九
「いわゆる住所不定、無職の方でしょうか?」
洋平は「うむ」と鷹揚に頷いた。教会に『恵み』を求めてやってくる者は珍しくもないことらしい。
「定番の飲食物から借金の申し出、実家に帰るための交通費だとかで三万円をせびる奴もいたな。果ては聖書を引用して『求めよ、さらば与えられん』とあるから金をよこせとのたまう阿呆もいる」
教会、キリスト教というと欧米の豪奢な歴史的建造物を連想させるせいか、裕福だと思い込んでいる人が多い。が、実際のところは神社仏閣よりも経済的に苦しい。どんなに世界規模では圧倒的多数派の宗教だろうが、日本では信者の数が少ない。その上昨今の少子高齢化問題もある。
「そういう方にはどのように対処をなさるのですか?」
「門前払い」
事も投げに洋平は言った。牧師にあるまじき無慈悲な対応だ。
「それが一番お互いのためだと、二年経ってようやく俺は気づいた。本当に飢えている者は教会に来ない。足を運ぶ気力すらない者、助けを求めることすらできない者にこそ神の救いは必要とされている」
言い訳めいている。それは本人も自覚しているようだ。洋平は原稿を机の上に置いて、短い息を吐いた。
「勘違いされているが『求めよ、さらば与えられん』の目的語は『神』だ。金でも食べ物でもない。ただひたすらに神を求める者に、神はお応えになる。裏を返せば、神以外を求めるなということだ。教会は誰であれ神の救いを求める者には門扉を開く。だが、神の救い以外のものは与えられない。牧師は所詮ただの人間だ。期待するのは勝手だが押し付けられても応えられない」
顔を上げた洋平と視線が絡み合う。異能の経験上、思わず目を逸らしそうになったのを、尊は堪えた。洋平の眼差しに焦燥や恋慕といった感情が全くなかったからだ。それどころか、咎めるように厳しい目で尊を見据える。
敵意。軽蔑。身に覚えのない負の感情を向けられる。が、それも一瞬のこと。洋平は目を伏せた。
「ーーという趣旨を三時間ほどかけてじっくり諭したら、誰も訪れなくなった」
それはそうでしょうね、と尊は内心で呟いた。もらうものだけもらって早々に退散する腹づもりだったのなら、たしかに洋平は『ハズレ』だ。そもそも教会に行くこと自体、間違っている。
『人はパンのみにて生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』という聖句に代表されるように、神の御言葉によって人は養われると信じる宗教は、物質的な豊かさとは無縁なのだ。
「人を救うのは、人ではなく神だ。我々牧師にできるのは神を指し示すことだけ。差し出されている神の手を取るか否かを決めるのは本人だ」
突き放したような物言いだが、納得もした。心理学者アルフレッド=アドラーも「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」と説いている。人は、自分自身を変えることはできても、他人を変えることはできない。
「ただの牧師が人を救おうだなんて、おこがましいとは思わんか」
「……それはどういう」
尊が訊ねようとしたその時、机の上にある電話が鳴った。素早く洋平は受話器を取って応対した。
「はい。武蔵浦和教会です」
愛想はないが意外にも丁寧で穏やかな声音だった。
「いえ、的場は今、来客の応対中ですので……用件は何でしょうか」
相手の声は、尊には聞こえない。よって話の内容はわからない。しかし黙って相手の話に耳を傾けている洋平の顔がだんだんと険しいものになる。
「今の貴様の話を要約すると、こういうことになる」
早々に敬語は消えた。そして『貴様』呼ばわり。
「礼拝の司式当番でありながら祈りの言葉が思い浮かばないので前日になって突如その役を牧師に担わせたい、そういうことか」
尊はすかさず固定電話のボタンを押してスピーカーに切り替えた。相手の困惑した声が聞こえる。
『い、いえ、だから、やはり私などの若輩者には、荷が重過ぎると……』
「貴様はいくつだ。ちなみに俺は二十九、的場は二十四だ。若いと自慢するくらいだから相当歳下なんだろうな?」
声音から察するに若い男性のようだ。だが司式を担うくらいだから教会の役員ーーとなれば、望よりも若いとは考えにくい。
案の定、電話の相手は口ごもった。若輩者であることを理由に歳下に大役を担わせる愚に今さら気づいたらしい。
『でも、的場先生は牧師ですし……訓練もされてますので……』
「その通りだ。牧師は説教をするだけが仕事ではない。信徒の訓練も仕事の一環だ。だから貴様のような他力本願の甘ったれた信者の性根を叩き直すのも俺の仕事だ。祈りの言葉が浮かばないのならば『主の祈り』を唱えろ。公の場で祈る言葉に自信がないのならば、祈りの原稿を牧師に送って添削させろ。特別に今日は深夜まで受け付けてやる。FAX番号はーー」
立て板に水のごとくまくし立て、最終的に洋平は今夜九時までに祈りの原稿を教会にFAXする約束を取り付けた。
「健闘を祈る。さらばだ」
どこかの鬼軍曹のような捨て台詞を吐いて通話終了。絶好のタイミングで会堂に続く扉が開いた。ようやく来客の対応が終わったらしい。マスクを着けているものの、昨日よりもいくぶんかは覇気が戻ってきている望だった。
先ほどの会話は幸いにも聞かれていない。内心胸を撫で下ろした尊を裏切って、洋平は開口一番に言い放った。
「貴様、教会員に一体どういう教育をしているんだ」