第一章「陽輪ノ国から」拾肆
娼館で働いていた紫焔は上客となった宝生優に身請けされて宝生家の屋敷で暮らすことになった。しかし、平穏な日々はすぐに壊される。とある秘密を抱えた紫焔を狙い、宝生家の屋敷は襲撃された。
屋敷の人たちから襲撃犯を引き離すために逃亡した紫焔は、途中で銃撃を受けて怪我を負う。紫焔を追いかけてきた優の友人・田城によって倒れていた紫焔は助けられ、紫焔を探してやって来たかつての知人・紅蓮とも無事に再会を果たす。しかし、怪我による発熱から紫焔は気を失ってしまう。
田城の案内に従い、紅蓮は紫焔を抱えて身を隠せる宿に移動する。意識のなかった紫焔が目覚めた後、二度と会えないだろうと思っていた優が宿を訪ねて現れたのだった。
以上がこれまでのざっくりとしたあらすじと今回のお話についてです。
以下、注意書きです。
・本作品はファンタジーであり、もし実在する人物や会社等と名前が同じであったり類似していても無関係です
・勝手につくった国の名前や文化等も出てきますが完全にフィクションです。現実にある国等は本作には出てきません
・娼館についても独自設定であり、もちろんファンタジーです
当然ながら現実のものではない、空想の話であり設定であり展開となっています。
どうぞよろしくお願いします。
※無断転載、無断使用、無断編集・修正・加筆、自作発言等全て禁止
二十二.
朦朧とする意識の中、紅蓮と田城の声が遠のく。全身の骨が軋むように痛んだ。
紫焔は自身の意識が暗闇の中に引きずり込まれていくのを感じた。ぼやけた視界の中で表情を変えた紅蓮が駆け出そうとしている。崩れていく体は地面に吸い込まれていった。
次に目覚めた時、嘘のように体の熱さは消え、痛みも薄らいでいた。
紫焔はゆっくり瞬き、見知らぬ天井に内心で首を傾げる。体が動かし辛い。仕方なく、頭だけを左右に僅かに振って、現状を確かめた。
自分が横たわっている寝台の脇に、ぼさぼさになった黒髪の頭が見える。視線を上にあげて壁際を見ると、壁に背を預けて立つ紅蓮の姿があった。両腕を組んで目瞼を閉じている。眠っているようにも見えるが、おそらく眠ってはいない。
紫焔が動かない体で身じろぎすると、寝台がギシリと音をたてた。途端に紅蓮の目蓋がぱっと開く。やはり起きていたようだ。
「田城、紫焔が起きた」
隣に移動してきた紅蓮が眠っている田城を起こす。ぼさぼさの黒髪ががばりと動いた。
「ようやくお目覚めか。寝坊助だな」
起きて早々に田城に皮肉を言われる。口ではそんなことを言いながらも、彼は紫焔の額や首筋に触れて容態を診てくれた。結局彼にはずっと世話になりっぱなしだ。
寝台に横たわっている紫焔は自然と田城を見上げる形になる。いつ見てもきらきらと艶やかな様子だったはずの男が、今は目の下に隈を作っていた。疲労の滲む顔が、紫焔を見下ろして息を吐く。
「熱はほとんど下がったな。あとはゆっくり休んで栄養とって、傷口を清潔に保つ。聞いてるかよ?」
呆然と田城を見上げていた紫焔は、ペチンと額を叩かれて我に返った。
「聞いてた……」
「よーし」
田城が白い歯を見せて笑う。無邪気なその笑顔に虚を突かれた。彼もこんな顔をするのか。なんとなく、得をしたような気分だ。紫焔はつられて微笑んだ。すると目を丸くした田城が顔を歪めて紫焔の鼻を摘まんでくる。
「なぁに笑ってんだよ。呑気なヤツめ」
「呑気って……待ってくれ、俺どれくらい寝てた?」
田城の手を払って慌てて紅蓮を見る。紅蓮はもう仮面を着けていない。部屋の窓にはカーテンが引かれていて空の色は分からないが、明るいような気がする。
「二日だ」
「二日!?」
「追手は来ていない。ここは僅かな人間しか知らない隠れ宿だ。田城の口利きで部屋を借りている。少なくとも今のところは安全だ」
紅蓮は淡々と現状を説明し、紫焔の不安を潰してくれた。
「旦那ぁ~、俺ちょっと休んでいいよな? 不眠不休の看病なんざ柄じゃねぇのよ」
大きな欠伸をして紅蓮の肩を気安く叩き、田城がとぼとぼと部屋の隅へ移動する。大人二人が座っても十分に余裕がありそうな長椅子に身を投げ、田城はすぐに寝息をたて始めた。
「また助けてもらったってことか」
田城には大きな借りができた。
「恩はあるが、見逃すことはできん」
紅蓮に断言され、紫焔は苦笑する。まさか田城から「皇子」などという言葉が出てくるとは思ってもみなかった。ただでさえ田城の立場は危うい。このまま放ってはおけないことは事実だ。
紫焔は深呼吸して天井を眺めた。
宝生家の人たちは無事だろうか。優は、巻き込まれていないだろうか。最後に優の顔を見ることもできず、結局は逃亡のような形であの屋敷を去ることになった。
優は今頃、紫焔を招き入れてしまったことを後悔しているだろう。
「何を考えている?」
目聡く指摘され、紫焔は曖昧に笑った。
「別に。ところで紅蓮、田城とすっかり仲良しだな?」
「ヤツが妙に気安いだけだ」
「あー、なんか想像つくよ。二人の会話」
想像すると可笑しくなる。
淡々と話す紅蓮に絡む田城。く、と零れた笑みの反動で傷口が痛んだ。眉を顰めた紫焔に気づいたのだろう。紅蓮が一瞬、心配そうに顔を歪めた。
「紅蓮さん、ちょっとお願いがあるんですけど」
「何だ」
「喉渇いたなぁって。あとお腹も減った」
分かりやすい催促に、紅蓮がちらりと背後の長椅子で眠る田城を見る。二日間、二人で過ごしても彼への警戒心は消えていない証拠だった。
「田城は寝てるから大丈夫だ」
「……何かあれば声を出せ」
渋々、紅蓮が部屋を出て行く。室内には田城の僅かな寝息と窓を叩く風の音だけが聞こえていた。
たっぷりと眠った田城が目を覚ましたのは夜になってからである。唐突にガバリと跳ね起き、腹が減ったと声を上げた。重湯に口をつけていた紫焔は驚いて噎せ、紅蓮は田城の宣言を無視した。
宿の主から食事をもらって部屋に戻って来た田城が、パンをちぎって頬張っている。彼は寝台の上で起き上がっている紫焔の体を診てくれた。
「もう上体起こせんのかよ。テメェもなんだかんだ体力オバケだな」
「田城は繊細だな」
「誰が繊細だ。俺様に感謝しろよお前」
「感謝してる。心の底から。ありがとう、田城」
パンを飲み込んだ田城が、寝台に腰かけて膝を叩いた。
「だったら! 俺を無罪放免にしろよな」
「無罪も何も……」
「だーかーら、口封じなんか御免だって言ってんだよ。俺はお前の命を助けた。だからお前も俺の命を助けろ。これは正当な取引だ」
紫焔は頷いて納得した。田城の言っていることは正しい。
「紅蓮、どうだ? ここは田城を見逃すってことで」
「そーだそーだ。そうしろ」
腕を組んでいた紅蓮は息を吐いて首を振った。
「何度も言っている通りだ。俺たちがお前を見逃しても、追手がお前を殺しに来る」
「その追手とやらが俺の存在を知ってる根拠は? 俺がコイツの秘密を知ってるなんて誰にもバレてねぇし」
主張しながらどかりとソファーに腰かけ、足を組んだ田城が双肩を竦める。しかし、田城の言い分を紅蓮は受け入れなかった。彼は指を二本たてて田城の前に立つ。
「二人、お前は手をかけた。誰にも見られていないと思ったか? 見られている。お前の家の周囲は今頃見張られてるだろう」
「……証拠がなけりゃ信じられないね」
「信じる必要はない。自宅へ戻れば命はない。それだけだ」
無慈悲な断言だ。紫焔は制止するタイミングを窺ったが、田城も紅蓮も一歩も引こうとせずこちらを見向きもしない。これでは埒が明かない。
このピリピリとした空気を打破する方法はないだろうか。身動きの難しい今の体を紫焔は面倒に思った。しかし、空気はすぐに変わることになった。
部屋の扉を叩く音が聞こえたからだ。敵に発見されたのか、と別の緊張が一瞬で三人の間に生まれる。しかし、扉を叩く音は、少し奇妙だった。
三回一切の間を置かずに叩かれ、一拍置いて二回間を置かず叩かれる。そしてさらに一拍置いて三回間を置かずに叩かれた。まるで、何かの合図だ。
反応したのは座っていた田城だった。扉の前まで歩み寄り、応えるように二回、三回、二回の感覚で扉を叩き返す。そして、田城が鍵を外すと廊下側から扉が開かれた。
室内に入って来た男の姿を見て、紫焔は喉が詰まるような感覚を覚えた。
「やっぱりここにいたか」
「よぉ、優」
身を隠すような外套を脱いで、宝生優はつかつかと足を進める。寝台にいる紫焔を見て速度を上げた。不思議なことに、優の顔を見ると紫焔はとても懐かしい気持ちになった。それほど長い時間が過ぎたわけでもないというのに。
優は無表情にも見える表情を僅かに揺らして、寝台の横に膝をついた。伸ばされた手を拒む気にはなれない。
紫焔は頭を抱えるように抱き締められて、優の背に片手を置いた。
「無事で良かった」
「……優も」
「知らせが届いて。田城の従者からだった。家に戻ったら酷い有様だった」
淡々とした口調で語る優は、しかし、その声とは裏腹に紫焔の頭を抱える手が震えている。それほどに、恐ろしい光景を目にしたのだろう。
「ごめん。俺が……」
もっと早く行動を起こしていれば。銀髪を晒すようなヘマをしなければ。やはり、後悔というものはいつだって先には立たない。紫焔は目蓋を閉じて優の肩に顔を伏せた。
「お前がどこにもいなくて、血の気が引いた」
「ごめん……、宝生の屋敷にいた人たちは、どうなった?」
「七人が重軽傷だ。なんとか一命をとりとめている」
紫焔は優の背に回した手に力を込める。紫焔が呼びこんでしまった理不尽で、命が奪われてしまうところだった。奪われてしまえばそれはもう二度と、戻ることがない。たとえどれほど切望しようとも。
「ちょっと待った!」
突然部屋に響いたのは田城の叫び声だ。驚いて目蓋を開けると、扉の近くで田城に刃を向けている紅蓮がいる。
「えっ、紅蓮何事だ」
離れない優を突っぱねるようにして上半身を傾け、田城と紅蓮に顔を向けた。紫焔の問いに紅蓮は背を向けたまま答える。
「その男、どうやってここを知った? こいつが手引きしたに違いない」
「ちょいと紅蓮の旦那はさぁ……、直情的すぎねぇ?」
「そう思うか? では直情的に首を刎ねよう」
「お前の男を止めろ紫焔!」
お前の男───?
紫焔は思わず立ち上がろうと全身に力を込めて、寝台の上で崩れ落ちた。足の筋肉がすっかり落ちてしまっている。少し寝こけていただけでこれだ。人間の体は複雑である。紫焔はそんなことを考えて一瞬、現実から逃避した。
しかし、すぐに我に返る。人体の不思議はともかく、すぐに体勢を立て直さなければ。崩れ落ちた紫焔を咄嗟に支えたのは傍にいた優だった。こちらの騒動に気づいてようやく振り返った紅蓮が鋭い眼光を見せる。
「完治もしていないのに無駄に動くな」
「ごめん。というか田城! 紅蓮は俺のお、男じゃない、し……。でも紅蓮もすぐ田城を斬ろうとするのはやめてくれ」
「えーでも優が横取りしなけりゃこの旦那が紫焔を身請けしてたんだろ?」
わざとらしく状況を説明する田城には、一体どんな思惑があるのか。紫焔は不穏な気配を感じて優と紅蓮を交互に見た。
「何を言おうが好きにすればいいが、どちらにせよお前の寿命はたいして変わらん」
「……あんた、堅物って言われねぇ?」
「他者の評価に覚えはない」
「あー……、紫焔、お前の男ってお前を守る人型兵器か何か?」
田城は阿保らしいとでも言わんばかりの表情になって溜息を吐いた。
「だから俺の男じゃない……ってそんなことより、俺も聞きたい。どうして優はここが分かったんだ?」
「腐れ縁だ。田城がこそこそ行動したい時に利用する宿といったらここだ。屋敷が襲撃されて、その報告を田城の従者が持ってきたのに本人は行方不明。巻き込まれたと考えるのが自然だ。だから探しに来た」
優の説明に「そういうこと」と田城が付け加える。だから田城は手引きはしていないし、情報を漏らしてもいない。
優はまだ、銀髪を探す者たちによって襲撃されたことしか知らないのだろう。
「とりあえず俺、家帰っていい? いいかげん野郎の顔ばっかで見飽きたし」
「それはやめておいた方が良い。田城、お前の屋敷は見張られてる」
優がさらりと告げた。
「うっそだろ……」
「これで逃げ場はなくなった」
「うるせぇぞ直情型戦闘狂」
「何だそれは」
やけくそのように紅蓮に絡みだした田城が威嚇するように唸った。
「だってあんた戦いの気分転換に戦いでもしてそうな猛者じゃん。優が仕事の息抜きに仕事するみてぇな感じで。はぁぁ、つーか俺本気でもうどこへも行けねぇじゃん……」
田城は紅蓮の実力を褒めているのか貶しているのか、よく分からないことを言って頭を抱えている。とばっちりを受けた優は不審そうな目で紅蓮を睨んでいた。
紫焔は三人の顔をそれぞれ見て、不思議な集いになったものだと再び現実逃避する。
世間的に見ればここにいる全員がそれなりの図体の大きさと言えるだろう。内二人は身なりが良く、一人は元男娼で、もう一人は明らかに一般人ではない威圧感のある体格だ。
「田城まで巻き込まれているのはどうしてだ? 私が巻き込まれるのは分かる。紫焔を身請けしたからな。だが田城は」
「田城は俺を助けるために襲撃犯を斬ったらしくて……それで追われてるんだと思う」
紫焔の説明では納得しきれなかったのか、優は眉を寄せている。しかし、詳しく説明すれば紫焔のことを伝えることになってしまう。秘密を知れば、優の立場も危うく成り得るのだ。
「田城」
「なんだよ」
「お前、何か知ったな?」
「さぁな」
「教えろ」
「俺に聞くなよ。紫焔に聞け」
優と田城が顔を見合わせて会話の応酬を始めた。のらりくらりと田城は優の追及を躱している。何だかんだ言っても、やはり田城は友達思いだ。紫焔はうっかり笑みを零した。
「紫焔! 何呑気に笑ってんだっての。そもそも全部テメェのせいだろ」
目聡く田城に気づかれ吐き捨てられる。田城は視野が広い。知識の幅も広く、医療の心得もある。紫焔は妥協案を思いついて声を上げた。
「田城」
呼びかけに田城が反応する。
「俺たちと来ないか?」
紅蓮は田城から情報が洩れることを防ぎたい。田城は殺されたくない。二つの意見から最も譲れない点のみを考慮しての妥協案。紫焔の提案に、田城が顔を勢いよく歪めた。
「はぁぁぁ? 嫌だけど?」
「でもこのままだと、本当に命を狙われる」
「馬鹿かお前。俺は今、ここで! 命を狙われてんだよ」
「そうだ。ここでこいつは始末すべきだ」
「ほら!」
「それは田城の口から俺のことが漏れるのを警戒してるからだろ? だったら一緒に行動して見張ればいい」
見張る、はただの口実だ。紅蓮を納得させるための体裁である。
「それで田城はここを無事脱出できても追手に狙われる。だから俺たちと一緒に行動して、田城のことを紅蓮が守ってくれればいい」
名案だ。紫焔は笑みを浮かべた。紅蓮も田城も苦い顔をしているが。しかし、紫焔の提案に待ったをかけたのは、それまで静観していた優だった。紫焔の手を掴んだ彼は少々不穏な空気を纏っている。
「そちらだけで勝手に話を進めるな。そもそも、何で田城だけなんだ」
「え、それは田城が追手に知られたからで……」
説明途中で優の視線が険しくなった。何か怒っているようだが、何が彼の怒りに触れたのか分からない。
「だから、えーと」
「紫焔。そいつが言いたいの、たぶん『何で私のことを誘わないんだ』だと思うぜ」
助け船を出してくれたのは友人の田城だった。さすがは長い付き合いだ。紫焔は優と向き合って再び口を開く。
「田城はもう引き返せない……でも、優はまだ俺のことを知らなかったことにできる。買った男が騒動に巻き込まれて、勝手に逃亡したってだけだ。そうだろ?」
「追手とやらも、そうやって優しい解釈をしてくれるのか? 本当に?」
「───それは、まだ分からないけど」
紫焔の手を掴む優の手の力が増す。
「だから、私も連れて行け」
優の目は真剣だった。そこに不安や迷いはない。困惑しながらも彼の希望に首を振る。
紫焔は彼を巻き込みたくない。すでに多くの負傷者を出してしまったのだ。これ以上、無関係の者が理不尽に傷つくのは御免だった。
「できない」
「紫焔」
「優は俺のことを忘れて、今まで通り生きてくれ」
ぐっと、痛みを感じるほどに強く手を掴まれる。
「……紫焔、お前は勘違いをしている」
そう言って、優は立ち上がった。必然的に紫焔は彼を見上げ、彼はこちらを見下ろす。部屋の照明が逆光になって、優の表情に影が落ちた。
「お前は私の所有物だ。お前の意思は必要ない」
麒雲館に縛られることはないと、身請け話を持ち掛けてきた男の言葉とは思えない。優があえてそのような言い方を選んでいることが分かる。紫焔が逆らえない理由を作っているのだ。
現状、紫焔の身柄は優が金で買っている。彼の許可なくどこかへ行くことはできない。それをすれば契約不履行だ。
「不器用だねぇ優は。頭カッチコチ。お、てことは紅蓮の旦那と良い勝負だな。そういうヤツを引き寄せる花粉でもつけてんの? 紫焔は」
「さっきからふざけたことを言っているが、俺は紫焔をあそこから連れ出す必要があった。その手段が身請けだっただけで、それ以外の意図はない」
「そうかよ……。でもそれって本当に本心かねぇ?」
ぼそりと呟いた田城は、こっそりポケットの中をまさぐっていた。
「でもよぉ、優。俺はお気楽な三男坊だからまぁいいが、お前は嫡男だろ。家のこと放っては行けねぇだろうが。ただでさえ仕事人間のくせに」
田城の指摘が堪えたのか、優が動きを止める。優は生真面目だ。仕事や家を放棄して身勝手な振る舞いをすることなど論外である。しかし、紫焔とともに行くと言ってくれる。どちらも選びきれないのだろう。葛藤が見えて、紫焔は唇を引き結んだ。
話し合いが膠着したところで再び部屋の扉が叩かれた。すぐに宿の主の声が聞こえてくる。
田城が手を軽く上げて、自分が出ることを周囲に示した。扉を半分に満たない幅だけ開け、室内が見えないように体で壁を作りながら宿の主と何かを話している。会話はすぐに終わった。
扉を閉めて室内に戻って来た田城は、渋い顔をして顎に手を置く。
「やべぇことになったぞ」
「どうした?」
「俺とお前を探してる連中がこの辺りまで来たらしい」
俺で自分を指し、お前で紫焔が示される。雑木林に落ちたことは追手も分かっているのだ。遺体も何も出なければどこかへ移動したことはいずれ気づかれる。元々、見つかるのは時間の問題だった。
いよいよじっとはしていられない。紫焔は咄嗟に紅蓮を見た。紅蓮もこちらに視線を寄越している。互いにやることは分かっている。すぐに移動すべきだ。
「問答は後だ」
端的に告げて、紅蓮が荷物をまとめた。
「私も行く」
「お前ね……」
「一旦は、の話だ。とにかく、ここには留まれないのだろう?」
「はいはい。分かったよ。頭巾被って顔は隠しとけよ」
田城が優の脱いだ外套を手に取って差し出している。
仮面を着け直した紅蓮がいつの間にか紫焔の傍に来ていた。背中を向けられ、紫焔は致し方なくその背に身を預ける。
遠い昔に、この背に背負われた記憶が甦った。
あの頃と比べると、紫焔は背も高くなり筋肉もついた。紅蓮はさらに鍛え抜かれた体になり、相当な重さだろう紫焔───大人の男───の体重を危な気なく支えている。
すっかり頼りになる男へと成長した。昔から、頼りになる男ではあったけれど。自分ばかりが成長できていないような気さえして、紫焔は内心で面白くない心地になる。
はぁと小さく息を吐いて、紫焔は今更首元の違和感に気づいた。ひやりと心臓が冷える。動き出そうとした紅蓮の首に回した手が強張った。それを紅蓮が見逃してくれるはずもなく、目の前の後頭部が揺れて紅蓮の横顔がのぞく。
「どうした」
「……いや……」
なぜ、今の今まで気づかなかったのか。紫焔は己の迂闊さを恨んだ。きっと気が抜けていたのだ。優の優しさに触れ、調子にでも乗っていたのかもしれない。
自分が何のために今まで生きてきたのか。それを忘れでもしたのか。ありえない。
紫焔は腕だけでなく顔面も強張り、二の句を告げないでいた。胸に引っかかったことを伝えても、今はそれを解決できる状況にない。こんなにも切迫している状況で、我儘を言うわけにはいかなかった。
「紫焔」
「何でもない」
「今言わなければ、もう戻れないが。それでいいのか」
紅蓮との会話を聞きつけた優と田城が近づいて来る。
「ごちゃごちゃ何言ってんだ?」
田城に何と答えるか考えながら、紫焔の手は無意識に首元を撫でていた。
「あ」
田城がはっとしたような顔で声を漏らす。
「もしかして探しもんか? それなら俺、雑木林の中で拾ってたわ」
訳知り顔になった田城がポケットをごそごそと漁り出す。紫焔は思わず声を上げた。
「わぁぁぁ!! ちょっと待った!」
「うっせ、何!?」
「ペンダント? 拾ってくれてたんだな。ありがとう」
「ああ、そうそれ。色気のねぇ写」
「分かった! 間違いなく俺の探してる物だそれ! 後で! 後で返してもらっていいか?」
「挙動不審すぎだろ。何なんだよ気色悪ぃ……じゃあ後で返すよ。うっせぇから」
「ありがとう!」
紫焔は感謝で会話を終わらせ、目の前の背中を軽く叩いた。
「解決!」
紅蓮は剣呑な目つきで背負った紫焔を横目に見ている。紫焔は気づかないふりをして「行こう」と急かした。紅蓮が小さく溜息を吐く。しかし、問い詰めてくることはなく、移動を始めた。
田城には後でもう一度しっかり礼を伝えておかなければ。二度と失くさないように今度はしっかり肌身離さず持っておこう。
紫焔は決意して、ロケットペンダントを失わずに済んだことに心から安堵した。
次回は優視点の予定です。




