第1章②
私の両親は、既に他界している。
半年前のことだった。数学者だった父は、母と一緒に学会の会場がある静岡へと車で向かっていた。その途中で、運転を誤って崖から落下したらしい。
父と母が事故で亡くなったと警察からの電話で知らされたときも、変わり果てた2人を前にしたときも、私は泣かなかった。周りの知らない大人達は「強い子だね」と優しく褒めてくれたが、そうじゃなかった。
私は、理解出来ていなかったのだ。
2人が事故に遭って、全く別の何かに変質する一連の流れは、それまでごく普通に生きてきた私にとって、あまりにも現実味がなかった。
いつかひょっこり2人で帰ってきて、お父さんがまた絶妙にセンスの悪いお土産を買ってきて、お母さんとそれを笑って、3人でご飯を食べて…。
もう二度と訪れない想像の日常の方が、私には現実だと思えた。
父も母も、両親はもう他界していたし、親戚にも会ったことはなかった。葬儀は、父の下で学んだという学者さん達が手伝ってくれた。というより、ほとんど任せきりにしてしまった。
通夜の最中も、告別式の火葬の瞬間でも、私は泣かなかった。しかし、片手で持てる程度の大きさの箱に入れられた遺骨を持って家に帰ったとき、わたしはようやく理解した。
もう、お父さんもお母さんもいないんだ…。
その瞬間、泣いた。泣いた。体中の水分が全て出て行くような勢いで泣いた。そして、涙が止まった後には心が空っぽになった。
次の日から、私は家から出ることが出来なくなってしまった。何の前触れもなく、命が失われる外の世界が怖かったから。
大学受験を間近に控えていたが、もう受験する気もなかった。毎日高校の担任や友人がやって来ては、ありきたりなお悔やみや励ましの言葉を残していった。
そんな私が今こうして大学に通い、普通に外を歩けているのは、ひとえに春樹さんのお陰だ。
春樹さんは、父のお気に入りだった。彼がまだ大学生だった頃から、父は何度も自宅に招き、発表されたばかりの論文に対して議論していた。
亡くなる数日前にも、春樹さんは来ていて、私と仕事の様子や、受験勉強の進捗具合を話した。
「先生には、恩を返しそびれた。だから、僕が受けた恩は代わりに君に返していこうと思う」
葬儀が終わってからも、春樹さんは毎日、私の家へ足を運んでくれた。空虚な励ましの言葉なんてかけずに、ただ当たり前のようにやって来ては、側にいるだけ。
その暖かな空白が、私の心をゆっくりと、でも確かに埋めてくれた。
ありがたいことに、両親は私が大学に通って就職するまでには充分すぎるほどの遺産を遺してくれていた。
だいぶ休んでしまったが、私は大学受験をする決心を固め、猛勉強を始めた。春樹さんの友人にも手伝ってもらって何とか、政名大学にギリギリ合格出来た。
私が春樹さんに何か恩返しをしたいと思ったのは、合格発表から少し経った頃だった。
その旨を本人に伝えると、「先生からもらった恩を返しただけだしまだ返し足りないから」と断られてしまった。お互いに頑固者なので、議論は平行線を辿ったまま終わらないかと思われたが、その様子を聞いた春樹さんの友人がとある提案をした。
それが、春樹さんの家で家事をするアルバイトだ。
春樹さんはとにかく食事に頓着しない。放っておくと3食ゼリー飲料とサプリメントで済ませようとする。それを見かねたというのも、父がよく春樹さんを連れてきた理由の1つだった。
両親の不在が多かった私は、家事を一通りこなすことは出来たし、料理は得意だった。
そこで、私が週に何度か訪れて料理を作る。春樹さんはそれに対して賃金を支払う。という妥協案を思いついた訳だ。
以来こうして、私は週に大体1度、春樹さんの家を尋ねては、料理をするようになった。
私にとって恩人であり、特別な存在である春樹さんとの時間は、今も昔も大切なものだ。