プロローグ
16年前。
午後のお茶を入れているときだった。
「パティ、明日の早番はあなただったかしら?」
侯爵夫人に声をかけられ、パティは手を止めた。
「はい、奥様。今日はこのお茶を入れたら下がらせていただきます」
「申し訳ないけど、明日は朝摘みのイチゴが食べたいの。面倒だと思うけど、朝から摘みに行ってくれる? 料理長には話しておくから」
イチゴがなる畑までは少し距離がある。少々面倒ではあるのだが、
「あなたの息子、ジャンだったかしら? あの子の分も取ってきていいから」
いつものことだが、そう言われてパティはにっこりした。
「ありがとうございます、奥様。息子も喜びます」
これだから遣り甲斐がある。
畑まで歩くのは面倒だが、息子に好物のイチゴを食べさせられるなら嫌な仕事ではない。
侯爵夫人はいつもこんな風に気遣ってくれる。良い家に勤められていると、パティはいつも思う。
「良かった、じゃあよろしくね」
侯爵夫人は微笑んだ。
翌朝。
朝靄が出ていた。春とはいえ、まだ朝は冷える。
パティはしっかり着こんで出掛けた。
侯爵家のイチゴ畑は、屋敷から少し離れた場所にある。歩いて20分程か。
息子のためにもたくさん取れたらいいなと、少し浮わついていた。
ふと、馬車の音に気付いた。こんな早い時間に珍しい。
こちらに近づいてくる。
パティは道の端に寄ったつもりだった。
朝靄で馬車の姿はほとんど見えなかったが、音からしてかなりのスピードで近づいてくるな、と思ったそのときだった。
体に衝撃を感じ、気付いたら体が宙を待っていた。
驚くほどゆっくりと地面に落ちた気がした。
地面に叩きつけられ、二度目の衝撃。
「がはっ!」
感じたことの無い激しい痛みとともに、声とは言えないような音が自分の口から漏れた。
喉の奥から込み上げてきたものを吐き出す。
目の前が真っ赤になった。
早朝、回りに人気は無い。
パティは、馬車持ち主が降りてこなければ助からないと悟った。
パティの祈りも虚しく、馬車の音は遠ざかって行く。
体を動かそうとしたが、全く動かせない。
「あなた……ジャ……」
夫と子ども、家族や友人、色んな顔が浮かんでは消える。
パティにできることは、もう無かった。
全身の感覚が急速に失われて行く。
やがて意識は闇に飲まれた。