第1章⑥
華南が荷造りをしている頃、秋弥は神奈川県にある小さな居酒屋を訪れていた。早い時間ではあるが、週末を控えているので、店内にはそこそこ客が入っている。
カウンターの右端に陣取った秋弥の隣では、度の低い丸眼鏡をかけた神経質そうな女性が、ゆっくりと手元のグラスの中身を減らしている。
「仙波くん、明日鷹司さんの屋敷でパーティーなんでしょ?」
「そうだよ。文ちゃんも行きたかった?」
「私はパス。そういう人が集まるイベントが嫌いなの知ってるでしょ。またどうぞご贔屓に、って挨拶だけ代わりにしといて」
御子柴文香。神奈川県にある古書店の店長であり、秋弥とは大学時代からの友人である。文香もまた、章紀とは面識があるが、屋敷を訪問したことはない。
骨董品と古書、モノは違えど似たような業界にいる2人は、こうして度々会っては情報を交換している。大学時代よりも、2人で出かける回数は増えている。
「噂に聞いたんだけどさ」
「ん?何?」
「仙波くん、可愛いストーカーに付きまとわれてるってホントなの?」
興味半分心配半分といった様子で、文香は切り込んでくる。
「…それ、誰から聞いたん?」
「教えない」
珍しく苦い表情を見せた秋弥に対して、文香の嗜虐心がくすぐられた。いつもは人を転がすのが上手い秋弥にからかわれる立場だが、今回は見事に逆転した。
「まぁ隠すようなことでもないけどさ。ホントっちゃホントだよ。ただ、ストーカーって言うとちょっと大袈裟過ぎるかな」
「被害とかなかったの?」
「…毎日店に来て『好きです付き合って下さい!』って告白されたくらいかな」
「…あはははははははははは!何それ!?面白すぎるでしょ!」
文香は爆発したかのように大声で笑い出した。店内の視線という視線が一瞬だけ文香に集中して、また散っていった。
「あわや家にまで押し掛けてくる勢いだったからさ、それは勘弁してくれって言って、何とか収めたけど」
秋弥は梅酒の注がれたロックグラスを傾けながら、情報の出所を考えていた。恥ずかしい。この事を他人に話すのはあまりにも恥ずかし過ぎる。
「で、その子と付き合ったの?」
「まさか。相手は大学生の上にまだ未成年だよ」
「歳の差なんて大した問題じゃないでしょ。流石に高校生だったら引くけど」
「いやいや。俺も27だよ?流石に7つも8つも歳が離れてるとさぁ」
「そんなのはどうでもいいでしょ。それで、どんな子なの?美人系?それとも可愛い系?ショートヘア?やっぱりロング?」
文香が席から身を乗り出して、秋弥の方へにじり寄ってくる。
「…文ちゃん?ちょっと怖いよ?」
「っていうか写真とかないの?1枚くらいは撮ってるんじゃないの?ちょっとスマホ見せないよ」
更に文香が迫ってくる。端の席で後ろに逃げ場のない秋弥は、ホラー映画でゾンビに追い詰められる主人公の気分を味わった。
何か気を逸らせるものはないか。店内をぐるっと見回した秋弥は、テレビで報道されていたニュースに目が行った。
「…この事件、そろそろ時効だったんだ」
「え?ん、ああ、そうなのね」
報道されていたのは、7年前に起きたとある窃盗事件だった。都内の会社役員の家に、空き巣が入ったという事件だが、これが2人の脳裏に焼き付いていたのには理由がある。
その家に保管されていた数点の骨董品が盗難対象だったのだ。しかも、値の張るものばかりを。骨董品に精通した人物の犯行だと警察は判断し、当時2人が師事していた教授の下にも担当の捜査官がやってきた。
ニュースでは、ナレーションと共に当時の報道映像が流れていた。他のマスコミや、近隣住民なんかの姿も映っている。
「って、そんなことはどうでもいいでしょ。それより早くスマホ出しなさいよ」
結局、その後は酔っ払った文香をあしらい続けて有耶無耶のまま終わらせた。
典型的な酔っ払いと化した文香を何とかタクシーに乗せて帰してから自宅に戻った秋弥は、着替えもせずにそのままデスクへ直行した。居酒屋で見たニュースで報道されていた窃盗事件。それについて引っかかっていることがあった。
デスクトップのパソコンを起動して、「盗品一覧」と銘打たれたファイルを開く。稀にだが、秋弥の店には盗品が持ち込まれることがある。買い取る前に警察へ通報するために、公表されている盗品に関してはデータを収集してあるのだ。
下へスクロールしていく。目当ての情報はすぐに見つかった。
7年前に起きた窃盗事件。その事件で盗難被害に遭ったのは、陶磁器や壺を中心とした、扱いに細心の注意が求められるものばかりだった。
秋弥が引っかかっていたものの正体は、それと一緒に盗まれた別の品だった。それは、割れ物ではなく1枚の紙だった。マルキ・ド・サド直筆の書簡とされるものだった。
マルキ・ド・サド。18世紀フランスの貴族だが、小説家としての方が有名である。その作品の特徴は、過度に暴力的で倒錯的な性描写である。作品の殆どは、彼が娼婦に対する性的虐待の罪で収監された後に、獄中で執筆されたものだ。
問題の書簡は、彼が投獄される前に友人に宛てて書かれたものの一部とされている。そこには解読不能な文章が書かれており、収監後彼が精神病棟へと移送される際に、その証拠の1つとして挙げられたものらしい。
何故これが盗まれたのか、秋弥は椅子に深く腰をかけて考え始めた。確かに価値のあるものだが、他の骨董品に比べればかなり劣っている。
もしかすると、本当の狙いは書簡の方だったのではないか?
そこまで考えついたところで、スマホの着信音によってその思考は遮られた。画面に表示された発信者の名前を見て、秋弥はげんなりする。
「もしもし。ストーカー」
「はぁい。秋弥先生のストーカーの鈴奈でぇす」
作り込んだ甘ったるい声。胸焼けすら起こしそうなそのトーンに、秋弥のテンションは更に下降する。
電話の主は、文香との飲み会でも話題に出た秋弥のストーカーである。政名大学の学生であり、秋弥の講義を受けていた学生の1人だ。
一体何が彼女の琴線に触れたのかは今でも分からないが、ともあれ彼女は秋弥にひどく惚れ込んでいる。それこそ、毎日店に通い詰めては思いの丈をぶつけてくる程には。
元来人に好意を向けられることを不快に思わない秋弥ではあったが、連日の訪問には流石にうんざりしていたし、はっきり言って仕事の邪魔だった。そこで、せめて店に来るのは週1回くらいにしてはと提案したところ、彼女はそれを週1回なら自分に会ってくれると都合よく解釈してしまった。
気が付けば、週1回は会って食事をし、時々電話をかけてくるような間柄になっていた。
秋弥は、別に彼女のことを嫌っている訳ではない。聡明で知的好奇心溢れる彼女は、教え好きの秋弥にとっては非常に優秀な手放したくない生徒である。
「ストーカーだって自覚あるなら、電話切ってもいいよね?」
「その場合、先生は可愛くて頭が切れる可愛い教え子を1人失うことになりますけど、それでもいいならブチッといっちゃって下さい」
最も、わざとやっているこの厚かましさと、あの甘ったるい声のトーンだけは何とかしてもらいたいと常々思っているが。
「で、何の用?俺そろそろ寝たいんだけど」
「寝る前に先生の声が聞きたかったんですよ。夢の中でも会えるかなって。先生も寝るなら私と一緒におやすみしましょ?」
「あ、何か眠くなくなってきたなー」
「だったら先生が眠くなるまでお話ししますね。睡眠導入音声です。夢の中で私を好き放題に出来ますよ。あ、もちろん現実でもいつでもオッケーです」
「…君さ、月に愛されてるねって言われたことない?」
「?それって、月の女神に負けないくらい可愛いって意味ですか?」
イカレてるって意味だよ。秋弥は声には出さず心の中で独りごちた。
「鈴奈ちゃんさ、7年前の骨董品窃盗事件って知ってる?」
「あ、そろそろ時効になるってさっきニュースでやってましたよね。高価な上に取り扱いが難しいものばかりを盗んでいったから、犯人は骨董品に詳しい人で、盗んだ品を売り捌くルートをちゃんと確保してる人なんじゃないかなーって思ってます」
確認してみると、彼女も居酒屋で秋弥が見たのと同じものを見ていた。犯人像はそのニュースでは一切報じられていなかったので、1人でそこまで考察できるなら大したものだと秋弥は舌を巻いた。
「流石だね。やっぱり鈴奈ちゃんは優秀だ」
「えへへ。その優秀さに免じて私と付き合ってくれませんか?」
「調子に乗るな」
スマートフォンのマイクに向けてデコピンを食らわせる。乾いた音がして、「あいたっ」と鈴奈も乗ってくれる。
「知ってるなら話が早いや。出来る範囲でいいからその事件について調べてみてくれる?鈴奈の主観でいいから考察も込みで」
性格はともあれ、彼女の優秀さは本物である。特に情報収集の速度と精度においては、秋弥を遥かに上回る能力を持っている。
「分かりました。明日から大学お休みだから調べてみますね」
「うん。よろしくね」
秋弥にとって、実際に起きた事件の考察は趣味のようなものでもある。特に今回のような骨董品が絡んだ事件では何度か、春樹と共に出した推理を警察に提供し、それが事件解決に繋がったこともある。
「あと、明日からちょっと旅行に行ってるから、何か分かったらパソコンじゃなくてスマホの方に送っといて」
「お土産期待してもいいですか?」
「一応聞いとくけど、何がいい?」
「先生の愛がいいです!」
「あー電波が悪くてよく聞こえないなーじゃあねーおやすみー」
通話を終了させたスマートフォンをベッドの上に放り投げて、代わりにリビングのテーブルに置いてあるシガーケースとジッポーを手に取って、ベランダに出る。
ハイライトを1本取り出して、慣れた手つきで火をつける。ゆっくりと深く煙を吸い込んで吐き出すと、紫がかった煙が空へと昇っていく。この独特な色合いの煙を見る度に、身体に悪いものを取り込んでるなと思うが、禁煙を決意したことは一度もない。
無意識に煙を追っていると、空が目に入る。一等星すら見つけられない分厚い雲の下でも、白銀の月光はぼんやりと届いている。
明日は荒れないといいけどなー。ごく小さな不安と共に、再び煙草の煙を秋弥は吸い込んだ。