四話 夕焼けの翌日は。
七限終了を知らせるチャイムが鳴り響く。
数学の教師が完璧なタイミングで説明を終える。
「……というわけで、今日やったところは平面ベクトルの基本だからしっかりできるようにしておけよ」
その言葉で授業は終わり、その瞬間僕は赤ペンを机の上に投げ出した。
ノートには板書と無数のメモ。
ノートだけを一見すれば賢そうに見えるが、理解はしていない。
「……数学なんか嫌いだぁ」
礼をしたあと、質問にいく数人の生徒たち。
僕も分からないところを聞きに行こうかと思ったが、そもそも分からないところが多すぎて、またどう分かっていないのかも分からないため断念する。
というか質問のために並ぶ気力がない。
「おい! たいご〜! 部活行こうぜ!」
「帰ります」
「ちょいちょいちょい待ちぃや! ノータイムで断るなよぉ! お前最近来てないんやからたまには顔出せって」
「今日は寝不足。早く帰って寝たい」
「あ〜、寝不足の原因は守世ちゃんの件やな! そら眠れんわなぁ〜」
茶化してくる寅次郎に成敗を加え帰路につく。
大切な彼の彼を抑えながら悶絶している彼を救う気は毛頭ない。
奴に背を向けさっさと足を進める。
結局昼は寅次郎のいいように引っ掻き回されてしまった。
根掘り葉掘りとまではいかないものの色々な話をさせられ、終始奴のペースで会話が進んだ。
錦とも馬があったようだ。
初対面の女の子とあそこまで打ち解ける事ができるのは才能だろう。
僕にはない才能が少し羨ましく感じた。
そんなことを考えながら下駄箱で靴を履き替え、学生用玄関を出る。
日光がとても眩しい。
思わず、右手を日傘のように天にかざした。
初夏なだけあって日が長い。
もう四時だと言うのに真昼間のように太陽が照りつけている。
蝉のジワジワという鳴き声を聴きながら歩きながら、手に持ったハンドタオルで汗を拭う。
少しずつ近づく校門。
あと五メートルといった所まで来たところで、僕は思わず足を止めた。
「……なんか僕の行く先に、必ず君がいる気がする」
校門の隣の大楠の下に、錦が立っていた。
近づきながら声をかけると少し顔を赤くして錦は笑った。
「気のせいですよ。みんなここから帰るんですからタイミングの問題でしょう」
「人を待ってたように見えたんだけど」
「友達を待ってたんですよ。泰護さんを待ってたんじゃないです」
そうなのか。
納得して、恥ずかしくなった。
つい、昨日からの流れで彼女が僕のことを待っているのだと思い込んでしまった。
「くぅ……」
これは、かなり恥ずかしい。
口から変な声が漏れ、顔が熱くなる。
思わず彼女から顔を逸らしてしまう。
「いや、それなら、その……悪かっt」
「でも、まあ、せっかくなんであなたと帰っても良いですよ」
その場から去ろうとした僕の言葉に被せて錦が口を開いた。
思わず錦の方に振り向くと、薄っすらと顔を染めながら彼女はそっぽを向いた。
「べ、べつに待ってたわけじゃないんですけど、せっかくなんで帰りましょう!」
「え、でも、友達は……?」
「先に帰ったと思います! 早く行きますよ!」
「え、いや……え!?」
「ほらいいから! ここで話してても目立っちゃいます!」
「ツンデレってやつやな! 青春やなぁ。羨ましいわ!」
「ああ! 手が滑っちゃいましたぁ!」
「「!?」」
僕らの押し問答をどこから聞いていたのか、さっき僕が始末したはずの寅次郎が足元に転がった。
倒れ伏した寅次郎がその間際に発した声にならない叫びと目の前の惨劇に思わずこぼれた僕の心の叫びが辺りにこだました。
背負っていたリュックをいつのまにか手にし、手を滑らせた悪魔がにっこりと微笑む。
「この人みたいにこんなところで寝てたら風邪引きますよ。泰護さんは気をつけて下さいね」
決してこの方を怒らせてはならない。
気分を損ねた時には、命はない。
友の犠牲を教訓として生唾を飲み込む。
「泰護さん、一緒に帰りませんか?」
再度発せられた言葉に、僕は何も言い返すことはできなかった。
**************
いつもなら一人で電車に乗る帰り道。
二駅分の距離は電車では大したことはない。
だが、自転車を押す錦に合わせて歩いていると、結構距離を感じるものだった。
それでも、二人で歩く帰り道は意外と悪くはない。
隣にちらりと目をやると錦が楽しそうに言葉を紡いでいる。
初めに会った時は無口な子だと思っていたが、思い違いをしていたようだった。
彼女の何気ない日常話を聞き、笑う様子を見ていると彼女も普通の女子高校生なんだな、と改めて感じる。
じわじわと蝉の鳴き声がこだまする。
歩幅を合わせゆっくりと歩く帰り道。
道中で見つけた、女子高校生の間で人気という店で飲み物を買い、飲み歩く。
人が華やかに賑わう繁華街、子供達の声の聞こえる丘の上の公園、時に置き去りにされたように静かな史跡。
寄り道をしながら歩く町は、僕の知らない表情で溢れていた。
「結構、遅くなっちゃいましたね〜」
気がつけば太陽は山の向こうに隠れようとしている。
流れる雲を美しく赤に染める夕陽を見ながら、不意に錦が呟いた。
「結構歩いたからな。足、大丈夫か?」
「ありがとうございます。大丈夫です。泰護さんの方こそ遅くまで私に付き合ってくださって、申し訳ありません」
「いやいや、僕も楽しかったよ」
それだけ言うと、再び二人の間には沈黙が訪れた。
今、僕たちがいる丘はかつての豪族の墓、つまり古墳らしい。
小高いその場所からは夕陽に照らされた町と、その向こうに広がるきらめく湖を望むことができる。
空にたなびく雲を、えにもいわれぬ美しい色に染め上げる夕陽。
今まで、これほどに美しい景色を見た事があっただろうか。
「……私は、ここから見えるこの景色が大好きなんです」
錦が口を開いた。
思わず、彼女へと目線を移す。
さっきまでのとても楽しそうな口調とは驚くほどにかけ離れた、静かで寂しげで哀しみを湛えた声音だった。
眉を少しひそめ、胸元には手を固く握り締めている。
祈るようなその姿を見ていると、僕の胸の奥まで締め付けられるように苦しくなる。
「こんなに綺麗で、その下には無数の人々が静かで幸せな日々を過ごしている。そのことを感じる事ができるのは、ここだけなんです」
「いつも、この景色を?」
「時間があるときは見に来るようにしています。……ここに来ると私は自分のすべきことと向き合えるような、そんな気がするんです。」
「そうか……」
「とっても綺麗で、いつまでも見ていたいっていう気持ちも大きいですけどね」
微笑む錦。
その美しく儚いまでの決意。
その一端を見たような気がして、僕は何も言えなくなった。
その責任感に感心させられた、というだけではない。
その背後にある何か漠然とした危うさ、いまにもこぼれ落ちてしまいそうな怖さ。
彼女の思いを語る姿の向かう側に、そうしたものが透けて見えた気がして背筋が冷える。
不吉な予感に目を背け町を見下ろすと、辺りに伸びていた夕陽は薄れ夜が始まろうとしていた。
電灯が無数に輝き始める。
「……すっかり遅くなりましたね。そろそろ……」
「いや、あのさ……最後に一ヶ所だけ行きたい所があるんだけど、いいか?」
彼女の言葉を遮って口を開くと、僕の言葉を聞いた錦の目が大きくなる。
この帰り道、僕は全て彼女の行きたいところに付き従ってきた。
いや、帰り道だけではない。
出会ってからの全てのアプローチは彼女からだけで、僕はただ流されるままに流れてきただけだった。
彼女からすれば、僕が積極的に二人の関係に何かをしようとすること自体が驚きだったのかもしれない。
そんな錦に構うことなく、言葉を続ける。
「どうしても行きたいところがあるんだ」
************
歩いているうちにすっかり日は暮れ、湖は無数の光に照らしだされていた。
湖岸に押し寄せるさざ波の音に包まれると、凝り固まった心が溶かされるような気持ちになる。
「ここは……」
波打ち際に立つ僕の三歩ほど後ろで錦が声を上げた。
振り返ることなく、その声をただ背に受けて僕は凪いだ湖を眺める。
街灯もまばらな湖岸は闇の中。
振り返ったところで彼女の表情は分からないし、彼女も僕の表情はわからないだろう。
これから話そうとしている内容はそっちの方が都合が良い。
そう考えて、僕は彼女をここに連れてきた。
「そう、ここは初めて君に会った場所だ」
「……はい」
一拍遅れて彼女が返事をした。
その声は初めて会った時と同じ、か弱さを孕んだ小さな声だった。
「つい……昨日のことなんだよな。なんだか……とても長く感じたよ」
「……」
「今日も、戦いがあるのか?」
なにも答えない錦に、問いを投げかける。
「無いと思います。私達はあくまでも供物の警備兵であって上からの指令に基づいて動くので、それ次第ではもしかしたら出動することになると思いますけど」
「指令ってどう出るんだよ」
「私達とは別に敵の出現を予想する部門があるんです。その情報に基づいて上が私達に出動指令を出します。私たちは指令が無い時に戦闘態勢をとることは禁止されてるので、指令がない場合は何も出来ないんですよ」
「そうか……一人で、戦ってるのか?」
「いえ、他にも仲間はいます。でも、基本、戦いは一対一となることが多いですね」
「一対一……」
なんとも過酷な任務だと思った。
前日の敵との遭遇を思い出すだけで身が震える。
あんな悪魔と一対一など、命がいくつあっても足りない。
しかも敵の出現の予測ですら直前でないと出来ないなんて、あまりにも不利すぎる。
本題に入る前の話が予想外に重くなり、すぐには二の矢を継ぐことができなかった。
目を閉じて深呼吸をする。
夏の湖の独特な匂いが鼻を突きつけた。
「……昨日、僕と付き合いたいって言ったよな?」
意を決して、錦に向き直る。
「それって恋人として、ということか?」
「そうです」
淀みのない返答。
当然だ、というような答えだった。
だけど……
「けど、正直、それが本当だとは思えない。君ほどの女の子がなんの理由もなく僕みたいな男に近づくようには思えない」
ずっと抱えていた思いを吐き出す。
「君のことが信じられないっていうわけじゃない。ただ、僕が僕自身のことを信じられないんだよ。僕は君に釣り合うような人間じゃない。当然、君に好かれるなんて信じられないんだ。今の状況もまるで夢みたいで……。君と過ごした今日はすごく楽しかった。だからこれで僕は満足だ。もし、これが何かの罰ゲームで僕に告白してるなら、僕を今の幸せなまま帰してほしい」
支離滅裂になりながらも、なんとか思いを伝える。
『今日は楽しかった』
これは僕の本心だった。
だからこそ、彼女から離れたかった。
『もし』、なんて言ったが心の中では本当に罰ゲームであってくれと思っている。
今日一日で、僕は彼女に惹かれ始めていた。
二人で過ごす楽しさを、甘味を感じてしまった。
きっと、付き合ってほしいともう一度言われたら断ることはできないだろう。
覚悟も何も固まっていないのに無責任に受け入れてしまうと思う。
その前に、突き放してほしい。
そう願う僕を、彼女の言葉が容赦なく斬り捨てた。
「……確かに、裏はあります」
鈴のような声が、悲しげに響いた。
それは今にも闇夜に溶け入りそうなか細い声だった。
「あなたと付き合おうとしたことには理由があるんです」
四話です
よろしくお願いします