十
渋る尊を半ば強引に部屋から引きずり出し、彼の金でタクシーを呼び白井病院へ。二日続けて付き添いに現れた望に医者は「牧師も大変ですね」と苦笑した。尊を信者だと勘違いしているようだ。説明するのも面倒なので否定はしなかった。
「風邪ですね」
果たして医者の診断は昨日と同じだった。薬を処方されて診察終了。医者は女性なので問題はないが、隣接している調剤薬局は男性もいるので望が薬を受け取った。待機させていたタクシーに乗り込み、今度はスーパーへ。先ほど期せずして覗いてしまった冷蔵庫には食材が全くと言っていいほど入っていなかった。インスタント食品を中心に適当に食べ物をカゴに放り込む。いちいち指摘する気力もないのか、尊は終始大人しく車内で待っていた。
アパートの前で降ろしてもらってタクシーを見送る。自宅に戻って気が抜けたのか、尊は玄関でしゃがみこんだ。
「寝るならベッドで」
言い掛けた言葉は途切れた。尊はドアポストに何やら細工を施していた。
「……何してんの?」
「誰かが覗いたようですね」
手のひらサイズのスプレー剤が近くに固定されていた。ちょうどドアポストに当たるような位置と角度で。
「最近ストーカーが多いので罠を仕掛けているんです」
今日の献立を話すかのようにあっさりと尊は言う。
「ドアポストから室内を覗き込んだら防犯スプレーが噴射し撃退するという、単純な仕組みです」
「防犯スプレー?」
「用心するに越したことはないでしょう。失明することはありませんのでご安心ください。ただ唐辛子パウダー入りなので、二、三日は目や鼻がひりつき、使い物にならなくなることもあるそうですが」
至極当然のことのように言われても望は同意しかねた。スプレーのパッケージには『強力! 長持ち! 最強の防犯スプレー!」と大変頼もしい字面が並んでいる。嫌な予感しかしなかった。
(異能者では過剰防衛が流行ってんのかね)
他人事だと望は思った。正確には他人事だと思うことにした。でなければやってられない。
栄養ゼリーだけでは物足りないだろうと考えて卵粥を作った。勝手に冷蔵庫を漁り、台所を使う自分を尊がどう見ているのかはわからない。が、今は咎め立てする元気もないようだ。ぼんやりとこちらの様子を眺めている。
「料理、できたんですね」
「あんた、私を一体何だと……」
希が適任だから家事を任せているだけであって、望とて最低限のことはできる。そもそも神学校では自炊だ。
卵粥が完成した頃、尊は自室に引っ込んでいた。様子を見ればちょうど部屋着に着替えるべく、シャツを脱いでいるところだった。
病的に白い肌に浮き出た鎖骨。細い細いと常日頃から思っていたが、本当に尊はモデルも真っ青な引き締まった身体をしている。嫌でも目を引いてしまう。
じーっと眺めていた望は「あ」と声をあげた。ミミズ腫れのような赤い傷が尊の背中にあった。白いから余計に目立つ。
「ここ、引っ掻き傷があるぞ」
軟膏でも塗ってやろうかと親切心で指摘したのだが、尊は弾かれたように身を翻した。背中についた傷を隠すかのような、大げさな反応。
動揺を露わにした尊に、望は呆気に取られた。
「え、なに?」
尊は答えなかった。まじまじと望の顔を見たかと思うと、熱の篭ったため息をついた。
「なんだよ」
「……いえ、なんでもありません」
とてもそうは見えないが。尊は新しいシャツに袖を通した。あまり触れないでほしいことのようだ。尊は脱いだ服を洗濯機に放り込むと、ベッドに入った。
「迷惑を掛けましたね」
「全くだ。二日連続で同じ病院に付き添いをする羽目になるとは思わなかったよ」
安堵したためかそれとも気疲れか、望は深い息を吐いた。
「希さんは大丈夫なのですか?」
「あんたの心配ができる程度には回復してる。熱も下がったし咳も治まってるから、明日には完治するんじゃないかな」
そもそも、希が余計なことを言い出さなければこんな面倒にはならなかった。親切心を出すのは結構だが、自分で責任の取れる範囲内で収めてほしいものだ。
「……希さんに言われたから、来たのですか?」
「それ以外にどんな理由があるんだよ。本当におせっかいなんだから」
疲れもあって、望はぶっきらぼうに言い放った。帰ったら一言は文句を言わないとやってられない。牧師は暇ではないのだということを理解していただかなくては。
立ち上がろうとした望を、尊が引き止めた。
「先ほどの傷ですが、教えて差し上げますよ。どうやってついたものなのか」
尊は艶然と微笑んだ。一瞬惚けた隙に抱き寄せられる。病人とは思えない強さだった。望は尊の上に倒れ込む格好になった。
「……へ?」
「そんなに身構えないでください。私が君に何かするとでも?」
そうですよねー。女性はお手の物ですし、男性に対してはもう無敵状態ですからね、あんた。わざわざ天パの貧弱な牧師に手を出すわけないよな――と、納得してしまう自分が情けなかった。
それにしてもこの体勢は仮にも女性としていかがなものか。まるで尊を押し倒しているようだ。望が身じろぐと、尊は背中に回した腕に力を込めた。
「ちょっ」
望の唇に人差し指を押し当てる。
「動かないで」
囁く尊は妖艶そのもので、望は目を奪われた。微かに紅潮した頰は、熱に潤んだ切れ長の目と相まって底知れぬ程美しい。魔性、という単語が脳裏をよぎった。尊の白い手が頬を撫でる。望は総毛立った。嫌悪ではなく、何か別の、原始的な衝動だった。
目を反らせない。
声が、出ない。
「的場牧師」
薄い唇が言葉を紡ぐ。刹那、望の背中に鋭い熱が走った。
「いっ――っ!」
望は跳ね起きた。壁際まで後ずさって、ようやく自分の身に何が起きたのかを理解した。尊に引っ掻かれたのだ。爪を立てて、力一杯。
「ご理解いただけましたでしょうか」
澄ました顔で尊は訊ねた。
「な、なななな」
「謎が解けたところで、そろそろお引き取りください。私、あまり寝ていないんです」
尊は布団を引っ張って寝る体勢に入った。自分がしでかしたことを棚に上げて、望を追い払おうとする。あまりの身勝手さに望は激昂しかけ――たのだが、さすがに尊の具合が相当悪そうだったので口を噤んだ。
「……お大事に。これも余計なお世話だと思うけど、鍵、閉めときなよ」
尊の返事を待たずに望はアパートを後にした。
やっぱりあいつはいけ好かない。希が気に入ってなければ絶対に関わろうとしなかったのに。無理矢理病院に連れて行き、甲斐甲斐しくたまご粥まで作った数分前の自分を殴り飛ばしてやりたかった。
感謝されたくてやったわけでは決してないが、だからといって引っ掻かれた挙句邪険にされるとは思わなかった。じくじくと今さらながら背中が痛みを訴える。
望は小さく咳き込んだ。