八月二十日 ナタリーの死闘※B
時間は『八月二十日 譲治の覚醒(1)※A』の章よりのスタートです。
ナタリーは伽耶と大翔を連れ、階段を駆け上がる。下の階から異様な声が聞こえるが、いちいち構ってはいられない。
上の階に着くと、二人を引き連れ廊下の突き当たりにある教室へと入っていく。そこは、かつて音楽室であったらしい。ピアノなど大型の楽器は処分されているが……未だに、様々な備品が放置されている。
ここなら、隠れるにはもってこいだ。先ほど草野を探した時に目を付けていたのである。万が一の時には、この部屋に避難しようと考えていた。
出来ることなら、そんな事態は起きて欲しくなかったが……。
「君たちは、ここに隠れていろ。物陰に伏せて、息を殺しているんだ。その間に、私と譲治で奴ら全員を皆殺しにする。それしか手がない」
二人にそう言うと、ナタリーはポケットから拳銃を取りだした。
「念のため、これを置いていく。使い方は簡単だ。まず、このスライドを引く。狙いを定めてトリガーを引く。それだけだ」
説明した後、床に置く。伽耶も大翔も、唖然とした表情で拳銃を凝視している。
そんな二人に向かい、ナタリーは再び口を開く。
「いいか、殺られる前に撃て。相手が、涙を流して許しを請うても容赦するな。逆に、どんな恐ろしい脅し文句を並べようが無視しろ。前に立ち塞がる者は、きっちり撃ち殺すんだ。たじろいだり、ひるんだりしたら君たちの負けになる。もう一度言う、殺られる前に撃て。それが、この状況で生き延びる唯一の道だ」
言いながら、ナタリーは立ち上がる。
「万一の時は、私を見捨てても構わない。いや、見捨ててくれ。君たちは生きるんだ。生きて、生きて、生き抜くんだ」
言葉の直後、音を立てずに部屋を出て行った。
廊下に出ると、周囲を見回した。下からは、廊下を走っているようなバタバタという音が聞こえる。恐らく譲治だろう。どうやら、手こずっているらしい。あの野獣のごとき少年が苦戦するとは信じられないが、裏の世界には想像を絶するような化け物もいる。
まさか、あのメキシコ人に依頼したのだろうか?
そんな考えが掠める。
かつてマフィアにいた時、ナタリーは聞いたことがあった。メキシコにて、数々のギャング組織をひとりで潰した怪物がいた……と。その怪物が来たのだろうか。だとしたら、考え得る最悪の事態だ──
いや、それはありえない。メキシコ人なら、こんなやり方はしないはずだ。
今はまず、譲治を助けに行こう……と思った時だった。
突然、大きな足音が響き渡る。階段を上がって来る音だ。己の存在を隠そうともしていない。ナタリーは、そばにある教室内に身を隠した。闇に紛れ、床に伏せる。こうなると、遠目からは人か残骸かの見分けはつきにくい。彼女は息を殺し、状況を見守ることにした。
現れたのは、巨大なサモア系の男だった。身長は二メートルを超えており、Tシャツから出た腕は丸太のように太い。胸板も分厚く、ゴリラのような体格である。
大男は、廊下にて周囲を見回した。ナタリーは、彼の動きをじっと見守る。奴が、どう動くか。それによって、取るべき行動も変わってくる。
下の階からは、歓声のような声が聞こえてきた。何が起きているのかは不明だが、戦いはまだ続いているのは確かだ。あの、超人的な身体能力を持つ譲治が苦戦しているとは。すぐさま援護に向かいたいが、今ここを離れるわけにはいかないのだ。
大男は、ゆっくりと廊下を歩いていく。ナタリーの潜む部屋を通りすぎ、さらに進んでいく。何に気づいたかは不明だが、まっすぐ二人の潜む部屋に向かっていた。
このままでは、伽耶と大翔は殺される。連中は、目撃者を逃さない。
次の瞬間、教室から飛び出していた。
「このゴリラが! さあ、来い! お前の目当ては私だろうが! かかって来いよ!」
日本語で怒鳴ると同時に、壁を蹴飛ばす。今の声は、あの二人にも聞こえただろう。危機が迫っていることは理解したはず。
すると、大男は振り向いた。
二人とも、早くそこから逃げてくれ!
心の中で祈りながら、ナタリーはまた壁を蹴飛ばした。
「日本人は全員逃げたぞ! 残っているのは私だけだ! 目当ては私だろうが! 来いよ!」
もう一度、あらん限りの声で叫んだ。勇ましい言葉とは裏腹に、どんどん後退していく。大男は彼女をまっすぐ見つめ、ずんずん歩いて来る。突き当たりの部屋で隠れている二人に、気づいた気配はない。
やがて、階段が見えて来た。ここから階段を使って逃げる、という選択肢もある。だが、それは出来ない。
この大男は、自分が仕留めるしかない……決意を胸に秘め、足を止める。
次の瞬間、猛然と襲いかかった──
ナタリーの左手が放たれる。大男の両目めがけ、鞭のようにしなる目突きが飛んだ。眼球に当たらなくていい。一瞬でも目を閉じさせれば、チャンスが生まれる。
だが、大男はスッと顎を引いた。額で目突きを受ける。直後、手を伸ばし掴みかかってきた。
ナタリーは、伸びてきた手をバシンと払いのけた。が、その力は尋常ではない。腕もまた、異常な硬さだ。丸太を叩くような感触である。掴まれることは防げたものの、バランスを崩し後ろに倒れた。
すると、大男は上から掴みかかって来る。岩のごとき厳つい顔が、ぬっと近づいてきた。
その瞬間、ナタリーの足が動く。接近してきた顔面に、思いきり蹴りを放った。同時に背中で床を滑り、後退し素早く立ち上がる。
間合いを離すことには成功したが、ナタリーは愕然となっていた──
いかに体格差があるとはいえ、これ以上ないタイミングで最高の威力を出せる蹴りを顔面に叩き込んだのだ。足裏が、まともにヒットしている。ノックアウトとまではいかなくとも、鼻骨を砕くくらいことは出来たはずだった。
ところが、目の前の大男にはほとんど効いていない。鼻血を出してはいるが、顔色ひとつ変えていなかった。無表情のまま、こちらをじっと見つめている。
ナタリーの背筋に、冷たいものが走る。今まで、大勢の敵と戦い倒して来た。だが、この大男はものが違う。そもそも、今さっき蹴った時の感触は……人間のものとは違っていた。大岩を蹴った時の感触に近い。
大男は何事もなかったかのように、無造作に手を伸ばして来た。動きは遅いが、それだけが救いだ。ナタリーは、その手をバシンと払いのける。またしても、丸太を叩いているかのような感触が走った。こちらの手に痺れが走る。しかし、そんなことに構っていられない。ほぼ同時に、横殴りの掌底打ちを顔面に叩き込む──
直後、ナタリーは思わず後ずさる。掌底打ちは、完璧なタイミングでヒットした。にもかかわらず、相手の頭は揺れていないのだ。
掌底打ちは、相手の頭部を揺らし脳震盪を起こさせやすい打撃である。だが、この大男の頭部は全く動いていない。つまり、脳が揺れていないのだ。
さすがのナタリーも、こんな怪物は想定外であった。一方、大男は涼しい顔でなおも掴みかかってくる。このサモア系の男は、格闘技の経験者ではない。軍人としての訓練を受けたわけでもなさそうだ。
そうした技術のなさを補って余りあるのが、人間離れした打たれ強さと腕力だ。もはや熊と同レベルである。標的を力ずくで生け捕りにするために、選ばれた人物なのかもしれない。
ナタリーは、素早い動きで後方に飛び退く。こんな怪物に、素手で立ち向かうことになるとは。拳銃を預けてしまったことに対する後悔の念が、ちらりと頭を掠める。
だが、もう遅いのだ。今は、後悔も反省もしている余裕はない。選択ミスを嘆いている暇があったら、ミスを挽回する手を考えろ……それが、義理の両親の教えだ。一秒にも満たない間に、次の手を閃く。
突然、ナタリーはガラス窓に蹴りを叩きこんだ。ガラスが割れ、破片が飛び散る。ほとんどは外に落ちたが、廊下にも散乱している。
素早くしゃがみ込むと、床に落ちた細かい破片を掬い上げた。
直後、大男の顔面に投げつける──
さすがに、この攻撃には意表を突かれたらしい。大男は両腕を挙げ、顔面を守る。
その瞬間、ガラスの破片を拾い上げる。大きめのものだ。ナイフのように逆手に握り、振り上げた。手のひらが切れ痛みを感じたが、そんなことに構っていられない。大男の首の頸動脈めがけ突き刺す──
またしても愕然となった。ガラスの破片が、刺さらないのだ。
ナタリーは、思わず己の手を見る。握りしめたガラスの破片により、皮膚が傷つき血がしたたり落ちていた。間違いなく、刺されば切れるはずだ。
が、大男の首には傷ひとつ付いていない。どういう理由かは不明だが、この怪物は皮膚が異様に硬いのだ。ガラスごときでは、傷つけることすら出来ないらしい。
あまりにも想定外の事態を前にして、ナタリーの思考に一瞬の空白が生まれた。その時、大男の手が伸びる。
腕を掴まれた。抵抗すら出来ず、ぶんと放り投げられる──
ナタリーの体は軽々と廊下を飛んでいき、床に落ちた。背中をしたたかに打ち、思わず呻き声をあげた。とっさに受け身をとったため頭は打たなかったが、それでも硬い床による衝撃は強烈だ。息がつまりそうな感覚に襲われる。
大男の攻撃は続く。大股で歩いて来たかと思うと、片手でナタリーの首を掴む。投げられたダメージにより、反応が遅れ対処できない。
次の瞬間、軽々と持ち上げられた──
片手でナタリーの首を掴み、高々と持ち上げる大男。彼女は苦し紛れに、つま先での蹴りを叩き込む。確実に顔面や腹に当たっている。だが、大木を蹴っているような感触だった。びくともしない。
意識が遠くなっていくが、戦意はまだ残っていた。打撃も刃物も効かない怪物……となると、残る手は?
それは、半ば本能的なものだった。幼い頃より培われた訓練により、考えるより前に体が動く。ナタリーの両足は、大男の首周辺に巻き付いた。足を三角の形に極め、一気に絞め上げる──
彼女が極めたのは、三角絞めという絞め技だ。内腿で相手の片側の頚動脈を、相手自身の肩で反対の頚動脈を絞める技である。女性の力でも、がっちり極まれば成人男性を失神させられる技だ。渾身の力を込めて、両足で絞め上げた。大男の手が、喉から離れる。
だが、またしても計算外の事態が起きた。この怪物が、失神する気配はない。三角絞めを極められながらも、平然とした表情でナタリーを見つめている。お前は何をしているのだ? とでも言わんばかりの顔つきだ。
直後、彼の手がナタリーの足を掴む。力ずくで引き離そうというのだ。がっちり組んだ両足は、片手で引きはがされる。恐ろしい腕力だ──
しかし、ナタリーにはまだ打つ手がある。むしろ、こちらが本命だ。三角絞めは、この本命に繋げるための技なのだ。
ナタリーは両足を大男に引っ掛けた体勢のまま、思いきり上体を振りあげた。互いの顔と顔とが近づく。
その瞬間、右手が放たれる。彼女の伸ばした人差し指と中指が、鳥の嘴のような形で大男の左目に突き刺さった──
大男は吠えた。野獣のごとき叫び声とともに、ナタリーの右手を掴む。ボキリという音と共に、彼女の指に激痛が走った。指が、凄まじい握力により砕かれたのだ。
直後、力任せに放り投げられた。またしても床に叩きつけられ、ナタリーは苦痛のあまり呻き声をあげた。頭を打つのは避けられたが、肋骨が折れたようだ。右手の指もへし折られた。もう、今の戦法は使えない──
顔をしかめながら、大男を睨む。片目を潰せたが、あれでは不十分だ。本当の狙いは、二本指で眼球を貫通させ脳に突き刺し即死させるつもりだった。しかし、脳に達する前にぶん投げられてしまったのだ。
しかも、大男に怯む気配はない。左目を潰されたのに、戦意は全く衰えていない。それどころか、さらに逆上させてしまったようだ。
ナタリーは、ぎりりと奥歯を噛み締める。自分ひとりなら、こんな戦いなどしていない。さっさと逃げ出していただろう。
だが、逃げることは出来ないのだ。この化け物を呼び寄せてしまった戦犯は、ナタリーである。自分が逃げたら、新たな犠牲者が出る。あの少年少女たちが殺されるのだ。これ以上、自分のために死人を出したくない──
その時、ポケットに違和感を覚えた。
ようやく思い出す。自身のポケットには、先ほど使った物が入れたままになっていたのだ。これを上手く使えば、あの化け物を倒せるかもしれない。
直後、ナタリーは土下座した──
「ご、ごめんなさい! 許してえ!」
額を床に擦りつけながら、日本語で叫ぶ。だが、大男には命乞いなど通じない。左目から血を流しながら、凄まじい形相で手を伸ばす。
次の瞬間、ナタリーは顔を上げる。口から、液体を吐き出した。
大男の残った右目に、液体がかかる。獣のような咆哮とともに、目を押さえた。
同時に、ナタリーが火のついたライターを押し付ける。直後、大男の顔面が燃え上がった──
村で火をつけるため使ったジッポオイルが、ポケットに入ったままだった。土下座と同時にオイルを口に含み、顔面に吹き付けたのだ。
さらに火をつけたため、大男の顔面は燃え上がってしまった。どんなタフな男だろうと、残った目を燃やされて耐えられるはずがない。大男は、火を消そうと両手で顔面を掻きむしる。同時によろよろしながら、敵であるナタリーから遠ざかろうと歩き出す。
その時、ナタリーは猛然と動く。助走をつけ、背中に思いきり蹴りを入れた。
普段なら、大男はその蹴りなど平気で受け止めるだろう。しかし、彼の視界は完全にふさがれていた。見えない攻撃は、数倍の威力を発揮するのだ。
蹴りの衝撃でバランスを崩し、大男はよろける。その先には階段があったが、両目を潰されている状態だ。見えるはずがない。
大男は吠えながら、階段を転げ落ちていった。車が衝突したような凄まじい音が響き渡る。踊り場で、うつぶせに倒れた。
後を追って、ナタリーも飛んだ。その太い首めがけ、全体重を足裏に込めて飛び降りた。
グシャッという音が響く。大男は、頚椎をへし折られ絶命した──
直後、ナタリーは崩れ落ちる。両膝を着き、荒い息を吐いた。右手の指は、完全に折れている。動かそうとすると激痛が走る状態だ。しかも、肋骨も折れているらしい。
その時、乾いた音が響き渡った。パン、という音が数回……間違いなく銃声だ。しかも近い。伽耶と大翔の潜んでいる方角だ。
壁にもたれながら、どうにか立ち上がった。よろよろしながら、階段を上がる。あの二人だけは、絶対に死なせない。
しかし、悪魔は彼女から離れてくれなかった。突然、声が聞こえてきたのだ。
「おいおい、さすがはナタリーだ。あのテイラーを仕留めるとは、たいしたもんだよ」
日本語で言いながら、階段を上がって来たのは……中肉中背の白人だった。スーツ姿で、顔にはにやけた表情が浮かんでいる。
ナタリーの顔が歪んだ。この男は知っている。名はゲイリー・ホワイト。十二歳の時に義理の父親を殺し、少年院に入る。その中で、二十人以上からレイプされたことを自慢げに語っていた男だ。身長は約百七十センチと、欧米人にしては小柄な部類である。しかし、仕事で殺した人間の数は、己の体重のポンド数(自称百六十ポンド)とほぼ同じらしい。伝説のメキシコ人ほどではないにしろ、危険な相手であるのは間違いない。彼女の人生で、会いたくない者ランキングで十位以内に入る人物だった。
ゲイリーは、リラックスした様子でナタリーを見つめている。彼もプロだ。こちらの疲労、怪我の具合、体調などを一目で見抜き、勝ちを確信しているのだろう。
伽耶、大翔、すまない。
私は、助かりそうもない。君たちだけでも、逃げてくれ。
譲治、あの二人を頼む。
「この変態が!」
叫んだ直後、ナタリーは襲いかかった──




