手のひらに受けてのぼる
あらかた荷ほどきを終えたところで夕食の時間になった。今日は親切な有志の方が蕎麦を作ってくれたらしい。ありがたくいただくべく食堂へと向かう。後ろに希をひっつけて。
「お待ちしてましたよ」
「じいちゃん!」
食卓についていたのは、小柄な初老男性――祖父の的場信二だった。きっちりと着こなしたスーツはいつも通り。
「今日が引越し日と伺いまして」
「差し入れだってさ」
蕎麦をすすりつつ、三杉が言う。日本で一番有名で影響力のある元牧師が隣に座っているのに何処吹く風だ。よほど肝が座っているのか、単なる馬鹿なのか。後者だと望は判断した。
「もう少しコシがあった方が俺は好きだな」
「なるほど。粉を捏ねる力が足りなかったようですね」
「まあ、素人にしては良い線いってんじゃないの?」
「恐縮です」
色んな意味で一線を超えた失礼発言をしている張本人が偉そうにのたまう。祖父も祖父で丁寧な物腰で応対するものだから、余計に三杉がつけあがるのだ。
「あの、お祖父様」遠慮がちに希が声をかける「どうしてここに?」
「近くに用事があったもので、立ち寄らせていただきました。手ぶらなのもどうかと思ったので、心ばかりの手打ちそばを差し上げた次第です」
「いやあお優しいお祖父様じゃないか的場くん」
白々しく三杉が望に言う。
「他人の物を勝手に片っ端から処分する孫にも見習ってほしいものだよ」
望はほぞを噛んだ。わざとだ。信二に聞かせようとしている。三杉の目論見通りに信二は反応を示した。
「おや、それは穏やかではありませんね」
「問答無用でポスターを裂いたんですよ。いくら自分に正義があるとはいえ、こちらの言い分も聞かずに一方的に処分するのは牧師を志す者としていかがなものかと」
にやにやと笑いながらチクる三杉の顔をぶん殴りたくなる望だったが、祖父の前で暴力を振るうわけにはいかない。が、やられっ放しというのも気が済まない。
「それで思い出した。忘れ物ですよ」
望は黒革の長財布をテーブルの上の置いた。
「みすぎいんまぬえるさん」
瞬間、食堂の空気が固まった。平然としているのは信二一人だ。当の三杉に至っては箸を持った状態のまま硬直していた。
希が恐る恐る訊き返す。
「……いんまぬえる?」
「そう、いんまぬえるって読むらしいよ」
青年部修養会はおろか、日曜学校教師研修会、講演会でも全く見かけなかったわけだ。各集会では必ずと言っていいほど名簿を用意する。本名がバレてしまう。
「な、なななななんのことだか」
「運転免許証」
「見たのか! なんて破廉恥な……っ!」
「他人の部屋をピンク色にした奴にだけは言われたくない」
「彼は相変わらずのようですねえ」
のほほんとした顔で信二が呟く。
「じいちゃんは知ってたの?」
「彼の父は僕の後輩にあたります。昔から自分の『三杉太郎』という平凡な名前にある種の劣等感を抱いていたようで。子どもには信仰的な名前をつけると言って聞きませんでした」
「へー、それで『印真抜恵流』ねえ……」
それで追い討ちを掛けられたのか、三杉は「ぐわーっ!」と奇声をあげてテーブルに突っ伏した。
「僕の記憶が正しければ、彼の離婚の原因も子どもの名前でした。末の息子に『把瑠都露舞』とつけようとした三杉牧師に奥様の堪忍袋の緒がついに切れ、出産直後の病院で離婚したとか」
ちなみにバルトロマイとはイエス=キリストの十二弟子の一人の名前である。欧米ならば「ナタナエル」や「バーソロミュー」とも呼ばれ、一般的な名前だ。しかしいかんせん日本では馴染みがなさ過ぎる。
「俺の時に離婚しろよ! なんでバルトロマイは駄目でインマヌエルは認めたんだよ! どっちも変だろうが!」
「まあまあ落ち着きなさんな」
吠える三杉に望は友好の証として握手を求めた。
「これからよろしく、印真抜恵流さん」
さて、神学校で迎えた最初の晩。望はベッドに、希は床に布団を敷いて寝た。明日も講義はないので必要な生活用品を揃える予定だった。
「フィギュアたくさんあったね」
「ピンクだったね」
「アニメオタクだって」
「それで名前が」
望は右を、希は左を向いた。お互いに顔を見合わせる。
「「印真抜恵流」」
それが限界だった。二人同時に吹き出し、破顔。口に手を当ててこらえた。
「いやあ最高だわー。三杉牧師を見直しちゃった」
「のんちゃん、失礼よ。印真抜恵流さんだって好きで印真……ぶっ」
窘めているそばから再び吹いてはどうしようもなかった。歯が見えるほどに口を開けて二人は笑った。思えば、こんなに笑ったのは久しぶりだった。
たとえ神の召しでなかったとしても、と望は思った。牧師になるべきなのか否か。神の御意志を推しはかることは人間なんぞにはきっと一生かかってもできやしないだろう。
それでもいいと思えるくらい、望は今が楽しかった。
これにて番外編終了です。
明日は『魔女の婿入り』を更新いたします。