八月二十三日 取り調べ(2)
「話は変わるが……お前は十二歳の時、同級生を殺しているな」
その問いに、譲治は何のためらいもなく即答した。
「うん、そだよ」
すました顔である。だから何? とでも言わんばかりの様子だ。見ている大下は、心底から腹が立ってきた。
・・・
桐山譲治には、悲惨としかいいようのない過去がある。
家族旅行のために乗った大型旅客機が墜落し、乗員乗客合わせて百人以上が死亡した。だが、奇跡が起きる。当時十歳の少年である譲治が、機内でただひとり生き残っていたのだ。
もっとも、譲治は己の幸運を手放しでは喜べなかっただろう。両親と兄と姉とを目の前で失った上、本人も頭部に機体の破片が突き刺さる重傷を負ったのだ。瀕死の状態で病院に運ばれ、七時間にも及ぶ大手術の末、なんとか命を取り留める。ただし、脳に障害を負ってしまった。
その後、彼は『ちびっこの家』という児童養護施設に入所し、その近くにある小学校の特殊学級へと通い始める。
生い立ちを聞けば、誰もがこの少年に同情することだろう。だが譲治が、その後にやらかしたことを聞けば、同情は憎悪へと変わるだろう。彼は小学校にて、ひとりの女子生徒を殺害したのだ。
それも、数箇所の骨をへし折って──
とある日の、休み時間のことだった。六年三組の教室に、ひとりの少女が飛び込んでくる。
「助けてえ! 殺される!」
教室の皆が唖然とする中、女子生徒は必死で周囲の生徒に助けを求める。見れば、このクラスの上原香澄だ。
彼女の右腕は、真っ赤に染まっている。肘のあたりから、剥き出しになった骨が見えていた。
生徒たちは呆然となっていた。あまりの異様な事態に、何が起きているか把握できていなかったのだ。しかも運の悪いことに、担任の教師もこの場にいなかった。
直後、恐ろしい形相の少年が教室内に入ってくる。この学校にある特殊支援学級の生徒・桐山譲治だ。譲治は、取り憑かれたような表情で彼女を追う。
その口元には、狂ったような笑みが浮かんでいた──
「やめて! お願いだから! もう許してえ!」
上原は金切り声をあげるが、譲治は止まらない。手を伸ばし、彼女の左上腕を掴んだ。もう一方の手は、上原の左前腕を掴む。
次の瞬間、骨が砕けたような音が響く。直後、左腕があらぬ方向に曲がった。一瞬遅れて、上原が悲鳴をあげる。
その時、背後から譲治にしがみついた者がいた。
「もうやめて!」
しがみついたのは、同じクラスの山村伽耶だ。顔の右側に、大きな痣のある女の子である。彼女が譲治を止めようとしているのは、誰の目にも明らかだった。彼の腰に両手を回し、金切り声をあげている。
その顔には、なぜか大量の発疹が出来ていた。病気の発作のようだ。にもかかわらず、伽耶はもう一度叫ぶ。
「やめてええぇ!」
その声は、廊下にまで響き渡った。すると、譲治の動きは止まる。振り返り、伽耶をじっと見下ろす。
その顔には、戸惑うような表情が浮かんでいた。
「お願いだから……もう……いいから」
声を絞り出し、伽耶は哀願する。その目からは、涙が溢れていた。
だが、彼女の表情は一変した。両手で己の喉を押さえ、苦悶の表情を浮かべる。その場に倒れ込み、咳込み出した。喘息の発作のようだ。ヒューヒューという喘鳴の音も聞こえる。
その姿を見た途端、譲治は顔の向きを変えた。視線の先にいるのは、激痛と恐怖と混乱により涙と鼻水とよだれを垂れ流している上原だ。
譲治は手を伸ばし、上原の髪の毛を掴んだ。もう片方の手は、彼女の顎を掴む。
直後に、恐ろしいことが起きる。上原の顔が、百八十度回転したのだ──
数秒後、譲治は手を離した。上原の体は、壊れた人形のように崩れ落ちる。死んでいるのは、誰の目にも明らかだった。
ひとりの生徒が、ばたりと倒れる。あまりに残酷な出来事を目の当たりにし、耐えられず失神したのだ。続いて、数人が胃の中のものを戻す音が、静まり返った教室に響き渡る。だが、彼らにとっての悪夢はまだ終わっていなかった。
上原を殺害した数秒後、譲治はいきなり天井を向く。次の瞬間、叫び声をあげたのだ。まるで獣の咆哮のような……いや、勝利の雄叫びを思わせる奇怪な声だった。
その場にいる者たちが呆然となっている中、譲治はさらなる奇行を始める。そばにある机の上にひょいと飛び乗ったかと思うと、奇声を発しながら両手両足を振り回す。でたらめなダンスを踊り出したのだ。
駆けつけた警官に取り押さえられるまでの数分間、返り血を浴びた姿で机の上でぴょんぴょん飛び跳ねる。くるりと空中で一回転したかと思うと、着地と同時にまた飛び跳ねる。サーカスの曲芸師か、体操選手のような見事な動きであった。また異様な跳躍力であり、教室の天井に届いてしまいそうだった……と、目撃した生徒たちは語っている。
トランポリンに乗っているかのように、笑いながら飛び跳ねる譲治。どうにか呼吸をしながら、譲治を見つめる伽耶。壊れた人形のごとき体勢で、床に倒れている上原。
その光景は、六年三組の生徒たちにとって生涯忘れられぬものだった──
譲治は、直ちに警察に連行された。彼は十二歳であり、少年法により罪に問われることはない。だが、精神科の閉鎖病棟に送られた。
伽耶はすぐに病院に送られ、一命を取り留めた。医者の診断では、彼女の症状は蕎麦アレルギーによるものだという。もう少し遅れたら危なかった、とも語っていた。
上原は即死だった。担当した検死官は取材に対し「あんな殺し方は、小学生には不可能なはずだった。目撃者がいなかったら、確実に成人男性の犯行だと断定していただろう。私は、今でも信じられない」と語っていた。上原の父親はマスコミに向かい「法には絶望した。いつか、私がこの手で犯人を殺してやる」と語っていたという。
・・・
「なあ、あの上原さんを殺した理由は何なんだ?」
大下は、冷酷な口調で尋ねた。だが譲治は、ニヤリと笑う。
「うーん、暑さのせいかな」
「なんだと? ふざけてんのか」
言いながら、大下は顔を近づけていく。譲治との距離は縮んでいき、鼻と鼻とが触れ合わんばかりの位置まで接近した。
その途端、ゾクリとなる──
こいつは、何なんだ?
大下は、異様なものを感じていた。いつのまにか、手の平にじんわり汗がにじんでいる。
これまでのキャリアの中で、彼は様々な犯罪者を見てきた。暴走族、チンピラ、ヤク中、ヤクザなどなど。中には殺人を生業とする裏稼業の住人もいたし、人を殺した後に現場で自慰を行う異常な快楽殺人鬼もいた。
今、目の前にいる譲治は、そういった者たちとは全く別の人種である。上手く言えないが、何かが根本的に違うのだ。もちろん、目の前にいる少年が、多くの犯罪者と同じく唾棄すべき存在であるという評価に変わりはない。だが、それとは別種の何かも感じる。
漠然とした不安を覚えた。この少年、何かがおかしい。かといって、このまま逃すわけにはいかない。譲治は、何があったか知っているはずだ。
大下は目を逸らし、椅子に深く腰掛ける。なにげない表情を作り、口を開いた。
「おいガキ、いい加減にしろよ。俺はな、色んなことが出来るんだ。今の留置場にはな、身長二メートルで体重百二十キロもあるマッチョな外国人がいるんだぞ。素手で、人の首をねじ切った化け物だ。俺も、あいつとはやり合いたくねえよ。なあ、お前もそう思うだろ?」
軽い口調で、後ろにいる後輩の刑事・中村に尋ねた。すると、中村はもっともらしい顔で答える。
「そうですね。俺も、あいつだけは御免です。拳銃持ってても、勝てる気がしません」
「だろ? しかも、あいつは女の子より男の子が好きらしいぜ。だから、ひとりで房の中に入れている。もし、あいつの房に若い男の子が入ることになったら、夜中に何が起きるかわからねえぞ。朝になったら、男の子は女の子になってるかもしれないよな」
噂話のような口調で、大下は語った。実のところ、そんな者は留置場に収容されていない。だが、中村も事情は心得ている。あなたの言う通りです、と言わんばかりにウンウン頷く。
今の時代、警察は暴力を振るい容疑者から自白を引き出すことは許されない。だが、言葉による精神的な揺さぶりは、まだ使える。プロレスラーのごとき体格を持つゲイの殺人犯と、同じ部屋で一晩過ごす……十代の少年にとっては、避けたい状況だろう。
ところが、譲治は表情ひとつ変えなかった。
「ああ、一度くらいそういう経験すんのもいいかもしれないのん。ひょっとしたら、僕ちんにも女の子の部分があるかもしれないね。男の良さに目覚めちゃうかも。そうしたら、女装にもトライしてみようかな。露出の高いエッチな格好して、外歩いてみるのもいいかも。男たちの視線を釘付けにしちゃったりして」
いきなり口を挟んできた後、上を向いてニヤニヤ笑い出した。己の女装姿でも想像しているのだろうか。
大下は、譲治の顔をまじまじと見つめる。今のセリフが怯えをごまかすためのものなら、顔もしくは体のどこかに徴候が現れるはずだ。
しかし、譲治に怯えの徴候はない。先ほどまでと同じく、リラックスしきった表情だ。大下の揺さぶりは、この少年の心に何の影響も与えていないのだ。
いや、こいつは?
直後、大下の背中に冷たいものが走った。先ほどから感じていた違和感の正体に、今ようやく気付いたのだ。この少年からは、大半の不良少年のような闇が感じられない。
だが、光もない。そう、譲治には闇も光もないのだ。世の中全てに絶望し、何の希望も期待も持っていない。だからこそ、こんな状況でも笑っていられる。絶望しているからこそ、何事にも真剣になる必要がない。どんなひどい状況だろうが、それが普通だと思っている。だからこそ、警察の取り調べにもヘラヘラ笑いながら対応していられるのだ。
少年の奥に潜むものに気づいた時、大下は思わず立ち上がっていた──
「てめえ! 調子乗るなよ! 警察なめんな!」
怒鳴り付け、机を殴る。さらに、譲治に顔を近づけた。手を伸ばし、彼の胸ぐらを掴む
行動そのものは暴力的だが……実のところ大下は、今まで味わったことのない恐怖を感じていた。その恐怖をごまかすため、少年の襟首を掴んでいたのだ。この段階では、あくまでも脅しだった。暴力の気配で怯ませるだけ、のつもりだった。
しかし、譲治は暴力にも怯む気配がない。百八十五センチの大下を、すました顔で見上げている。そして、薄ら笑いを浮かべた。
「そんな怖い顔で見つめちゃイヤン」
その瞬間、大下の脳天に電流が走った……ような、異様な感覚に襲われた。大量の冷や汗が、背中に吹き出る。
もしかして、こいつが皆を殺したのではないか──
不意に、そんな思いが頭をよぎる。バカげた考えであることは、自分でもわかっていた。にもかかわらず、大下の勘は言っている……譲治は、あの事件に深くかかわっている。
すると、譲治はまたしても笑った。大下の内面を見透かしたかのような、嫌な笑顔だった。
大下は、自分を押さえられなくなった。思わず、拳を振るう──
拳は、譲治の左頬に炸裂した。直後、少年は派手なアクションとともに床に倒れた。弾みで彼の座っていた椅子も倒れ、派手な音が鳴る。
「ちょっと! 何やってるんスか大下さん!」
後ろに控えていた中村が、慌てて止めに入る。大下はといえば、己のしでかしたことに愕然となっていた。顔面が蒼白になりながら、倒れている少年を見下ろす。そう、彼は怖かったのだ。自分でも認めたくないほど怯え、反射的に暴力を振るってしまった。
もっとも、これは重大なミスである。容疑者に暴力を振るってしまった……今の時代、刑事が絶対にやってはいけないことのひとつだ。こうなっては、取り調べを続けるのは難しいだろう。
譲治の方はというと、大袈裟な動きで己の頬をさすっている。
「殴ったね、パパにも殴られたことないのに……あいたたた。ほっぺが痛いのよん。いいパンチだ。さすがだね」
ふざけた態度を見て、大下の裡に異様な感情が湧き上がる。怒りとも恐怖ともつかない、奇妙な感情が……。
その時、室内に中年の刑事が入ってきた。
「大下、ここまでだ。もう終わりだよ」
言うと同時に、中年の刑事は大下の襟首を掴んだ。部屋から強引に連れ出す。
ドアを閉めると、そっと囁いた。
「上からストップがかかった。ガリラヤの地の連中から、これは全て火災で処理してください……そういって来たんだよ」
「はあ? なんですかそれは? あのガキは、絶対に何か知ってますよ! このまま野放しにする気ですか!?」
大下は、混乱した顔つきで尋ねた。しかし、中年の刑事は諦めきった表情でかぶりを振る。
「いいか、これはガリラヤの地だけじゃねえんだ。別口からも、圧力がかかったみたいだ。うちの署長から直々に、この件は事故で処理した方がいい……との御言葉をいただいた。恐らく、銀星会が動いたんだろう」
皮肉たっぷりの口調で、中年刑事は囁いた。すると、大下の表情が変わった。目の前にいる男を、鋭い目で睨む。
「高山さん、あなたはそれでいいんですか?」
「いいんだよ。お前はもう、この件にはかかわるな。去年結婚したばかりだろ?」
高山の言葉に、大下は表情を歪める。
「そんなこと、関係ないじゃないですか。何が言いたいんです?」
「お前だって、家庭を持って平和な人生を歩みたいだろうが。だったら、ここまでにしておけ。どっかのアホの不始末により火事が起きて、大勢の尊い人命が失われた。ところが、頭のおかしいガキが運よく生き延びちまった。それだけの話だよ」
その言葉に、大下はぎりりと奥歯を噛み締める。
ややあって、彼は口を開いた。
「俺は、このまま終わらせる気はありませんよ。あのガキを、必ずパクってみせます」
「そうか。だったら好きにしろ。ただし、あのガキは明日には釈放だ」
高山の表情は、完全に冷めきっている。もう俺には関係ない、勝手にしろ……とでもいいたげだ。そんな高山を睨みつけ、大下は不機嫌そうに去って行った。
その夜、譲治は留置場の独房に収監された。四畳半ほどの狭い部屋で、ひとり寝転がっている。
百二十キロのマッチョな外国人と同じ房に入れる、などと大下は言っていた。しかし、そんな者はどこにもいない。狭い独房の中、ひとりぼっちで放置されている。
「伽耶ちゃん、待っててねん」
呟きながら、天井を見つめた。
脳内では、三日前の映像が蘇る──