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門出の青海

 海沿いの病院は潮の香りがするらしい。

 もっとも記憶も定かでない頃からこの島の病院の世話になっているため、潮風を実感として感じたことはない。市街や山中を出身としているのなら空気の差異を感じることができたのだろうか。

 本国から離れた、飛び地の島にある病院。空は高く澄みきり、本国のように廃水を無理に浄化した水を飲む必要もなく、飯もうまい楽園のような場所だ。

 生まれた時から不自由だった。肺が使い物になっていないらしく、激しい運動ができないので手足はやせ細るばかりでまともな生活を送れない。日々新たな発明が行われ、スモッグまみれの本国では生きていけないと医者に結論付けられた。もっとも生まれてこの方こうなので健康というものがあまり想像もつかず、この体が不自由だという実感もないのだが。

 俺をこのように生かすと決めたのは両親だった。安くはない場所のはずだが、アッパーミドルに位置する彼らにとってはどうってこともないのかもしれない。


(世間知らずの自分が考えて見当がつくものではないし、興味が湧かない)


 両親はよくできた人だ。本国から離れたこの病院にもよく見舞いに来てくれるし、見せたくないものはここに仕舞っておきなさいと鍵付きのチェストも病室に置いてくれた。

 まあ置くものもないので主治医のメイソン氏にもらった怪しげな治療に関する冊子しか入っていないのだが。


(勧めるにしても、もう少し穏やかな治療法にすればよかろうに。理屈は分かるがまるで猟奇小説に登場する狂人の所業のような施術だ)


 そろそろ時間である。書置きを残し病院の廊下を歩いていく。二階の無いつくりの建物なので介助は必要ない。有り余る時間の中でゆっくりと歩いていけばいずれ着く。

 渡り廊下の開口部はアーチ状になっており、そのまま芝生の庭に出れるようになっている。廊下をまっすぐ進めば回復した子供たちが駆け回るホールへと続くが、そこに用があったことは無い。


(元気なものだな)


 数週間前までベッドで寝込んでいたであろうに、すっかり元のたくましさを取り戻している。この病院では本国の学院で研究されている治療法も積極的に取り入れられ、ホスピスのような雰囲気に反して退院率も高い。

 ぽつりぽつりと木が生え、ベンチが点在する簡素な庭。柵や塀などの区切りは無いのでやろうと思えば病院を脱走することもできるだろう。この島自体、丘の上にあるこの病院と麓の教会ぐらいしかないので、あまり意味のあることとも思えないが。

 手ごろなベンチに腰掛け、息をつく。この外出は三日に一度は外に出て日を浴びてほしいというメイソン氏からの指導によるものだ。


(院内での運動にも参加はしているんだがな)


 まあ医者の言うことだ。意味はあるのだろう。

 本を読もうにも腕の力が弱く長い時間書籍を支えてやることもできないので焦点も絞らずにぼんやりと空を眺める。そもそも院内の本は童話や経典が多数を占めており、それ以外を読もうとしたら医師から学術書をせしめることになるだろう。

 ほんとうに、ここの空は青い。

 本国の空など見たことはないが、煙に覆われ空を見通すことも叶わないらしい。両親が時々持ち込んでくれる諸国の絵も白を混ぜたような穏やかな青だ。

 しばらくぼんやりしていると、丘の下から何か白いものが飛んできた。鳥にしてはやけに風に揺られふわふわ、ふわふわ近付いてくる。

 傾斜があるので途中で力尽きるかと思われたが風の力を利用してしぶとく飛び続け、遂には己の膝元にまでやってきた。

 紙飛行機だ。

 つくりは案外凝ったもので、折り目以外に風を受けるためか翼がゆるく婉曲している。


「やあきみ、それは私の投げたものだ」


 近付いてきたのは軽薄な男だった。病人の自分よりよっぽど線の細い腕をこちらにぶんぶん振っている。


「助かったよ。海風に吹かれて丘の上まで来てしまったようだ」


 撫で付けることもできないやわらかい髪を風にそのまま遊ばせている。


「子供に紙飛行機でも折ってやったんですか?」


「いいや、自分用」


 人の往来も少ないこの島で変人を引き当ててしまったようだ。


「寝過ごしたら帰りの便を逃してしまってね。連絡船はひと月に一度というじゃないか。おかげでしばらくはこの島でよろしくするしかない」


 片道一週間、荷卸しや船の整備、船員の休養で更に一週間。一度船を逃がせばそうなる。


「教会が目当てで来たんだがね。流石にひと月通い詰める程思い入れがあるわけじゃない」


 紙飛行機をもてあそびながらベンチの隣に腰かけてきた。


(馴れ馴れしい男だな)


 まあ害は無さそうなので放っておこう。


「まあこの無聊も紛れそうだ。きみ、大量殺人鬼に興味はあるかな?」


「勿論です。なんて答えたら自分がこの島に連れてこられた理由が変わりますよ」


 放置しておいてやったらこの仕打ち。いったい何なんだろうか。

 萎えきった足を恨んだ。逃げられない。


「巷ではこの殺人鬼の話で持ち切りだよ。まあ三か月前に捕まって、二月前に刑務所で話を聞いてきたんだが」


 出所したてなのだろうか、この男。


「ん? ああ、別に同じ釜の飯を食った仲間というわけじゃないよ。ただちょっとしたコネでそういう奴の話を聞く機会が多いってだけさ」


 ますます経歴が疑わしくなってきた。


(まあ、この島に来れるなら前科などはないのだろう)


 教会と病院しかない島に連れてこれるような人間は、ある程度身分の保証されたものに限られている。


「獄中の人間の話を聞きに行くほど私は人との会話に飢えているんだ。地続きの庭ならともかく、流石に病室にまで侵入したらひっ捕らえられそうだったしね」


 そこに現れたのがきみだよ! と続けられた言葉に若干げんなりした。生まれてこの方、歳の近い男と話したことは無いが、皆ここまで遠慮が無いのだろうか。


「まあ怪しいものじゃないよ。紙飛行機を開いてご覧。身分証明証の写しと本籍地を書いてある! 手紙は一番下の住所によろしく頼むよ!」


 個人情報の押し売りが始まった。羊皮紙とは似ても似つかぬ薄さ、東からの伝来品の高級紙を惜しげもなく紙飛行機にしているあたり本物のボンボンだろう。


「いりませんよ。手紙なんて両親に書く分で充分です。そして身元がはっきりしてもあんたは怪しすぎる」


「堅いことを言わないでくれ。ここで会ったのも何かの縁だ。哀れみをかけておくれよ」


 哀れみをかけてほしいのはむしろこちらなのだが。

 真昼を知らせる教会の鐘が響くまで、男は俺を解放しなかった。




 それから男は飽きることなく俺のもとを訪ねてきた。一度病室に篭もってやり過ごそうと思ったが、俺の見舞いという大義名分をひっさげ病室の窓から侵入を試みてきたので大人しく庭で落ち合うのが一番被害が少なかった。


「殺人鬼の話、ダメかい?」


「なんで執拗に猟奇殺人の話をしたがるんだよ」


 件の殺人鬼の話を聞かせたがる以外は良識的な話題を振ってくるので、まあいい暇つぶしにはなっている。


「これだけ気候が穏やかな場所じゃあ無縁だろうけど、寒い冬の日に飲むココアってのはいいものだよ。暖炉の火でマシュマロを炙ってビスケットに挟んでやってもいい」


「ホットチョコレートなら、飲んだことがありますよ。滋養強壮のため食堂で配られたものでしたが」


 たっぷりの砂糖にミルク。生姜にシナモン、カルダモン。飲んだ途端に体があったまった。


「それもまたいいね。私も飲んでみたい」


「この島で骨でも折っとけば入院できますよ」


 長期入院患者の受け入れが基本だが、たまに怪我した船員が運び込まれてくることもある。


「魅力的な提案だが、本国での用事があるものでね。船を逃がしたことはもう電話で伝えたから、更にひと月待たせたらいよいよ首と胴が泣き別れさ」


 変人の関係者は変人らしい。そもそもこの男は何を生業としているのか。


「仕事でもしてるんですか」


「私がなすべきことはあるが、ある職に就いているのか問われれば首を傾げざるをえないな」


「…………」


 煙に巻かれた。多分定職には就いていないんだろうが、自分の境遇で言えることはない。


「まあ自分の金で船のチケットとこの島での滞在費を賄えるくらいはあるよ」


 今は教会の手伝いをしながら宿舎に世話になっているらしい。


「本家の爺共が聞いたら卒倒しそうだが、血の気の多い御仁たちなのでこのくらいで丁度いいよ」


 新聞が毎日読めるような場所でもないので、喋らせておくのもまあ悪くないかもしれない。

 そんな取りとめもない日々は、恐ろしいほど早く過ぎていった。




「楽しかった。いつかまた、会いに行く」


 呆気なく、出会った日から丁度ひと月後。連絡船は予定通りこの島を発つ。


「手紙を書くよ。この病院ときみの名前を書いておけば受け取れるだろう」


 それじゃあまた、この島で! そんな一言だけ残し、彼の姿は丘の下に遠ざかっていく。

 手を伸ばそうとした。届かない。立ち上がるあなたの服の裾を掴むこともできない。

 追いかけようとした。不可能だった。足は力が入らず前に進むこともできない。ベンチから立ち上がることも満足にできず、力が抜けてその場に膝をつく。

 最後に一言伝えたかった。肺は使い物になることなくわずかな酸素を吸うことしかできない。当然それでは満足な音など出せるはずもない。笛を水につけたような無様な音が気道を通って漏れただけだ。

 自分は声をあげてこの人を呼び止めることもできないのか。

 彼は振り返ることもなく丘の下までたどり着き、港へと軽やかに去っていく。

 芝の上にうずくまる無様な己。この不具の体を初めて厭わしく感じた。

 ふと、ホールから子供たちの甲高い声が聞こえる。健やかな子供たち。この島から出て家族の元に戻り、友を作り、なんてことはなく大人になる彼ら。そんな当たり前の事実が自分を追いつめた。

 白亜の壁で身を削り取るように病室に戻る俺はさぞ醜悪だっただろう。部屋に戻りチェストの中の冊子を取り出す。


“臓器置換による不全患者根治の症例”


 肋の内に収まる不完全な臓器をそっくり取り出し、ずたずたにしてやりたい。こんなもののせいで俺は彼に一顧だにされず置いていかれるのだ。

 はての無い青空は今日も頭上に広がっている。その空があの人のもとへ繋がっている確証が欲しい。

 見たこともない、スモッグまみれの灰空がひどく恋しかった。


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