第1章③
「いらっしゃい。結構早かったね」
春樹さんが、ドアを開けて出迎えてくれる。
長身でスラッとしている。というより、痩せすぎている。それは、彼の不健康な食生活が大きな要因のはずだろう。彼を太らせる、とまでは言わないが、最低限健康的な体型にすることが私の小さな目標だ。
その細い腕で私が持っていたスーパーのレジ袋を持ち上げると、もう片方の腕でドアを押さえて、中に入るように促してくれる。
「ちょっとだけ急いで来ました。お腹空かしてるかなぁって思って」
「急がなくても大丈夫だよ。買い物に行くなら僕に連絡くれれば良かったのに」
レジ袋をもう一度持ち上げて、荷物持ちくらいはしますよ、とアピールしてくる。その仕草がどこか可愛らしくて、私は小さく笑った。
「次からはそうしますね。お邪魔します」
三和土で立ったまま靴を脱ぐ。春樹さんは、レジ袋を持ったまま待ってくれている。靴が視界に入るように私はわざと、脚を曲げながら靴を脱いだが、春樹さんがいつもとの違いに気付くことはなかった。最初から期待してはいなかったが。
私専用となっている水色のスリッパに足を通し、廊下を進んでいく。左手に寝室、右手に浴室とトイレのドアがある。廊下を抜けて、リビングと繋がっているキッチンへと入っていく。春樹さんは調理台の上にレジ袋を置いて、リビングへと向かう。
「すぐ作りますね。その間に、ポストの中身回収して下さいね。前に私が来たときから一回も開けてませんよね?」
「そうだったかな?まあ、どうせつまらないチラシしか入ってないだろうからなぁ」
「いいから行く!大事な書類とか来てたらどうするんですか」
「…分かったよ。行ってきます」
面倒くさそうに、春樹さんは再び玄関へと向かっていった。
すぐに使わない食材を冷蔵庫にしまった後、その横にある棚から、自分のエプロンを取り出す。洗濯され綺麗に畳まれたエプロンから春樹さんと同じ香りがすることに、幸せを感じる。
手を洗って、調理に取り掛かる。今日の昼食はトマトパスタだ。
大きな鍋でお湯を沸かし始める。その間に、食材をカットしていく。ニンニクは微塵切りに、薄切りのベーコンは短冊切りに。
トマトは湯剥きする代わりに、フォークに突き刺してそのままガスコンロで炙る。こうすると水っぽくならなくて美味しくなるんだと母が言っていた。
戻ってきた春樹さんは、リビングのソファに腰を下ろして、郵便物を確認していく。ほとんどはろくに目も通さないで放り投げていくが、真っ白な封筒でその手を止めた。訝しげに何度か表と裏を交互に見返してから、封を開けて便箋を読んでいく。やがて読み終えたのか、それもチラシの1番上に置いた。
お湯が沸いた。2人分の乾燥パスタと少量の塩を鍋に入れて、冷蔵庫に貼り付けてあるまだ新しいキッチンタイマーをスタートさせる。
パスタを茹でている間に、ソースを作っていく。たっぷりのオリーブオイルでニンニクをソテーしたら、ベーコン、トマトの順番に加えていく。
「大学はどうだい?」
リビングから春樹さんが話しかけてくる。
「まだオリエンテーションばっかりで何とも言えないです。サークルの勧誘がしつこいのはうんざりですけど」
「どのサークルも部費獲得の為に躍起になるからね。どこかに入るつもりはあるのかい?」
「いえ、特には。これといって興味を引かれるものがなかったんで」
話題は私の近況から、春樹さんの仕事の話へとシフトする。
彼の職業は、数学の塾講師だ。
さっき私が電車で通り過ぎた市のメインターミナルの側にある数学専門の「一守数学ゼミナール」に勤務している。彼が研究者の道を進まないと知ったとき、父はかなり悔しがっていた。
高校生の頃に一度だけ、春樹さん目当てで見学に行ったことがあるが、そのレベルの高さに私は入塾をすぐに諦めた。自慢ではないが数学は苦手だ。私の頭では今でも付いていけない。
話しているうちに、パスタが茹で上がった。しっかりとお湯を切ってから、温めておいたトマトソースと混ぜていく。乳化したら火を止めて、皿に盛り付け、パルメザンチーズとバジルをのせて完成だ。
皿をリビングのテーブルへと運んでいく。春樹さんはその間に、食器と水を用意してくれた。
「いただきます」
「今日もありがとう。いただきます」
出来たてのパスタを、春樹さんは美味しそうに食べ進めていく。彼は私が何を作っても美味しそうに食べてくれる。
春樹さんの背後にはソファがあり、その後ろには壁一面を埋め尽くすほどの大きさの本棚がある。中身は9割ほど埋まっていて、専門書からライトノベルまで、バラエティに富んでいる。
この部屋に必要最低限の家具家電以外にあるものといえば、大量の本だけだ。休みの日は一日中本を読んで終わると言っていた。
たまに友人に連れ出されるとき以外は本と食事の買い出し以外で家から出ないと言っていたので、今度どこかに連れ出そうと思ったが、2人で出かける想像をした途端に気恥ずかしくなり、先送りにすることにした。
「ご馳走様でした。美味しかったです」
「ご馳走様でした。お粗末様です」
食事を終えて、皿洗いくらいは僕がやるよ、という毎度の申し出を固辞して、手早く後片付けを始める。ついでに夕飯の仕込みもしようかな、と考えていたタイミングで、インターホンが鳴らされた。
「…部屋が騒がしくなるな」
誰が来るか分かっているかのような春樹さんは、腰を上げて玄関へと向かう。基本的に、この家を訪れるのは私の他には1人しかいない。
少しして、玄関から別の男性の声が聞こえてくる。春樹さんのそれとは違う軽快な足音を響かせてやって来た彼は、ケーキ店の箱を手にキッチンに入ってくる。
「華南ちゃんおひさ!今日の靴可愛いね」
それを春樹さんの口から聞くことが出来たなら、今日はもっといい日だったと思う。