第2章③
既に到着している他の招待客のものであろう車にならって、屋敷の敷地の外のスペースに駐車する。車を降りてトランクに入れた荷物を取り出した私たちは、しばし辺りの光景を見回した。
森を切り拓いて整備した広大な敷地の中、目の前には煉瓦造りの門が構えている。その向こうには庭園が広がり、客人を歓迎するかのように色とりどりの花が咲き誇っている。
そして何より、その先にどっしりと構えている屋敷の荘厳さに、私は言葉を失った。白を基調としたゴシックな雰囲気の建物は、近世を舞台にした物語の中に迷い込んだような錯覚すら覚えさせる。
「…すごい」
「ああ、確かに見事なシンメトリーだ」
私はしばらく立ち尽くして見入っていた。仙波さんが声をかけてくれなかったら、いつまでもそこに立っていたかもしれない。
仙波さんはツカツカ進んでいくと、門柱に備え付けられたインターホンを鳴らした。あ、そこは現代的なんだと、少しがっかりしてしまった。
「…はい。どちら様でしょうか?」
インターホンの向こうから、若い女性の声が聞こえてくる。
「あ、すみません。今回章紀様に招待して頂いた仙波と東雲です」
「お待ちしておりました。只今お迎えに上がりますね」
3分ほど待って門が開いた。開けてくれたのは、私とそう歳が変わらないであろう若いメイドの女性だ。しかも、ものすごい美人だった。
「本日はようこそいらっしゃいました。私、本館の使用人の紗代と申します」
お手本のような美しく上品なお辞儀に、私はとんでもないところにやって来たと恐縮してしまう。手が変な汗で湿るのを感じる。
「これはどうもご丁寧に。仙波秋弥です」
「東雲春樹です。お世話になります。こちらは、私の同行者の湊華南です」
「みっ、湊華南です。よろしくお願いします」
緊張のあまり少し噛んでしまった。どうしてこの2人は全然緊張していないのだろう。もう少し大人になれば私もこうなるのだろうか。
「仙波様、東雲様、湊様ですね。よろしくお願い致します」
紗代さんが整った笑顔を向ける。愛らしさと貞淑さと可憐さと優雅さがすべて内包された、見る者を虜にする笑みに、私はすっかり魅力されてしまった。
「では、お屋敷の中へご案内致します」
優雅に回れ右をして屋敷を手で指すと、私たちを先導するように紗代さんは歩き出した。次の瞬間ー。
「こちら足下に段差がーーー。ひゃっ!」
紗代さんは今自分で指摘した段差に躓いて、盛大にすっ転んだ。
「…」
それは、あまりにも唐突で、あまりにも衝撃的なカミングアウトだった。さっきとは別の意味で言葉を失ってしまう。
美人で上品で完璧だと思っていたメイドさんが、自分で指摘した段差でコケるレベルのドジっ娘だと、5秒前の私は予想だにしなかった。
「…大丈夫、ですか?」
「…紗代さん、立てます?」
これには流石の春樹さんと秋弥さんも驚かされたようだ。2人とも少しのラグがあってから、紗代さんを助け起こしに向かっていった。
「…いてて。申し訳ございません。お恥ずかしいところをお見せしてしまって…」
紗代さんは仙波さんの手を借りて起き上がると、メイド服の裾を払っていく。その白い手に傷が出来ているのを私は見つけた。
「紗代さん、手、擦りむいてますよ。私絆創膏持ってるんで」
スーツケースとは別に持っていたトートバックの中から絆創膏を1枚取り出して、紗代さんの傷口にペタリと貼り付けた。
「ありがとうございます。湊様」
恥ずかしそうに俯きながら、紗代さんは再び屋敷に向かって歩き始めた。今度は、慎重に足下を観察しながらゆっくりと。それを見ているうちに、私の中で勝手に紗代さんに対する親近感が湧いてきた。
「紗代さんって、結構ドジなんですか?」
仙波さんが遠慮なく切り込んでいく。それを聞いて、紗代さんは羞恥に頬を染める。
「そうなんです。小さい頃からおっちょこちょいで、よくお姉…姉に助けてもらっていました」
屋敷の扉の前に辿り着く。両開きで模様の入ったガラスがはめ込まれている。金色に輝く、多分真鍮製であろうドアノブを紗代さんが回して、私たちに先に入るように促す。
玄関の先は、広いホールになっていた。赤い絨毯が敷き詰められ、南向きに設置された窓から陽光を取り込んだ室内は、開放的で豪奢な雰囲気だった。晴れていればもっと魅力的だったはずだ。
ホールにはソファとローテーブルが何組か配置されていて、その1つを使って数人の男女が談笑している。その奥にはカバーを被せられたグランドピアノが置かれている。
「先にご主人様のところへご案内させて頂きます」
真っ直ぐ進んで、ほぼ中央にある螺旋階段を登っていく。2階を素通りして3階へ。
階段を登りきると、正面の窓からは庭園の様子がよく見えた。その向こうに、私たちが乗ってきた仙波さんの車も微かに見える。
左手側に4つ、右手側に1つドアがある。紗代さんは「こちらです」と右手側に進み、ドアを開けた。その先は細長い廊下になっていて、間隔を空けて左右に2つずつ木製の扉がある。
右側手前のドアの前で紗代さんは立ち止まり、コンコンとノックをする。気のせいかもしれないが、ノックの音まで澄んだ綺麗な音に聞こえてくる。
「ご主人様。仙波様、東雲様、東雲様の同行者の湊様かお見えになられました」
「ああ、入って頂いてくれ」
中から聞こえてきたのは、張りのあるバリトンボイスだった。中にいるであろうこの豪華な屋敷の主人を想像して、またも緊張が走ってくる。
仙波さんを先頭に中へ入っていく。私は春樹さんの後ろに張り付くようにして恐る恐る一歩踏み出した。紗代さんは中に入る素振りを見せなかった。ただ、私にだけ聞こえるように小声で「ご主人様は優しいお方ですよ」と緊張をほぐしてくれた。
中にいたのは、40代くらいの男性が1人。見るからに高級そうなグレーのスーツを着て、知的な雰囲気を醸し出している。
「やあ、よく来てくれたね」
意外にもフランクな口調でこっちに向かいながら話しかけてくる。まずは仙波さんの前に行って、互いに両手で握手を交わす。
「久しぶりだね。仙波くん」
「いつもお世話になっております。章紀さん」
「今は忙しいから厳しいけど、時間が空いたらまた君の店に足を運ばせてもらうよ」
「ええ、是非。いつでもお待ちしております」
秋弥さんはいつものそれとは違う締まりのある社交的な笑みを浮かべながら、歯切れよく章紀さんと話している。私たちの前ではかなり緩んだ表情をしているので、少し新鮮だった。
「東雲先生。その節は娘が大変お世話になりました」
「いえ、大したことは。あれから娘さんはお元気でしょうか?」
「ええ、今はイギリスの大学に留学しているので、今日は参加出来ませんが。ひどく悔しがっていましたよ」
「お元気なら、何よりです」
続いて春樹さんと会話する。娘さんがお世話になった先生という立場だからなのだろうか、仙波さんのときとは違い畏まった態度だ。
対する春樹さんは、どうも会話のキレが悪い。生徒の父親相手というのもあって、流石に緊張しているのかもしれない。
最後に、私の目の前へやって来る。少し屈んで、私に目線を合わせてから、語りかけるようにゆっくりと尋ねてくる。
「君は、湊華南さん、だね?」
「はっ、初めまして。湊華南です。本日はお世話になります」
「こちらこそ初めまして。鷹司家当主の章紀です。よろしくお願いします」
「はいっ!よろしくお願いします」
章紀さんは優しく微笑んだ。威厳のある人物を想像していたが、話しやすい人でよかったと私は心の底から安堵した。ほんとによかった…。
仕事のことで話があるという仙波さんを残して、私と春樹さんは先に部屋を出た。外では、紗代さんが待機していた。
「仙波様はまだ中でしょうか?」
「はい、彼はまだ話があるそうで」
「でしたら、先にお2人をお部屋の方へご案内致しますね」
階段を降りて、さっきは素通りするだけだった2階で廊下に出る。いくつものドアが並んでいるこのフロアは客間だと紗代さんが説明してくれた。数えてみると、全部で10室あった。改めて、このお屋敷の規模の大きさを実感した。
「こちらがお2人のお部屋になります」
215と彫刻された真鍮製のプレートが打ち付けてあるドアの前で、紗代さんは春樹さんに鍵を渡した。鍵には部屋番号入りの木製のシックなキーホルダーが、キーリングで繋げられていた。
いや、そんなことより、今の紗代さんの発言に気になる点があったような…。聞き間違いかな。
「すいません。もう一度いいですか?」
「こちらがお2人のお部屋になります」
聞き間違いじゃなかった。春樹さんもポカンとしている。私たちは目を合わせて「今2人の部屋って言ったよね?」「言いましたね?」「2人って僕と華南のことだよね?」「そうですよね?」と視線だけで意思疏通をする。アイコンタクトは人類が生み出した最高の発明だ。
「あれ?お2人って恋人同士ですよね?何か不都合でもありましたか?」
紗代さんの方も合点がいかない表情をしている。その勘違いを正すべく、春樹さんが行動を起こした。
「あの、僕と華南は、恋人同士ではないのですが…」
その後、あわや切腹もしかねない勢いで紗代さんが必死に誤り倒している間に仙波さんがやって来て、状況を認識して文字通り笑い転げていた。
春樹さんは気まずそうにしていたが、私は自分と春樹さんでもちゃんとカップルに見えたことが嬉しくて、緩む頬を見られないようにずっとそっぽを向いていた。