謙虚に進みゆきたい
練馬区にある自宅に戻ると、尊は帽子もマスクも取っ払った。洗面所の鏡に映る自分の顔を見ても特にこれといった感慨はわかない。目が二つ。鼻と口が一つあるだけの、普通の顔だ。しかし他人――同性からすると全く違うらしい。尊がその薄い唇でどんな言葉を紡ぐのか、冴え冴えとした目に何が映っているのか。考えただけで堪らなくなり、息がつまるほどに焦がれるのだと言う。尊には全く理解できなかった。
椅子とテーブルしかないリビングで、メールのチェックをする。居心地は悪くない。ほとんど使ってないのだから当然だ。フローリングには傷一つなく、台所のシンクには汚れ一つない。入居して二ヶ月近く経っても、よそよそしさは消えなかった。きっと引っ越す時まで、このままなのだろう。
それはさておきメールだ。ひさしぶりの依頼だった。夫と浮気相手を別れさせてほしいという、スタンダードな依頼。憎い女の名は設楽真理亜という。ネットで検索してみたが、特にそれらしき女性は該当しなかった。依頼人に詳しく話を聞く必要がありそうだ。
あれこれと今後の算段を考えていたら、不意にスマホが着信を告げた。メールかメッセージアプリでも使えば事足りる用をわざわざ電話してくるのは「尊の声が聞きたい」からだと以前聞いた。面倒に思いながらも応答する。
今朝別れた男とは別の男だった。歳は三十を過ぎたばかり。妻子持ち。ゆえに電話はもっぱら平日の日中に掛かってくる。
『自宅か』
「ええ、今日は休みです。とはいえ、いくつか持ち帰っていますけどね」
『相変わらず忙しい奴だな。全然余裕はないのか?』
「先週会ったばかりでしょう」
『だから余計にその続きがしたくなるんだ』
相手の男は笑って『急だが、今晩会えないか?』と食事とその後のお誘いをしてきた。予定はない。少し焦らしてから了承の返事をしようとして、尊は今日が水曜日であることを思い出した。
「すみませんが、先約がありまして」
『……男?』
一段と低くなる声。嫉妬を隠そうともしない。
「あいにく女性です」
『珍しいな。お前が女とだなんて』
「仕事ですよ」
『だろうな』
男は一拍置いてから傲然と言った。
『来週は空けておけ』
「なら、早く埋めてください」
挑発的に言うと男の機嫌は良くなった。従順な奥様をお持ちのせいか、この男は爪で引っ掻く程度の反抗をいたく喜ぶ。スケジュールが決まり次第、連絡することを約束して男は通話を終了した。
尊は時刻を確認した。四時を過ぎていた。洗濯物を取り込んで、軽く掃除をしてーー尊は右手の甲を鼻に寄せた。まだ情事の名残が色濃いような気がした。
(最低限の身だしなみですから)
誰にともなく言い訳して、風呂に入った。疲れもあってゆっくりと湯船に浸かった。汗と一緒に老廃物を出し尽くし、洗い流せば身体が活力を取り戻す。ようやくいつもの自分に戻れた安堵感。尊はカラーシャツにスラックスを履いて、家を出た。