五話 アークライト
「あなたと付き合う、それにはあなたの言う通り裏の事情があります」
そう言った錦の言葉に茫然とする。
自分がそうであってほしいと思っていた通りの答え。
だが、その答えを聞いた途端、僕のセカイは崩れ去った。
色も香りも音も……全てが消え去った。
気づかないうちに彼女との関わりによって構築されたセカイ。
思いもしないほどに急速に、思いもしないほどに広大に僕の中に広がっていたセカイ。
その全てが崩れ去ってしまった。
ぽっかりと心の中に空いた穴。
これほどの衝撃を受けることは、予想はしていても覚悟はできていなかった。
全身から力が抜けそうになるのを必死に堪え、錦に問いかけようとする。
「それは……どういう…………」
その時。
「あ……ああ……あああ!!!!!!」
背筋がいきなり凍りつくような感覚。
忘れもしない悪寒。
それは昨晩浴びたものと全く同じような恐怖だった。
だが、この間とは少し違う。
まさに目の前にいるかのように、そして首元を握られているかのように感じる息苦しさ。
全く全身が動かない。
声をあげることもできない。
「泰護さん……?」
錦が僕の背中に声をかける。
僕の急変に困惑しているような声音だ。
だが、今の僕にはそんな声に割く余裕はない。
必死で気を保つ。
「くぅ……」
どれほど気を強く持っていても、身体の力はどんどん抜けてゆく。
ついには立っていられず、膝から崩れ落ちてしまった。
いや、身体が浮き上がるような感覚……?
「泰護さん! 泰護さん! どうしたんですか! 泰護さん!」
錦の声が近くで、遠くで聞こえる。
視界がぐにゃぐにゃと揺れ、周囲の音も大きくなったり小さくなったり。
全身が浮き上がるような感覚は、いつのまにか体を強く締め付けられる感覚に変わっていた。
頭がガンガン鳴っている。
ただただ苦しく、意識がぼんやりとしてゆく。
なにかが頭の中を弄り回しているような感覚。
突然目の前に光が散った。
無理やりだれかに見せつけられるかのように、過去の忘れたい思い出がフラッシュバックする。
思い返せば今まで周りに迷惑をかけてばかりだった。
誰にでもあるような日常のちょっとしたミスから、自分が忘れたくても忘れられないような大きな失敗まで。
日常の小さなミスもバラの棘のように心に小さな、しかし確かな傷を残す。
取るに足らないような、周りの人達がすぐに忘れるような傷だが、それでもその痛みは本人の心に強く残る。
そうした日常のミスの積み重なりが自分だけでなく周りを傷つけ、気がつけば大切な人が去っていく遠因になっていた。
忘れたかった小さなミスが、思い出したくもない大きな失策が、忘れたかった感情を想起させる。
エンドレスに流れる映像。
大きなものから小さなものまで。
何度見ても慣れることは……ない。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
何十回見させられただろう。
延々とこれまでの無数の失敗の映像が繰り返される。
何度も押し寄せる生々しい負の感情。
負い目や後悔といった様々な感情の刃が何度も研ぎ直されて鋭く生々しい傷を心につけていく。
最早何も考えることはできない。
ただ、願うばかり。
もう嫌だ。
殺して……くれ……
消えて……しまいたい……
気がつけば身体の苦しみは消えていた。
いまはただ、心が締め付け引き裂かれるような痛みが強く浮かんでいる。
身体の痛みよりもさらに強く響く心の痛み。
そして、切り刻まれたその傷から何かが溢れ出すような感覚。
ただ、何もかもを諦め、消えてしまうことすら諦め、深い闇に沈み込んでいく。
もう……抗う気力は微塵も残っていなかった。
ただただ、流れに身を任せて暗い闇の中に深く深く沈んでいった……。
「ぁぁぁぁああああああああ!!!!!」
突然、その無限の暗闇の遥か彼方に一筋の光。
そこから微かに聞こえる少女の叫び。
何か惹かれるようなその光に無意識に手を伸ばす。
「あぁ……」
届かない。
すぐにその光の筋は暗闇の中に霞み消えた。
再び訪れる暗黒の世界。
その中でただ一人。
「……ぇり……たい」
どんどん薄れてゆく意識。
その片隅で呟く。
「かえりたい」
かえらなくていい。
「帰る必要はない」
あの子の元へ。
「かえらないと」
あの子にはうらぎられた。
「かえりたい」
お前はだれだ。
「僕だよ」
僕は誰だ。
「僕だよ」
君は僕だ。
向こうに帰る必要はない。
ここが君の場所だ。
「ここが僕のいるべき……」
そう呟きかけて気がつく。
「僕は誰と話して……」
いや、それどころではない。
ここはどこだ。
何が起きた。
昨日はこんなことはなかった。
急速に意識がはっきりする。
意識の明瞭化に従い、周囲の変化にも気がついた。
「明るく……なってる?」
闇に閉ざされた世界に、光が届いていた。
その明かりを見て完全に思い出す。
夜の湖畔で、何者かに襲われたことを。
近くには錦がいたことを。
そして、何かが僕に話しかけてきたことを。
「泰護さん! 起きてください! 泰護さん!」
泣きそうな声が世界に響いた。
明瞭な思考の中で女の子を泣かせてしまった。
また後悔が一つ生まれた。
だがそれはさっきまでとは違う、前を向くことのできる後悔だった。
錦の声が響き続ける世界。
その世界にもはや闇はなかった。
光に満たされた世界。
その中心に横たわり、世界が崩れ落ちてゆく様をただ僕は眺めていた。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
目を覚ますと目の前には錦の顔があった。
昨日と同じ、不思議な蚊帳の中。
違うのは、その錦の様子だった。
「良かっ……たぁ……」
ぼろぼろと大粒の涙を零すその顔の右半分が真っ赤に染まっている。
制服はボロボロになり、いたるところから血が溢れている。
右足は酷いアザになり、僕に覆いかぶさるように伏せている。
「いきなりっ……あんなことに……うぁぁあ……」
言葉にならない言葉を口にしながら、むせるように号泣する。
何かを言うだけの力は残っていない。
ただ微かに動く右手で、僕の胸に顔を埋める錦の背を精一杯撫で続けるだけ。
暗闇の中、僕らの周りにはすすり泣く声と岸に寄せる波の音だけが静かに響いていた。
****************
道の先に錦の家が見えた頃には9時をまわっていた。
体力の回復した僕が血にまみれた彼女を背負ってここまで運んで来た。
錦が自らに行った、そして錦の指示に従い僕が仕上げを行った応急処置により、彼女の出血はすでに止まっていた。
錦に自宅の場所と行き方だけを知らされ、暗い夜道を歩く。
背中には僕のシャツを羽織った彼女がすーすーと寝息を立てている。
「結局……何があったんだろう……」
一体何が起きていたのか。
結局彼女はただ慟哭するばかりで、何も答えないままだった。
ただ、その様子や彼女から漏れ出る言葉からわかることはあった。
「昨日みたいに何かに襲われた、そして、彼女は僕を守るために戦い傷を負った……」
グッと奥歯を噛みしめる。
それと同時に胸の奥のどうしようもない感情を必死で押し殺す。
自分の至らなさ、情けなさ。
「本当に……情けない」
本来は男として、先輩として彼女を守る立場であるべきだった。
そうあるべきだったのに……
「また……動くことができなかった……」
その結果、彼女は重傷を負った。
唇を噛みしめる。
正直、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
何者か分からない奴に襲われるし、錦には偽の告白をされる。
そうかと思えば、その彼女がこんなにボロボロになりながらも僕を救ってくれた。
彼女の気持ちも、現状も、何もわからない。
分からないことはいくら考えても答えが出ない。
そんなことはわかってはいるものの、それでも気持ちを立て直すには多少の時間が必要だった。
再び顔をあげ、前を見据える。
あと数メートル。
再び足を前に出そうとした僕の前に、一人の影。
思わず足を止める。
何者か、暗闇の部分にいるため正体が分からない。
怪我した少女を背負っているところを見られるとかなり面倒なことになる。
警戒しながら立ち去ろうとすると、呆れるほど聞いた声が語りかけてきた。
「……よう」
こちらへと歩みを進める影。
立ち去ることもできず、彼がただ近づいてくる様子をながめる。
街灯の光にその姿が照され、その正体がが僕の前に表れる。
「……お前か」
寅次郎が、いた。
ちらりと僕の背中に目を向け、くるりと背を向ける。
どういう風に思われたか、寅次郎が何を考えているのか。
真意を計りかねる僕に対し、今まで聞いたことのないような真剣な声で彼は話しかけてきた。
「はよいこうぜ。まだ間に合うと思う」
「病院には行くなって錦さんに言われたんだ。家に運んでくれって。親も医者だから、実家の方に運んでくれって。そっちの方が安心するって」
寅次郎の言葉に焦りを覚え、早口でまくしたてる。
彼女の仕事の事情、そして怪我をした状況。
そういったものを考慮すると、僕も彼女の判断に異議はなかった。
だが、そんな事情を知らない寅次郎にどう説明すればいい?
どうすれば病院に行かないことを納得させられる?
考えがまとまる事はないまま、即興で口にした言葉はお世辞にも説得力があるとは思えなかった。
弁を弄せばボロが出る。
だったら、口を噤み目で訴えるしかない。
「そんな顔すんなよ…………わかっとるわ、色々あったこととか、どんな事情を抱えとるかくらい……」
僕が必死に巡らせた思案をよそに、寅次郎が静かに息をつく。
驚き目を向けたその顔は、深い色に包まれていた。
「お前……分かってるって……」
「あぁ……俺はこいつと幼馴染なんや。こいつの事情は全部知ってる」
耳を疑った。
「そんな話……嘘だろ?」
「本当や」
言葉が出ない。
固まった僕を尻目に、寅次郎は背を向ける。
「とりあえず、守世の家に案内するからはよ連れてくで」
いつとの飄々とした感じはなく、ただ頼り甲斐のある男がそこで街灯の灯を浴びていた。
アークライトは人工灯って意味です。
そーいえばシュタゲゼロでもこの言葉が使われてましたね。
再開はいつになるのでしょうか……楽しみです。