「……遊んでくるって、人と関わる気満々じゃないか?」


 紫焔は見えなくなった背中に手を振って呟いた。後を追って止めに行こうとした紅蓮の腕を掴んで止める。

 要にだって自由な時間は必要だ。それに彼は自身の置かれた状況をよく理解している。口では奔放なことを言うが、無茶なことはしないだろう。


「まぁまぁ」

「お前は田城に甘すぎる」

「甘いとかそんなのじゃないだろ。迷惑かけてるのは俺の方なんだ。できれば追手を捕まえて要に自由を返せたらなぁって」

「追手がいなくなっても、ヤツがお前について吹聴しないとも限らない以上は放置できん」 

「命狙われるようなことだって分かってるのに吹聴なんかしないだろ」

「……やはり甘いな」


 紅蓮はそれだけ言って、部屋の外へと足を向けた。周辺を確認しに行くようだ。

 常に気を張らせてしまって申し訳ない気持ちになる。しかし、紅蓮以上の手練れはいない。適材適所ではあるのだ。そんな中、紫焔にできることといったら何があるだろうか。

 扉の向こうに消えた二人目の背中。紅蓮の気配が完全に遠ざかってから、紫焔は深い溜息を吐いた。


「俺、役立たずすぎる」


 ただでさえ怪我で足を引っ張っている状況だ。戦闘においては紅蓮に敵わない。場の空気を明るくすることは要が抜群に上手い。

 紫焔はかつての職業柄、客を退屈させないために教養を身に着け、様々なことを齧っている。しかし、齧っているだけだ。とりわけ突出した才能があるわけではない。

 せめて大人しくして騒動を起こさないように努める。それくらいしか、今の紫焔にできることはなかった。




 航海に出て数十日が過ぎた。


 予定では、あと二、三日もすれば目的の国へ到着するようだ。

 紫焔たちが紛れ込んだことで何らかの問題が起こることもなく、日々順調に進んでいた。そのためか、全員の気が少しばかり緩んでいる気がする。


 事が起こったのは、そんな折だった。

 軽い変装をして船内を自由に散策していた要が、珍しく真剣な顔で戻って来る。


「怪しいヤツがいるかも」


 要は閉じた扉を背中越しに睨んだ。紅蓮が手入れしていた刀剣を鞘に収め、腰に下げる。


「怪しい?」 

「すげぇ美人な客がいてさ。お近づきになりてぇなぁって眺めてたんだよ」

「……何の話だ」

「聞けって。そしたら前方不注意になっちまって、うっかり前から来た男にぶつかったんだ」

「それで?」


 紫焔は続きを促す。

 窓の外で、青い空に暗い雲がかかりはじめていた。海面に影が落ちる。太陽が雲に隠されたのだろう。


「別に何も。謝って帰って来た」

「本題は」


 なかなか革新の部分を話さない要に紅蓮が眉を寄せている。要はとんとんと己の胸元を親指で叩いた。


「ぶつかった時分かった。ここに()()仕込んでんなって」

「拳銃か」

「分かんねぇけど、そうかも」

「警備の人じゃないのか? 私服警官みたいな」


 制服をあえて着ずに客に紛れる話は耳にする。紫焔はその話を思い出して問いかけた。しかし、すぐに要が首を左右に振る。


「違うね。キナ臭さぷんぷんだった。なんか企んでんだよ、あれは」

「根拠は」

「勘」


 立ち上がっていた紅蓮が椅子に座り直す。それを否定ととった要が慌てて紅蓮のもとに駆け寄って抗議し始めた。

 要の勘の精度については未確認だが、あえてこんな出鱈目を言う男でもない。勘はともかく、懐に何かを仕込んでいたのは事実だろう。その男が貿易船の人間なのかどうかは、紫焔たちには判断できない。


「優に聞ければな……」

「そうだよ、それだ! 優に聞こうぜ」


 紅蓮の肩を掴んで揺さぶっていた要が我が意を得たりとばかりに顔を明るくさせる。

 優はこの船の責任者だ。乗船している者の名簿も所有しているだろう。警備体制についても把握しているはずだった。


「てなわけで」


 どん、といつの間にか移動していた要に背を押される。紫焔は瞬きして振り返った。


「優の部屋はここだ。俺らの合図は覚えてるか?」


 要の長い指に、一口大に折り畳まれた紙が挟まれている。しれっとその紙を紫焔に寄越し、要は口笛でも吹きそうな雰囲気で再度紫焔の背を押した。もしかして、図られたのだろうか。


「おい、さっきの情報は虚偽か」


 同じことを考えたのだろう。紅蓮がじろりと要を睨み上げる。


「そんなくだらねぇ嘘吐くかよ。さっきの話は本当だ。それで優に会わせる丁度良い機会だと思ったのも本当」

「抜け目ない」

「お褒めに預かり光栄で」


 にやりと要が笑う。


「ちなみに最近何度も散策してたから見回りの動きも分かってんぞ。つーわけで今の時間帯なら人目を避けて上手く動けば優の部屋まで行ける」

「要ってやっぱり」

「もういーってのそれは。ほら行った行った」


 ぐいぐい扉まで押されて紫焔は苦笑した。


「俺も行く」

「旦那……無粋すぎんぞ」


 立ち上がった紅蓮に要が溜息を返す。


「紫焔は黒髪に染めてるし、人に見られないように移動するし、問題ないだろ」

「万が一追手が」

「旦那も俺も船に乗ってからずっと警戒してっけどいねぇじゃんか。俺がぶつかった怪しいヤツも俺の勘違いかもしんねぇし? 心配しすぎは体に悪いぜ?」


 要の言葉通りこれまで一度も追手の気配は感じられなかった。反論を探してか、紅蓮が口を噤む。


「それに、万が一何かあっても大抵のヤツはコイツに勝てねぇと思うんだけど? 紫焔、お前かなり強いだろ」


 そういうところも鼻につくんだよなと付け加えながら、要が双肩を竦める。紫焔はちらりと紅蓮を窺った。


「紅蓮には到底敵わないけどな。紅蓮に鍛えられたから、そこそこ動けるつもりだ」

「あー、なるほどねぇ」


 ひとりうんうん頷く要は腕を組んで何やら納得した様子だ。


「てなわけでほら、行って来い」


 客室から追い出されるような勢いで押し出され、紫焔は通路に飛び出した。閉まっていく扉の向こうで紅蓮と要が何か言い合っている声が聞こえる。がちん、と金属音をたてて扉が完全に閉ざされた。

 客室に戻るか、渡された紙に書かれている優の部屋に向かうか。迷ったのは一瞬だった。


 紫焔は通路を歩き出す。何にしても、要が遭遇した怪しい男が船の者なのかどうかを確認する必要がある。



 要の言った通り、この時間帯は人が疎らだ。壁を背に人目を避けながらこそこそと移動するが、そもそもあまり人と出会わない。

 時間があったとはいえ、要が自由に出歩くようになったのはここ二、三日のこと。その間に警備の巡回ルートや客や乗務員の移動時間等を把握してしまうとはやはり侮れない男である。


「こっちか」


 紙に示された部屋に向かう。目当ての部屋にはすぐに到着した。

 紫焔は扉の前で深呼吸した。要と優が使っていた合図は覚えている。こんこんと合図すると、それほど間を置かずに中からも合図が返ってくる。優は室内にいたらしい。その辺りもきっと要は折り込み済みなのだろう。頭の下がる思いだ。

 ドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開く。


「優」


 小さく声をかけた瞬間、紫焔の体は中から伸ばされた手によって引き寄せられた。背後で扉が勢いよく閉まる。

 久しぶりに見た優は、相変わらず無愛想な雰囲気だ。それでも瞳の奥に安堵の色が見えた気がする。


「紫焔が来るとは思わなかった」

「えっ」


 意外なことを言われた。紫焔は思わず声を上げる。どうやら要は親友相手でも出し抜くのが好きらしい。


「要が来る予定だったのか?」

「そうだ。船内にある掲示板を通して伝言が送られてきたから、何か相談事なのだと思っていたんだが」


 付き合いが長いだけあって、要と優には二人だけに通じる連絡手段をいくつも持っているらしい。今の状況においてはとても頼りになる。


「実は要が……」


 紫焔は早速、要から聞いた話を伝えた。

 話を聞き終えた優は顎に手をあてて思案している。この反応からすると、やはり良い結果は得られそうにない。


「私服で警備に当たっている者はいない。だが、拳銃の類を持ち込まれているとは考えたくないな」


 優曰く、乗船の際には入念に身体検査をしていたそうだ。追手のこともあり、普段よりさらに入念だった。

 陽輪ノ国(ひわのくに)では拳銃はあるところにはあるが、誰もが容易く手に入れられる物ではない。高価な物であると同時に、国からの規制があるからだ。


「要も生で見たわけじゃないから、拳銃じゃない可能性も十分あると思う」

「そうだな。今日抜き打ちで身体検査をする……のは、もし相手がお前たちを狙っているとすると怪しまれるか」

「優や他の船員まで仲間だと疑われるかもしれない」

「だったら気づかないふりをして、少人数で密かにその男を確保しよう」


 乗船している他の者たちには気づかせないように隠密に動く。そうすれば、気づくのは確保されたその男と動いた少人数の者たちだけになる。一番現実的な解決手段だ。紫焔は頷いた。


「男を捕まえる理由はてきとうに考えておく。そうだな。商品を持ち逃げしようとしている、とでもするか」

「迷惑ばっかりかけてごめんな」


 申し訳なさに俯く紫焔を、優が静かに見下ろした。


「謝罪はもういい。何度も聞いた。どうせお前の口から聞くなら別の言葉が良い」


 謝罪以外で、この場にふさわしい別の言葉。

 紫焔は顔を上げて優と視線を交わらせた。


「ありがとう」


 優の纏う空気が和らぐ。言葉の選択は間違えなかったようだ。

 ペンだこのできた指が紫焔の黒髪に触れた。麒雲館にいた頃の染料とは違うものを使用した黒髪だ。少なくとも、あの頃より見た目は悪くない。


「最後に見るのは黒髪になりそうだな」


 ぽつりと零された優の声は浮かない調子だ。別れはすぐそこに迫ってきている。


「金は返すから。なんとかして宝生(ほうしょう)家にいくようにする」

「金?」

「俺を身請けしたお金」

「そんなこともあったな」


 まるで遠い昔のことのようだ。優が目を細める。


「かなり最近の話なんだけど」


 紫焔が苦笑すると、目の前の顔が僅かに左右に揺れた。


「紫焔が屋敷に来てから。いや、紫焔と出会ってから、とても充実した毎日だった」


 一日、一日が思い出で溢れている。

 優の言葉は過去形だ。彼が別れを意識していることが伝わってくる。


「この毎日は()()()()()代わるようなものではないが、十分返してもらったと思っている」


 とても良い話をされているような気分だ。しかし、聞き捨てならない。紫焔は咄嗟に声を上げた。


「いや! それは本当に代わりにはならないって!」


 お金はお金だ。金銭に関して曖昧なことをすれば後々大きな問題となることも多い。

 身内であっても金の貸し借りはするな────とは、紫焔の母国にも陽輪ノ国でも通じる常識である。

 大慌てで反論する紫焔に、優は相好を崩して笑い出す。


「紫焔。空気を読め」

「空気読んでる場合じゃないだろ」

「今のはしんみりと別れを惜しむところだ」

「別れの前に金を惜しむべきだ」

「存外、守銭奴なのか」

「そういう話じゃなくてさぁ……」


 話せば話すほど優の笑みが深まる。今までで一番の笑顔じゃないか? 紫焔は疑惑を抱いてじとりと優を睨んだ。


「満足だ」


 優が断言する。伸ばされた腕が背中に回り、抱擁された。


「……不満だ」


 もやもやして紫焔は思わず返した。触れている優の肩が揺れている。また笑っているらしい。随分と笑い上戸ではないか。

 熱い手のひらが紫焔を力強く抱き寄せた。肩口に優の顔が埋められる。


「そういうことにさせてくれ」


 耳元で告げられる言葉には力がない。


「そうやって自分を誤魔化さなければ、物足りないと大騒ぎしてしまいそうだ」


 優の吐露は金の話ではないのだろう。彼が金銭に執着したところを見たことがない。

 紫焔を抱き締める腕に、痛みを感じるほどに強い力が込められる。


「充実していたのも満足感があるのも嘘ではないがな」


 腕の力が緩められたのを感じ、紫焔は上体を少しだけ優から離した。目の前にある優の顔が力なく笑っている。


「優、俺は……」


 紫焔が最後まで言葉を紡ぐ前に、船内がざわめいた。

 優と顔を見合わせて扉の先へと意識を向ける。悲鳴のような声が聞こえた。大きな物音とバタバタ駆ける足音も聞こえてくる。普通ではない様子だ。

 顔を顰めた優が紫焔を離してドアノブへ手を掛けた。追いかけようとした紫焔を彼の手が止める。


「紫焔はここにいろ。様子を見てくる」

「……分かった。気をつけて」

「ああ」


 下手に動けば更なる騒ぎを引き起こしかねない。

 紫焔は飛び出していきたい衝動を抑え込んで頷いた。

 優が通路へと消えていく。船内で尋常ではない騒ぎが起こっていることは確かなようだ。悲鳴のような声は断続的に続いている。紫焔を追いかけて来た連中だろうか。そうだとすれば随分と派手な動きだ。


 あるいは、要が遭遇した怪しい人物。

 彼が紫焔たちとは無関係の、別の何かが目的で侵入していたとしたら。ここは貿易船だ。海へ出た船に現れた侵入者。考えられる可能性は────。



 ドン、と船体に衝撃が走った。

 紫焔は優の部屋の窓から外を見る。貿易船のすぐ傍、近すぎる位置で一隻の船が並走していた。一見すると普通の船だ。その船から橋がかけられ、何人もの無頼漢が貿易船へと侵入している。


 これは海賊船だ。

 今、優の貿易船は海賊に襲撃されている。状況に気づいた紫焔は駆け出し、扉に手を掛けた。制圧に協力するか、乗船している者たちを避難させるために動くか。あるいは、さらなる騒ぎの種となるうる自分たちがまずはこの船から逃げるべきか。逡巡し、二の足を踏む。

 紅蓮や要と話し合いたいがそんな時間も余裕もない。


「どうする……」


 自問する。我が身可愛さに逃げ出すのか。迷惑をかけた優の船を放り出して、背中を向けて出て行くのか。それはとても出来ない選択だった。

 優であればきっと、すぐに海上警備隊へ救援信号を出すはずだ。警備隊が到着するまでの時間稼ぎ。それくらいなら、少しくらい協力できるかもしれない。


 決意した紫焔は再び扉と向き合う。しかし、通路に出る前にこちらに向かってくる足音に気づいた。

 咄嗟に下手の隅に身を隠し、足音の主がこの部屋に侵入するのを待つ。分厚い靴底の音は三人分。間違いなくこの部屋に向かって来ている。ここはこの貿()()()()()()()、宝生優の部屋だ。頭を押さえて乗組員たちを従わせるつもりなのかもしれない。

 扉が蹴破られた。通路から中へ入って来た一人の男が、ライフル銃のようなものを手に部屋を検分する。その男の背後にもう一人、同じようにライフル銃のようなものを手にして扉近くで佇んでいた。三人目はおそらく通路だ。


 紫焔は扉の傍に身を隠し、一人目の男が部屋の中央まで移動した瞬間に動いた。扉付近にいた二人目の男の武器を掴み取って足払いをかける。異常に気づいて振り返ろうとした一人目の男を蹴り飛ばし、うつ伏せに倒して背中に乗り上げた。

 足払いをかけた二人目の男が怒りを露わに突進してくる。男の拳を躱すと、男はうつ伏せに倒した一人目の男に足を引っかけてつんのめった。その隙をついて後頭部に容赦なく一撃を見舞う。昏倒した男が一人目の男に折り重なって倒れた。

 紫焔は奪ったライフル銃のようなものを抱えて、通路に立つ三人目の男を睨む。銃口を二人の男たちに向け、脅しをかけた。


「動けば仲間を撃つ」


 通路に立っていた三人目の男は、いかにも海賊風な様相で分厚い体をしている。

 紫焔の脅しを意に介さず、自身の項を掴んで頭を傾けた。


「おっかしいな~、お前『宝生優』じゃないよなぁ? 見た目の情報と違うし」


 やはり優が狙いだったらしい。

 こちらに一歩近づいた男を牽制するため、紫焔は銃口を床に伏せる二人にさらに近づけた。


「動くな」

「撃てば? そいつらが死のうが生きようがどーでも。まぁ、そんな粗悪品で撃てればの話だがなぁ」


 粗悪品と呼んだ男が、紫焔の手にする武器を指差す。男の言葉を信じなくとも手にしたこれが正規のライフル銃とは違うことは明らかだった。歪な形で表面はひどく劣化している。中がどうなっているか見当もつかない。

 あくまで脅し目的で、見た目だけを活かすために持っていたのかもしれない。実用性は疑わしい。

 男がさらに一歩近づいた。現状、一対一だ。紫焔は目の前の男を制圧できるだろうか。相手との実力差を測るには、紫焔には実戦の経験値が足りない。頭の中で、戦闘の師匠である紅蓮の教えが響く。


 ────状況が不利な場合は、退けぬ明確な理由がない限り格好つけず逃げろ。


「撃てるかどうか、試してみようか」


 紫焔はにやりと笑って銃口を三人目の男へと向けた。近づく足を止めた男が眉の端をぴくりと動かす。男の視線が一瞬、銃口に向いた。

 身を低くして駆け出した紫焔は男の腰より下めがけて全力で突進した。転倒させるまではいかずとも、大の男の全体重をかけた突進にはさすがに耐え切れなかったのか、男の体が揺らぐ。生まれた隙間を掻い潜り、紫焔は通路へと駆け抜ける。



 ライフル銃のようなものは男にぶつかった瞬間二つにへし折れた。壊れた破片を捨てて足を止めずに通路を駆ける。紫焔は甲板ではなく客室へと引き返した。紅蓮や要がそこにいるかもしれない。二人と落ち合えれば儲けものだ。

 しかし、角を曲がった瞬間、背後から腕を掴まれた。背中に衝撃が走り、紫焔の体は容易く通路の床に弾き飛ばされた。蹴り飛ばされたのだ。身を起こすより先に肩口を分厚い靴底に踏みつけられる。

 三人目の男は紫焔よりも足が速く、力も強いようだ。


「ぐっ……」


 以前、撃ち抜かれた傷口が不幸にも踏みつけられた位置にある。痛みで思わず漏れた呻きに男が頭上から嘲笑を落とした。


「黒髪で、そこそこの身長で、宝生優の部屋にいた男。ふーん、手配書を思い出すなぁ」


 ぐっと肩を強く踏みつけられる。痛みで頭が真っ白になりかけた瞬間、分厚い手が踏みつけにされた肩とは反対の肩を掴んで無遠慮に紫焔の体をひっくり返した。

 仰向けにされた紫焔は背中を蹴られたことで圧迫されていた呼吸を一気に取り戻す。海中から顔を出した時のような感覚だった。


 男は紫焔の様子には構わず、服の襟元を掴んで引き裂く勢いで前を開く。じろりと確認されたのが何なのか、言及されずとも理解できる。紫焔の鎖骨の下。そこには薔薇のように見えなくもないが、薔薇とは似ても似つかない()()()()()()()がある。

 男が推測を確信に変えた瞬間が、紫焔には手に取るように分かった。 


「なぁるほど? 宝生家の跡取りが身請けした男に裏切られて逃げられたってのは嘘で、ほんとは密航させて逃がそうとしてたってことか」


 図らずしも、要が作り上げた設定通りだ。紫焔は場違いにも僅かに笑ってしまった。

 男は仰向けにした紫焔の体を跨いで膝を折る。見下ろしてくる男の瞳には好奇心が見えた。


「そこまで寵愛してるってことは、お前を囮にすりゃ宝生優を引き摺り出せるかね?」


 それは困る。紫焔は思考を巡らせた。これ以上迷惑をかけるのは本意ではない。さらに、目立つこともあってはならない。


「宝生優が出てきたら、俺のことは見逃してくれる?」


 縋るような目を作って男を見上げた。


「あの人、俺のこと愛してるからきっと助けに来てくれると思う」


 言葉にしてみるとやけに軽々しく感じられた。己の口から出る愛ほど重みのないものもそうはない。紫焔には自分がこの言葉を口にする資格がないように思えた。

 紫焔の上でこちらの言葉を黙って聞いていた男が、明らかに侮蔑の色を浮かべて歪んだ笑みを浮かべる。


「宝生優もとんだ間抜け野郎だ。商売男なんざ、所詮こんなもんだってのになぁ。薄情なもんよ」

「待て。本当に俺のこと大事に思ってくれてるんだ。だから俺には利用価値がある。そうだろ?」

「ねぇよ。お前に価値なんざ」


 吐き捨てた男のもとに、駆けて来る別の足音。紫焔は全身を緊張させた。なんとか打開策を見つけなければと考えている間に敵の人数が増えてしまう。

 しかし、集まって来た男たちは加勢に来たわけではなかった。呼吸を乱しながら紫焔を跨いだままの男に声をかける。


「頭ァ! なんかあっちの通路にえれぇ強ぇのがいて通れねぇそうです!」

「なんだそりゃ」

「よく分かんねぇですけど、とにかく誰も通れねぇみてぇで」


 誰も通れない程強い人間が道を塞いでいる。

 紫焔はそのとんでもなく強い人間に心当たりがあった。ぴんときて口を開く。


「それ、たぶん宝生優の用心棒だ。俺を連れてってくれよ。近くに宝生優がいるはずだから」


 じろりとこちらを見下ろす頭と呼ばれた男は冷笑だけを残して紫焔の上から退き、集まって来た仲間に指示を飛ばした。


「俺と使える銃持ってるヤツついてこい。そこに寝転がってるヤツは客連中と一緒に放っておけ。人質だ」

「ちょっと! 話が違う!」


 声を荒げて立ち去ろうとする頭の男に抗議する。しかし、男は愉快そうに紫焔を鼻で笑い飛ばすだけだ。数人の仲間を引き連れ、頭の男が別の通路に消えていく。

 その先にあるのは紫焔たちに宛がわれた客室だ。



 紫焔は残った男たちに捕らえられた。引き摺って連れて行かれたのは甲板で、一ヶ所に大勢が集められている。全員船に乗っていた客や乗組員だろう。

 どこを見ても優や要たちの姿はない。紫焔は安堵した。


 客の中に放り込まれるようにして投げ出され、紫焔は甲板に転がった。偶発的に見上げることになった空は暗い。厚い雲に覆われている。一雨きそうな天気だった。

 客や乗組員を見張っているのは四人で、四方を囲むようにして立っている。手にはライフル銃のような武器。紫焔が手にしたものと類似しているように見える。頭の男の「使える銃」発言から考えても、正規の銃を手にしているのは僅かだと思われた。たいした慰めにもならないが。



 甲板には船内から持ち出すために次々と積み荷が運び出されていく。海賊の目的は貿易船が運ぶ商品だ。人質はあくまで人質としての価値しかなく、頓着していないように見えた。

 要は要領の良い男だ。上手く海賊の目を掻い潜り、潜んでいるのかもしれない。

 紅蓮は間違いなく通路を塞いでいる「強いヤツ」だろう。目立つ行動を避けろと言っていた彼がわざとそんな大立ち回りをしている理由は一つだ。姿の見えない紫焔たちに自分の居場所を知らせるため。そして、客室には戻るなという指示。

 紅蓮の望みはきっと要も紫焔もどこかに潜伏して難を逃れることだろう。しかし、不幸なことに紫焔は海賊に捕まり、人質として乗客たちと同じ場所で見張られている。

 結果的に紫焔はまた足手纏いになってしまった。内心、ひどく落ち込んで俯く。しかし、沈んでいる場合ではない。


「あ!」


 紫焔の隣から突然声が上がった。暗い灰色の長い髪が風に揺れる。唐突に立ち上がったその女は、手を伸ばして身を乗り出した。吹き荒れた突風に攫われた紙が空に舞い上がったのだ。それを取り返そうとして女はさらに手を伸ばす。


 乗客たちは皆膝を折って甲板に座らされている。そんな状況で立ち上がれば、否が応でも海賊の目につくのは必至だった。女に向けられた銃口。あの銃が本当に撃てるものなのかどうか、あるいは撃てないものなのかどうか。どちらの確証もない。

 紫焔は咄嗟に女の服を掴んで強引に座らせた。


「あ~あ~……そんな」


 紙はひらひらと舞い上がり、到底手の届かない高さまで飛んでいく。


「座って。危ない」


 声を潜めて耳打ちする。ぐりんと上空を仰いでいた女の顔が紫焔に向いた。首が取れそうな勢いだ。大きな瞳がじっとこちらを射抜く。


「ごめんなさい」


 返って来たのは素直な謝罪だった。紫焔は「残念だったけど命には代えられない」と囁く。しかし、女は紫焔のその言葉に顔をふるふると振ることで否定を返した。


「命より大事なものだった」


 告げる声に迷いはない。そこに籠っているのは真摯な思いだけだった。

 紫焔は反省して軽く頭を下げる。


「ごめん」


 女がぽかんと目を丸くした。


「何の謝罪ですか?」

「命より大事なものを捨てさせたから」

「……そう」


 一拍置いて、女は再び紙を探すように空を仰いだ。


「変な人」


 ぽつりと呟かれた言葉に悪意はなかった。紫焔も彼女に倣うように空を仰ぐ。風に乗って浮遊していた紙が、方向転換して船の縁に落下していく。まるで何かに導かれるように、紙は手すりに引っかかってぱたぱたと音をたてた。

 駆け出そうとした女を咄嗟に制止する。大きな瞳が紫焔を睨んだ。


「謝罪しましたよね?」

「した。でも飛び出したら今度こそ撃たれるかもしれない」

「撃たれてもあの紙を取り戻したいんです」

「撃たれたら取り戻せなくなるだろ」


 危険だと分かり切っている行為を見逃せるほど紫焔は人間が出来ていない。自己満足だと分かっていても、止めずにはいられなかった。

 船が揺れる。波が荒れ始めているようだ。


 嵐の予感に紫焔は不安を抱いた。




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