結びの雪白
「駄目です。十歩も歩いてられませんでした」
明け方から降り始めた雪は昼過ぎには風を伴い強い吹雪になっていた。日が暮れる前にこの家を発ちたかったのだが、今夜もこのログハウスを出られそうに無い。
「そんなに慌てることも無いだろう。食料は先日買い込んだし、薪もたっぷりある。穴熊を決め込んでいてもバチは当たるまい」
「どうしてあなたはそんなに暢気なんですか……」
現在この国では連続殺人が取り沙汰されている。家族や恋人、友人たちで団欒をしていると殺人鬼が現れ、彼らを殺す。現場に証拠は残されていないが、その殺しのやり口は五年前逮捕された大量殺人鬼を彷彿とさせた。
「口さがないものたちは噂していますよ。奴が牢破りをしてまた悪さを始めたのだと」
「私たちとそう年も変わらぬ青年だったそうだしね。可能性としてはゼロじゃない」
飄々と嘯きながら彼はココアで指先を温めていた。暖炉の前に陣取り、ストールを幾重にも重ねて頭から被りながらである。
「といっても前回の事件は四日前。ロブベニア中心街、クレブナー通りの一軒家だ。奴さんが自家用車を持ってたってここにはたどり着けまい」
自分達がいるのはこの国の北端にほど近いサリニッタ。一日八時間車を走らせて五日かけてもまだ距離があるような僻地中の僻地だ。だが、問題はそこじゃない。
「俺だって本気で奴が逃げおせたとは信じてません。それより模倣犯がこの事件を起こしているんじゃ無いかと心配しているんです! っ……がっ……」
少し語気を強めて彼に注意を促そうとすればたちまち気道が狭まり咳き込んでしまう。これでも以前よりはマシになったのだが。
「興奮するんじゃ無いよ。きみはあまり身体が強くないんだから。ほら、もう少し火の近くに来なさい。身体を冷やすのが一番良くないんだ」
気取り屋ながらもその実彼がひどく優しい人間だと気付いたのはいつだったか。気遣われながら自分がひどく情けなくなる。どうして自分はこうなのか。
「……少し興味深い話をしようか」
ストールを何枚かこちらに寄越しながら彼は話し始めた。
記憶はどこに宿ると思う? 脳みそ、魂、心臓辺りがまあ妥当だね。ひねくれもの以外は大抵そう答える。
だが私はひねくれものだからね。あえて「細胞」と答えよう。
勿論奇をてらっただけじゃあない。理由だってあるさ。
最近流行ってる施術に、臓器移植ってあるだろう。健康な他人の臓器を悪くなってる自分の内臓と取り替えるやつだ。
よその国じゃできないけど、うちの国はあらゆる技術が歪に発展してるからね。これもそのひとつだ。
そしてこれを受けた患者の何人かに面白い症例が出てる。臓器提供者の性格や嗜好に寄るってものさ。
「移植したのは脳みそや心臓じゃ無い。替えが効くような腎臓や肺だったってのにな」
だからまあ、記憶ってのはデカい倉庫――この場合は頭だな――にまとめてしまわれてるんじゃ無く、身体の至る所に記憶されてる。ってのが新説なわけさ。
「興味深いですが、あまり殺人鬼と関わりがありませんよね」
「まあそういきり立つな。話はまだ続くんだから」
それで、まだ内々の話だがこの臓器移植に死刑囚を使おうって話があってね。生きてる人間からは支障の無い臓器しか取れないが、計画的に死ぬ人間なら別だ。それに彼らは地獄行きが決定して、健全な肉体はもう必要ないからね。
「五年前に捕まった青年。あんな凶行に走ったけど、薬物などは一切やってない健康そのものの肉体だったそうじゃないか」
さぞ多くの臓器や皮膚が移植に使えただろうね。
長い話でやっと冷ましたココアを彼がすする。寒がりなくせに猫舌なのはどうにも納得がいかなかった。
「推察だが、彼は恐らく博愛主義者だった。そして愛するものを害さずにはいられない精神異常者でもあった。両方の極端な性質により引き起こされた事件であると私は考えるよ」
暖炉の火に照らされた瞳が恐ろしいほど凪いでいた。
「最近の連続殺人は全て彼から移植を受けた人間が引き起こしたものだ。親しい人らを惨殺した後、彼らは正気に戻り自害する。これで被害者だけの証拠の無い殺人事件が成立する。あまりにも被害者たちに関連性が無いからヤードの連中も手を焼いていたようだが」
時折、彼の言葉が歌のように聞こえるときがある。実際歌わせるとひどい音痴なのだが。
「きみの肺の病が回復したのは、四年前だったかな」
自分は生まれつき肺が使い物にならなかった。だが四年前、誰にも治療法を言わないことを条件に治療を受けた。素体について医師は一言も語らなかった。自分も興味がなかった。
「そもそもね、きみ。十歩も歩いてられない吹雪でどう殺人鬼が飛び込んでくるって言うんだ」
この欠陥品の身体では、どうしても健康な両の肺が必要だった。告解すらできぬおぞましい術を頼ることしかあの時の己の頭には無かった。
「出立を急いでいたのは、この空間で私を殺さずにいる自信が無かったってところかな」
選択に悔いはなかった。この四年は俺にとってかけがえのない、これ以上ない日々だった。
「街の宿であればまだ自制もきくだろうしね」
全てが白日の下に晒されていく。彼と自分しかいない空間だが、関係ない。彼に知られてしまったということが己にとっては全てだった。
「そうひどい顔をしてくれるな、きみよ。私は別にきみに殺されてもかまわないのだが」
「…………は?」
今、何を言った。この人は何を。
「何度でも言ってやるが、殺してもいいぞ。きみにはその権利をやる」
どうしてあなたは。頭がおかしいのか。
「その衝動は私がいる限り消えないだろうし、きみは確実に後を追ってくれるから」
夜が明ける前に頼む。そう言う彼の顔はひどく穏やかだった。
「あなた、馬鹿だったんですね」
「否定はしないさ」
それなりに一緒にいたのに初めて知った。
これは自分も覚悟を決めねばなるまい。
「……まず、寝てください。痛くしない自信がないので寝てる内に終えますから」
「それもそうだな。一突きで頼む」
そう言い残すと彼は呆れるほどあっという間に安らかに寝付いた。
「まったく………………家族でも恋人でも友人でもないかけがえのない人よ。どうか、健やかに」
主よ。どうか彼の道行きに幸多からんことを。
「嘘つきめ」
夜の内に薪を多く焼べていたせいか、夜明け前にもかかわらず部屋は冷えていなかった。
冷たくなっていたのはあいつの身体だけだ。
「これからは誰が私にココアを作るんだ」
昨夜の飲みさしのココアに口を付ける。とろけていたはずのマシュマロがかたちを取り戻し、脂が冷え固まって飲めたものではなかった。
こんなまずいもの、二度と飲むもんか。
マグの中身を空にし、窓を見遣る。
「こんな天気じゃお前を埋められもしないんだぞ、大馬鹿者」
昨日からの吹雪はやまない。それだけが救いだった。