結婚式前①~アリアのお出かけ~
「エデル、今日から10日ほど家を空ける。留守の間は何かあればセバスを頼れ」
親子3人揃って朝食を食べていたら、突然アリアがそんなことを言い出した。
「お仕事ですか?気をつけて行って来て下さいね」
辺境伯としてアリアは忙しい日々を送っている。
結婚式をやることが決まって、昨日、散々デザイナーさんたちにいじくり回されてまだ何となく疲れているエデルと違い、アリアはいつも通りだ。
「ああ。鉱山の視察に行くのだが、最近、盗賊が出るらしくてな。ついでに殲滅してくる」
……盗賊の殲滅はついでなんだ……。
普通は盗賊の殲滅を第一目標にして、視察の方がついでのような気もするが、アリアがそう言うのなら目的の第一は鉱山なのだろう。盗賊の方は相手にされていない。
「本当ならお前たちも連れて行ってやりたいが、盗賊共が神出鬼没らしくてな。動き回ることになるだろうから、落ち着いたら一緒に行こう。ハルテ鉱山はうちの領内でも屈指の宝石の産出地だ。安全を確保しなければ商人たちが来なくなるからな」
宝石鉱山であるハルテ鉱山の産出場の警備は厳しいので、盗賊たちはその宝石の取引場である近くの町に出入りする商人たちを狙ってあちらこちらに出没しているらしい。幸いまだ死者は出ていないが、お金や宝石を盗られたという報告は来ているので、早い内に取り締まらないと盗賊共が調子にのる。
「民の安全を守るのは我らの仕事だ。クロノス、お前もいずれ軍を率いることになる。今はまだ無理をする必要はないが、武器の扱い方、戦略などもしっかりと学んでおいてくれ」
「はい」
息子―クロノスにアリアは笑顔を向けた。
クロノスという名はアリアが付けた。
生みの母親からは「クロ」と呼ばれていたのだが、アリアが「アレは息子の名さえまともに付けられないのか」と言って怒り、「クロノス」という名を付けて正式に息子として引き取った。
ただ、まだ本人は状況についていけていない様子でぎこちなさが抜けきれない。
それもそうだろう。
成人していて―というかエデルの方がアリアより年上だ―旅の吟遊詩人として世間にもまれて生きてきた自分と違い、クロノスはまだ子供だ。
母親と2人で暮らしていたのにある日、急に血の繋がらない父親が出来て、さらに母親が自分を置いていなくなり、気が付いたら貴族の跡取り息子になっていたのだ。
そんな状況、ついていけなくて当然だ。
それでも新たな母となったアリアはクロノスのことを気遣い、会えば必ず話しかけているし、家にいる時はこうして食事を一緒にとっている。
「……あの……」
「うん?どうした?」
「あ……気をつけて……お、おか……」
がんばれ、クロノス!もう少しだ。あと「あさま」で「お母様」の完成だ!
エデルは内心で一生懸命クロノスを応援していた。初めて会った時以来、言えていない「お母様」という呼びかけに息子は挑戦しようとしている。
「ふふ、クロノス、何事も無理はしなくて良いのだ。お母様と親しく呼びかけて欲しいのは私の願いだが、お前のペースで良い。お前が私のことを自然にそう呼んでくれる日まで気長に待つさ。お前が心配してくれているのは十分に伝わったからな」
どうしてもまだ口に出せない息子にアリアは笑顔で応えた。
「さて、では私は仕度をしてくるよ。午前中には出るから2人とも体調などに気をつけて過ごしてくれ」
食事を終え、部屋を出る前に一度だけクロノスの頭をぽんっと触ってアリアは去って行った。
「お母様」と言おうと思っていても言えない息子の頭をエデルも撫でた。
「アリアさんは分かってくれているよ。クロノスの心が落ち着くのを待ってくれてるんだ。大丈夫、いつかちゃんと呼べるから。クロノスが今だ、と思うタイミングで呼べばいいよ」
「……はい」
ここでの生活に慣れるのに必死で心がうまくついていっていない。アリアにもエデルにもそれが分かっているからクロノスに無理強いはさせていない。家庭教師もクロノスがもう少し落ち着いてから、と思っていたのだが、本人が何かしらをしていた方が気が紛れるのか学びたいと言ったのでアリアが急いで手配してくれた。
「アリアさんが出かける時には一緒に見送りに行こう」
「…はい…」
小さな声で頷いた息子の頭をエデルはもう一度撫でた。
盗賊の殲滅も兼ねての視察なので当然、軍も一緒に連れて行く。今回は第二軍から精鋭を連れて行くことになっている。
仕度と言っても普通の貴族の女性のようにドレスだの何だのを積み込んだ馬車で行くわけではない。当然ながらアリアも軍馬に乗って行く。
「アリアさん、本当に気をつけて下さいね。変なお水とか飲んだらダメですよ。お腹壊しますから」
「ふ、まるで私の母のような忠告だな。だが、気をつけよう。新婚なのにエデルを寡夫にするつもりはないしな」
「はい。俺たちは城でしっかり待っていますから」
「ああ、仕事を済ませたらすぐに帰ってくる」
この夫婦を見ている周囲の人間が何となく見てはいけないものを見てしまった気分になったのだが、これでいてまだ白い結婚だというのが信じられない。
ちなみに、エデルと一緒に酒場に行っていた騎士の1人が本当に何もないのか聞いてみたところ、「俺、襲われてないから」と言っていたらしく、うちのご当主様が襲う方なんだ、と妙に納得したという報告が上がってきた。その報告書はもはや伝説的なものとして保存してあるという噂だ。
「クロノス、お土産は何が欲しい?」
一緒に見送りに来ていたクロノスにアリアが聞くと、クロノスはおずおずとアリアを見た。
「……絶対、帰ってきてくれますよね?」
「うん?もちろんだ。エデルとクロノスがいる場所が私の帰る場所だからな」
「置いていかれるのは、もう嫌なんです……」
エデルから聞いた限りだと、クロノスの母のミレーヌは酒場で働いていたせいか、度々クロノスを置いてどこかに行っていたらしい。いつまでも帰って来ない母をじっと待っているだけだったクロノスを近所の者たちが面倒を見ていたのだという。
今日は帰って来るのか、それとも帰って来ないのか。何も言わずにふらっといなくなるミレーヌ。いつ捨てられるのか分からない恐怖を味わってきたクロノス。
エデルが一緒に住むようになってクロノスは徐々に本来の明るさを取り戻していったらしいが、ここにきて本格的に捨てられた、という思いがクロノスの心に影を落とし、やっと取り戻したはずの明るさも消し去っている。
「置いていかない。約束しよう、クロノス。帰ってくるまでお父様を頼んだぞ」
アリアはクロノスをぎゅっと抱きしめた。
急に抱きしめられてどうしていいのか戸惑ったようだったが、クロノスはゆっくりとアリアの背にその小さな手を伸ばして抱きしめ返した。
「……行ってらっしゃい、お母様」
アリアにだけ聞こえるように小さな声で「お母様」と呼ばれて、アリアは微笑んだ。
「ああ、行ってくるよ」
恥ずかしかったのか赤くなった息子の顔は見なかったふりをして、アリアはクロノスの背を押してエデルに渡した。
「出発するぞ」
家族に見せていたのではない、きりっとした顔で馬に乗ると、アリアは軍を率いて出発して行った。
「可愛らしい息子さんですね」
「当たり前だ。私の息子だぞ。今まではろくでもない身内しかいなかったが、家族とは良いものだな」
「はは、お嬢からそんな言葉を聞くとは思いませんでしたよ。お嬢が急に結婚したときは何の陰謀かと思いましたが、あの2人のおかげでお嬢にも人並みの感情が宿ったのかと思うと感無量です」
話しかけてきたのは第二軍を預かる軍団長だ。先代の時からずっと仕えていてくれるアリアの師匠の1人。当主の座を引き継いだ今でもアリアのことを「お嬢」と呼ぶ数少ない人物の1人だ。
昔からアリアのことを、そしてアリアのろくでもない父と妹を見てきたので、アリアにまともな家庭が築けるのかと心配していたが、その心配も杞憂で終わったことにほっとしていた。……思っていた家族とは大分違う気がしなくもないが、うちはうち、よそはよそ、の精神で見守ることにした。最終的にアリアとエデル、そして息子のクロノスが幸せなら何でも良い。
「大げさな。まるで今まで私に感情がなかったみたいではないか」
「似たようなものでしょう。お嬢のそれはただ表面を取り繕っていただけのものでしたから。今の顔の方が人間味があって好きですよ」
「そうか。自分では気付かなかったが……だが、今の方が気分は良い」
「そのようですな。ではご夫君とご子息の為にもさっさと仕事を終わらせて帰りましょう」
まだ出発したばかりだが、すでに帰る話をするとは何事か、と叱った方が良いのかもしれないが、アリアも内心ではエデルとクロノスに対するお土産を何にしようか、と帰りのことしか考えていなかったので「そうだな」と言うだけに留めた。