表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アステリオスの密室  作者: 二階崇仁
第1章
5/9

第1章⑤

 パーティーの前日、私は小さなスーツケースに荷物を詰め込んでいた。会場は山奥の別荘、一泊二日の泊りがけで参加することになる。

 春樹さんとの泊まりのちょっとした旅行。嬉しさのあまり、鼻唄を歌いながら着替えを詰めていく。


 私が春樹さんと初めて顔を合わせたのは、小学校6年生のときだった。最初は機械のような無機質で冷たい人だと思っていたが、話していくうちに、感情の振れ幅が小さいだけで、素朴な優しさがある人だと理解した。

 そうして気が付いたときには、私は彼を好きになっていた。


 それなりに付き合いは長い。春樹さんが私をどう思っているかは大方想像できる。私は彼の恋愛対象の範囲には入っていない。

 救いなのは、春樹さんの周りに私以外に親しい女性はいないということだ。とはいえ、のんびり構えていては他の誰かと付き合ってしまう可能性もある。なので、柄にもなく最近の私はアピールをするようになった。

 例えば、メイクを研究してみたり、例えば、自分がより魅力的に見える服をチョイスしてみたり。中高と剣道一本で、オシャレに興味のなかった私にはハードルが高かった。けれど、春樹さんがそれに気付く様子は一向にない。仙波さんは毎回気が付いて褒めてくれるのに。


 今回の旅行で、いきなり付き合うとまではいかないだろうが、何らかの進展はあってほしい。

 そのためには、私から攻めていくしかない。

 一泊分の荷物と、等身大の決意を詰め込んだ私はその後、たっぷりと時間をかけて半身浴をした。





 東雲春樹が授業を終えて、事務処理を全て片付けた頃には、時刻は23時に差しかかろうとしていた。

 定時は22時だが、その時間に退勤できることは滅多にない。授業後に生徒からの相談があればもっと遅くなることもある。

 学校教員にもいえることだが、教育業界は残業が慢性化している。その上、残業代が発生しないこともザラにあるブラック業界だ。

 その点、春樹が勤務している一守数学ゼミナールはしっかりしている。残業代はきちんと加算されるし、繁忙期は難しいが週2日の休みもしっかり確保してくれる。あらかじめ申請し、他の講師からの了承も取れれば、今回の春樹のように、イベントに参加するための連休の申請も出来る。

 給料も充分な額。少なくとも、春樹の受け持つ生徒達は皆熱意と才能がある。この職場に巡り会えたことを、春樹は幸運に感じている。


「お先に失礼します」

 春樹は、職員室に残っていた同僚達に挨拶をして廊下に出た。生徒達が帰った後なので、教室の照明が消された廊下は暗く冷たい印象を与える。

 職員用の玄関から外に出ると、春樹は駅へ向かって歩き始めた。春物のコートが必要ないくらいの気温になるこの時期の夜の空気が、春樹は好きだった。


 自宅に戻った春樹は、冷蔵庫にストックしてあるゼリー飲料だけの簡素な夕食を済ませると、生徒達から回収した課題の添削を始めようとして、その手を止めた。明日のパーティーの準備がまだ手付かずだった。

 着替えと洗面用具だけを旅行鞄に詰めて、準備を済ませる。忘れないように鞄をリビングのソファの上に置くと、課題を寝室にある机まで持っていって目を通す。

 春樹が出題したのは難関国公立大の二次試験レベルの問題。複数の分野を絡めた発想の転換が必要になる難問だったが、どの生徒も、正解まではいかずともよく出来ていた。優秀さに思わず顔が綻ぶ。


 鷹司章紀の娘、舞花も非常に優秀な生徒だった。恐らく、春樹が3年近く勤務して担当してきた生徒の中で最も優秀だ。

 芸能人ばりのルックスに、明晰な頭脳。優秀な生徒ばかりが集まる春樹のクラスの中でも、一際異彩を放っていた。東京大学に合格したというは本人から聞いたが、その後の動向は知らされていないし特に興味もない。春樹にとっては、ただの教え子の1人だ。

 春樹が父親の章紀と会話したのは一度きり、舞花の合格報告に付き添う形で挨拶にやって来たときだった。

 舞花を担当していた春樹が主に応対した。娘の同様端正な顔立ちの、旧華族らしい上品さが漂う男だった。趣味の話題になり、章紀に合わせる形で秋弥から聞きかじった知識で応対した。

 正直、章紀と顔を合わせると考えると憂鬱になる。カリスマがあり話術にも長けた彼と会話していると、どんどん彼の作り上げた世界にに引き込まれるような感覚に陥ってくる。

 章紀の相手は他の招待客や秋弥に任せればいいか。春樹はそう判断して添削の続きをサクサク進めていく。


 全員分の採点とコメントを書き終え、それをファイルに入れてビジネスバッグの中に戻した。代わりに、スマートフォンを取り出す。

 一件だけメッセージが届いている。2時間前、送り主は華南だった。


 お仕事お疲れ様です。

 明日のパーティー、楽しみですね。ちゃんと荷物は準備しましたか?何があるか分からないので、着替えは多めに入れましょうね。それと、夜更かしして寝坊したらダメですよ。

 また明日の朝会いましょう。おやすみなさい。


 君は僕の母親かい?子供に聞かせるような注意書きに苦笑してしまう。事実、着替えは必要最低限しか用意してないし、既に日付は変わっているので華南の注意は的を射ているが。

 注意書きと、スマートフォンをあまり見ない春樹を気遣った返信不要の文面。年下の少女に気を回されていることが少しむず痒く感じた。


 華南は、少し変わったな。

 以前は、どちらかというと消極的で、こういう風に人に対し積極的に発言するタイプではなかったと春樹は記憶していた。そして、それが変わったのは両親の死後からだったことも。

 少しずつでも、あの不幸な出来事から立ち直っているのは、塞ぎ込んでいた華南を間近で見てきた春樹にとって感慨深いものがあった。

 同時に、1つの悩みも抱えるようになった。華南が自分に対して好意を向けるようになったことだ。

 華南が自分を好いてくれていることを、春樹は既に気が付いていた。華南に好意を寄せられること自体は、春樹にとって好ましいことであり、素直に嬉しかった。

 しかし、華南が自分に向ける好意は、純然たる恋ではないと春樹は解釈している。

 両親の死から立ち直らせてくれたことに対し、華南は春樹に対して恩義を感じている。自分から何か恩返しがしたいと主張してきたことからも、これは明白である。

 その恩義と恋心を勘違いした好意が、華南が自分に対して向ける感情の正体である。真偽はどうあれ、春樹はそう捉えている。

 だから、春樹は華南の好意に気付かない振りを続けている。一抹の罪悪感を抱えながら、華南が間違いに気がつくその日まで。

 どうしたものかなぁ…。

 胸に刺さったままの小さな棘は、一度自覚するとなかなか消えてくれない。

 今日も、明日もーーー。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ