低く飛ぶ鳶
狂気・・・ね。
自分ではもう、どこまでが狂気で、どこまでが愛情なのかわからなくなっている。
ただのエゴだということも理解はしている。けど、幸せになって欲しいという気持ちは本当なのだ。
視線を絨毯に落としながらクロエから目を逸らす。話の中にも出てきた等身大の鏡を見つめる。そこには自分だけが映っている。
「そうだな、クロエ。なら最後の話をしよう。今日の夜は雨が降るからね。寝る前に地下の作業場に来るといい。」
「地下の・・・というのはいつも私が入ってはいけないと言われていたあの部屋のこと?」
この屋敷の裏手にある石造りの地下へ進む階段を下りると、僕の医者としてではない大切な作業をする場所がある。いつも通りそこを見て彼女に決めてもらおう。僕の愛情が狂気でないか否か。
「そうだよ。そろそろ君が見てもいいころだと思うんだ。楽しみにしていてくれ。」
先生はそう言うとどこか悲しげなその顔に笑顔を作って見せた。
太陽がちょうど丘から見える遠くの山々に消えて、夜が顔を覗かせようとしていた。
私はどうしても確かめたかった。彼の正体を。私の過去を。
だけどこの時は、その答えを知ってはいけないような気がしていた。超えてはいけない危ない橋を渡って彼岸へと足を踏み入れてしまいそうな、入ったら二度と帰ってこれない大穴に重力に任せて落ちていくような、そんな気分だった。
食事を終えてから、自室で読書の時間を過ごす。
窓にはカーテンがかけられ、お菓子をこぼしたらかなりめんどくさくなりそうなフワフワの絨毯が部屋の真ん中に鎮座している。中世の貴族が好みそうなバラの刺さった花瓶やエレガントな白を基調としたベッド。化粧台の引き出しには黄金色の取っ手がついているが少し錆びれている。過去何度も読まれたような色の変色した本が並ぶ本棚もある。
今日読むのは図鑑だ。
宇宙に無数に存在する奇妙な星。
直径が1.2億kmもある星。
ガラスが風速8000mで横殴りに降り注ぐ星。
重力が太陽の600億倍もある星。
ウソみたいなこんな星々の話を聞くと、もっとこの世界を見てみたいなんて感じる。
今までもたくさん本を読んだ。
人の思考を読むのが好き。それは人の心を見透かすとかじゃあなくって、その本を書いた人が何を伝えたいだとか、どんな想いで書いたのだろうとか、そんなことを想像しながら読むのが好き。
私は自分の過去を知らない。ほんの13か月前にこの部屋のベッドで起きた。
目が覚めたとき、あの先生がいた。
髭を生やして、白衣の内側にシャツとネクタイ、茶色のセーターが見えていて、私に気分はどうかなんて聞いてきた。不思議と私の気分は落ち着いていた。先生から私の名前は「クロエ」ということを告げられた。彼は自分の名前を名乗らなかった。ただ自分のことを「先生」と呼んでほしいとだけ私に伝えると、いくつかの本を持ってきた。宮沢賢治の注文の多い料理店、モネの画集、徳川家康の生い立ちに関する歴史書とかいろいろな本を持ち寄ると、この本を読んで感想を聞かせて欲しいと言った。そして、私が知識を少しばかり得てから過去を教えると言った。
疑問は持たなかった。
私が見る世界に色を付けてくれるのはこの人だったから。
私が知る世界に愛を教えてくれるのはこの人だったから。
私が居る世界に神を拵えてくれるのはこの人だったから。
でも今日、私はこの人に対して<不安>を覚えた。
嫌な予感と言ってもいい。
今まで生きてきた13か月で最も恐ろしいことが起こると感じた。
この人物を恐ろしいと感じた。
もしも自分の過去が本当に無価値なものだったとき、私には何もなくなってしまうのではないか。
この世界に魂が存在するようで、実はぬけがらのように形だけが存在するのではないか。
その事実を彼から告げられるのではないか。
彼が医者でなく、死神である可能性は否定できない。
しかし私は、彼の作業場を訪れる必要があった。
どうしよう。今からすぐに向かって"答え"を確かめようか。
正体不明のこの恐怖を、せめて正体を明かしてから考えようか。
そう悩んでいると、一冊の手記を見つけた。
日記のようだ。どこにでもあるようなB5サイズのノートだ。
タイトルを見たとき、違和感を覚えた。
-クロエの日記-
筆者はクロエという人物だった。
しかし、そのクロエという人物は、私ではない。