雨に濡れる想い
先生が重々しそうな鉄の扉を壁にあった握りこぶしほどのボタンを押して開ける。
ビィーっと音がなるとゴゴゴと音を立てながらゆっくり扉が内側に向けて開いていく。
先生は静かに前を向いたままゆっくり歩き始める。
その場所は8畳ほどの大きさで赤いライトが不気味に部屋を照らしている。
いたるところに手や顔のような形をしたパーツがぶら下がっている。
また横幅が1mほどの大きな鉄の容器には砂のような物体が積みあがって山を作っている。
この男の言う話が本当なら、私はこの男の"娘"の魂が宿った砂糖の塊だということになる。
私は入り口で呆然としながら先生が何かを整頓しているのを見る。
「先生、つまり私の体は・・・砂糖でできているということなの・・・?」
先生が手を止めてこちらをゆっくり向く。
「そうだよ。君は僕が作った砂糖人形だ。」
少しこちらに速足で歩み寄りながら続ける。
「でも君はただの人形じゃあない。"知性"がある。人でなくても人間になれるんだ。やっとここまでたどり着いたんだ。僕の研究は間違っちゃいなかった!回数を重ねることに君は人間としての人格を備えていったんだ!!」
「それじゃあアナタの話にあった娘さんの魂というのは・・・。」
「そう、君の中にある。だがどうしても僕の娘の記憶だけは再現できなかった・・・。でもそれは問題じゃあないんだ!僕は娘に幸せになって欲しかったんだ。君にその願いを託しているんだよ!!!」
私は理解する。自分の正体を。娘の魂が自分という肉体の檻に捕らわれ続けているという事実を。
つまりこの男は娘の魂を自分のエゴで手放していないということなのだ。
そして、自分に過去なんてなかったのだと思い知る。絶望する。
私に救いなんてない。
私に光なんてない。
私にできることはない。
ここで私はあの日記のことを思い出す。
クロエという名前で書かれていたあの日記。
逃げられるのか?それはわからない。
逃げた先でどんな困難が待ち受けてるか想像もつかない。
だけど今、こうして男の知識の慰み者になるよりかはいくらかマシだ。
男は言う。
「念のため言っておくが、君がここからいなくなろうが僕は君たちをつくり続ける。これは僕が天から与えられた使命なんだ。僕の心がそうしろと言っているからね。」
それはこれから先も自分のような、"知識の犠牲者"が増えるということになるということ。
しかし、日記という手段で救いの手を差し伸べることができる。
自由になるという願いを繋ぐことはできる。
「先生、私はここを出るわ。残念だけど他人のエゴにまで付き合ってられない。だけど今まで私にしてくれた様々な戯れには感謝しているわ。ありがとう。さよなら。」
クロエは走りだす。屋敷の扉を両の手で開ける。真っ暗な道を進む。
そして外の世界で未来を創る。
エゴにまみれた世界で捕らわれるわけにはいかない。
外の世界には闇と雨が広がっている。
クロエは走る。水たまりを蹴ると水が合わせてダンスを踊る。
クロエは走る。髪が距離に比例して雨に濡れていく。
クロエは走る。ふと足取りが遅くなっているのに気づく。
クロエは走る。何かのはずみに重心を失い倒れる。
そしてクロエは気づく、左足が崩れ落ちていることに。
足には無数のヒビが入り、なんとかつなぎとめている右足ももうすこしでバラバラになりそうだった。
それでも少しでも前に進みたかった。疲れ果てた腕をつかって地面を這う。
男の声がする。聞き馴染んだ声だ。しかしあの男はこの場にはいない。
その場にないはずの音が空から降る。
あぁクロエ、君の魔法は溶けてしまった。その体とともに崩れ落ちていくんだ。
君の意識はもうじき消える。君という存在が消える。人が人でいられるのは同一の意識を持っているからだ。だけど君は消える。この暗闇に意識が薄れて、この雨の中に体は溶ける。
さようならクロエ。72人目の可憐で儚い犠牲者。
翌朝は白と青が不規則に並んだ綺麗な空になった。
一人の人形がいなくなったことに涙をこぼす者はいなかった。
昨夜に濡れた様々な植物たちが雫をこぼしていた。
誰にも看取られなかったその魂を想い、大地が雫をこぼしていた。
そして少女は起き上がる。
ここはどこだろう。自分が何者であるか思い出せない。
窓にはカーテンがかけられ、お菓子をこぼしたらかなりめんどくさくなりそうなフワフワの絨毯が部屋の真ん中に鎮座している。中世の貴族が好みそうなバラの刺さった花瓶やエレガントな白を基調としたベッド。化粧台の引き出しには黄金色の取っ手がついているが少し錆びれている。過去何度も読まれたような色の変色した本が並ぶ本棚もある。
しばらく自分が何者であるかを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
ガチャリと開いた扉に合わせて男が入ってくる。
髭を生やして、白衣の内側にシャツとネクタイ、茶色のセーターが見えていて、私に気分はどうかなんて聞いてきた。
その男は少し微笑みながら話す。
「おはようクロエ、気分はどうだい?」
あぁ・・・クロエちゃんが・・・。
なんでや!