祝福と呪い
彼が来た。
待っているのではなく迎えに来た。覚悟なんて1ミリも出来ていない。
だが彼は来てしまった。これから寿命を終える老人の傍らにすり寄る死神のように。
「先・・・生?」
「クロエ、大丈夫かい?今日僕の作業室を見せる約束だったね。迎えに来たよ。」
ドア越しに彼の声が聞こえる。
でもこの声が彼の声を真似た悪魔なんじゃないかと錯覚する。
決して開けてはいけないドア。二度と帰ってはこれない黄泉の道・・・。
しかし彼は、そんなことはお構いなしに、着替え中でなければ開けるよといいながらドアを開ける。
ギィィ・・・。
日記はすぐさま隠したが、焦りの顔までは取り繕えない。
「どうしたんだい?顔色がよくないね。作業室はまた明日にしようか?」
彼の顔を見ると、恐怖の中にいた心が少しだけ救われる。
本気で心配そうな顔を見ると、今までの恐怖がただの徒労だったかのように軽くなる。
「いいの先生。今日、行くわ。」
こうなってしまってからもう一日恐怖に怯えるのはこりごりだ。
予防注射を待つ時間のように気が気でない間があるよりかは、今日真実を目にしてしまった方がよいだろう。先生の顔を見て安心しているうちに終わらせてしまいたい。
先生の腕を片手でつまみながら暗く冷たい廊下を歩く。
少し歩くと先生が物悲しげな笑顔で口を開いた。
「クロエ、本日最後のお話をしよう。」
「ここでするの?」
「まぁ作業室までにいくまでさ。」
そういうと彼の目はどこか遠くを見つめながら話を始めた。
これは、ある一人の退役した兵士の話だ。
その兵士は軍医で、先の大戦では前線で負傷した兵士の治療にあたっていた。
日常では症状が重い患者から面倒を見るだろう?だけど戦場では違う。僕ら兵士はその場に転がっていた機関銃と同じなんだ。使える者から直して使う。軽症の者から治して送り出す。そういうことを繰り返していたんだ。その時ある電報が届いた。本土からだった。
その兵士の家族が亡くなった。そういう知らせだった。
たった一人残してきた娘が病でなくなったのだ。脚気だったそうだ。
彼は、「愛」を失った。
せめて自分がその場にいれば何かできたかもしれないのに。
せめて自分が何か処置をして、それでもだめならきっぱりと家族を諦めることができたかもしれないのに。
彼は、深く絶望したんだ。
そして前線から帰還して、地元に戻った。
誰も自分を愛してくれる人はいないのに、ぬけがらのようになった男は自分の家に帰ったんだ。
その道すがら、妙な神社に迷い込んだ。無心で歩いているうちに迷ってしまったようだが、どこか不自然に存在する神社だったんだ。神社を探索すると、古ぼけた祠を見つけた。その祠に妙に惹かれた男はつい中にあった位牌を触ってしまったんだ。
その時彼は"呪い"にかかった。
いや、祝福といってもいいのかもしれない。
あとで調べると、その呪いは「御霊返し」という降霊術の一種だということがわかった。
その時は何事もないようだと感じたが、家に着いてお茶をいれたときに異変に気付いた。
砂糖が動いている。
意志を持った生物のようにクネクネと動いていたんだ。
そして調べていくうちに、その砂糖には娘の魂が宿っていることに気づいた。
最初は小さな砂糖の塊だったものに、腕や足、顔といったものをつけていったんだ。
すると、その砂糖人形はそのうち"自我"を持った。
自我を持ったその意識体は、知識を得ていった。
だけど体が砂糖でできているためか、降霊術が完璧でないからなのか、長く生きることはできなかったんだ。
僕はそうしてからずっと実験を繰り返しているんだ。
愛と知識にまみれながら、少しでも彼女の魂を生き延びさせるために。
さぁ、着いたよ。
ここが僕の作業場だ。