1、今日、逢えて良かった
素敵な喫茶店を見つけた。繁華街からひとつ外れた通りにある雑居ビル。その地下にある喫茶店だ。BGMはジャズが流されている。音量は小さめ。ジャズには詳しくないが、多分有名な曲が流れている。
煙草が吸える喫茶店が少なくなったのは残念だ。珈琲の薫りが煙草のせいで楽しめないという考えはわからなくないが、煙草とともにゆったりと珈琲を楽しみたい僕には悲しい時代だ。
彼女と逢う前には、ここで時間を過ごす。この喫茶店を見つけた日に彼女と出会ったから。そう思うだけでも価値がある気がする。まだ三回目の珈琲を味わいながら、頭の中で言葉遊びをする。
きっかけは何気ない事がいい。運命という言葉は便利だ。
僕は煙草の火を消しながら、息をゆっくり吐き出す。
珈琲を味わいながら、彼女の仕草を思い出す。どこか照れるような表情。ソファにちょこんと座る。彼女の化粧は色付けが派手ではない。しっかり化粧されているが、彼女の魅力を消さない、表情がよく読める、そんな程度だ。
僕は珈琲を飲み干し、もう一度、深呼吸をしてから席を立つ。彼女との約束の時間まで、あと一時間。部屋から近いこの場所に隠れ家的な喫茶店を見つけられたのが本当に嬉しい。
部屋に戻ると、僕はこの前買ったアロマキャンドルに火を点ける。ベルガモットの香りだ。珈琲の方が好きだが、紅茶も好きだ。紅茶ならアールグレイ。
枕元の小皿にイランイランの精油を三滴。これくらいの組み合わせ、これくらいの香りの強さがいい気がする。
僕は洗面所で自分の顔を確認する。髭を再度確認してから、歯を磨く。煙草を吸うからには歯磨きは丁寧に。だが歯磨きの後に煙草を吸ってしまうのは許してもらいたい。
ソファに座り、爪を確認して軽くヤスリをかけて磨く。爪は短くしてある。
僕はペットボトルを2つ冷蔵庫から出す。彼女はジャスミンティーが好きだと言っていた。
チャイムが鳴る。
彼女の黒く長い髪が部屋に入る時にシャンプーの香りを漂わせる。彼女をソファに座らせてから、僕はネクタイをきちんと締めていた事に気付く。軽く緩めて言葉を交わしながら、彼女の香りを口に含む。
会話に内容なんかない。優しく、それでいて軽く、それなのに緊張している、不思議なハーモニーが彼女の素敵なところ。
「今日、逢えて良かった。今日ね……」
彼女の軽い愚痴を聞く。聞き流している。僕は自分の意見なんて話さない。ただ彼女の話に耳を傾ける。
彼女は深刻な話を僕にはしない。軽い笑いになるような話題しか見せない。
たまに逢うんだ。だからこそ軽い話でよい。二週間を長いととるか、短いととるか……。
彼女の気持ちはわからない。きっと彼女は僕の気持ちを理解できない。でも、こう思ってるかな? こう考えてるかな? そう考えながら話すのは悪くない。
彼女に触れる時間は大事だ。短くて良い。あまり逢えないからこそ、いとおしく思えるのではないだろうか?
彼女の髪をそっと撫でる。柔らかな、さらりとした髪だ。彼女は髪が自慢らしい。彼女の髪先を優しく自分の指に絡ませる。彼女は顔を少し赤らめる。
僕は、彼女の髪が好きだ、と伝える。
「えへへっ」
彼女は言葉で照れた事を表現する。照れている事より、照れたと表現するところに彼女の魅力はあると思ってる。
僕は何を話しただろう。
自分の言葉に記憶がない。本当は覚えておかなければいけない。だが彼女の香りに、彼女の温もりに、彼女の笑顔にすべて忘れてしまう。
忘れてしまう。
忘れてはいけないのに。
いや、夢を覚えてられる人なんかいない。
例え、悪夢だとしてもだ。
ジャスミンティーと彼女の香りが混じって、僕の舌に残った。




