九
「相変わらず大変だね」
玄関の扉を閉めた後、二人きりになったところで望は呟いた。
先ほど、誰だかはわからないが、熱い視線を感じた。望ですら気づいたのだから当の尊が気づかないはずがない。
「慣れればそうでもありませんよ」
台詞とは裏腹に尊は深いため息をついた。いつもは青白い顔も今はほのかに赤みが差している。相当具合は悪そうだ。しかし、既視感のある症状だった。
(異能者の間で風邪が流行ってるのかね?)
望は他人事のように思った。これで兄の信一が寝込んでいたらほぼ確定だ。
「まあ……アスパラでも食べて元気出しなよ」
自分がいたら尊は休めないだろう。早々にお暇しようとしたところで着信。姉からだった。
『言い忘れてたけど、永野さんも具合が悪いんだって』
「ふーん」
『タラント〈異能〉のことがあるからたぶん病院にも行ってないと思うの』
「へえ」
『お粥を食べようにもコンビニにも行けず、滋養のあるものも食べられないでしょうね』
「ほーう」
ではアスパラでも食べればいい。北の大地で育った恵み豊かなアスパラ。塩茹でにしただけでも美味しかった。
「じゃ、そういうことで私は帰るね」
『病人を置いて?』
電話の向こうにいる希の声が不穏な気配を帯びる。威圧感まで滲ませて訊ねられる。
『神に献身したはずの牧師が、私の優しいのんちゃんが、道に倒れたユダヤ人を見捨てるような真似をするの?』
「いや、私は善いサマリヤ人じゃないから」
きっぱりと断れば、今度は『よよよ』と大げさに嘆く声。
『のんちゃんが冷たい子だったなんて……いつからそんな子に』
「そんなに永野が心配なら、自分で看病しなよ」
『ああ神様、のんちゃんの罪をお赦しください。彼女は自分が何をしているのかわからないのです』
聖書から姑息に引用しつつ希は祈り出した。
『たとえ彼女が今、病に倒れる隣人を冷酷に見捨てた結果、彼女が死の谷を歩み、地獄の業火に投げ入れられ、永遠の苦しみを味わうことになろうとも、主よ、あなたはどうか彼女を見捨てないでください』
「長くなりそうだから切るよ」
『人には隣人愛を説いておきながら自分は無関心、真っ直ぐに生きるよう説きながら自分はくるくるの天然パーマでひねくれているような妹ですが』
「喧嘩売ってんの⁉︎」
買う前に通話が切れた。ツー、ツーと無機質な音を立てるスマホを潰さんばかりに望は握った。震える拳とこみ上げる怒りを抑えて、振り返ると、尊はアスパラを冷蔵庫に突っ込んでいた。
「アスパラを寝かすな」
「はい?」
望は断りもなく靴を脱いで台所に踏み込んだ。冷蔵庫を開けてアスパラを救出。新聞紙で巻き直して少し水で湿らせて、ジップロックに入れる。ほぼ空に等しい野菜室にアスパラを立てておいて、閉める。
「アスパラは横にすると伸びようとするから立てて保存するんだよ」
「詳しいですね」
「常識だって」
反論が返ってくるかと思いきや、尊は「そうですか」としか言わなかった。これはかなり重症のようだ。
望は肩を落とした。自分は間違っても敵対するユダヤ人を助けるサマリヤ人ほど善人ではない。が、さすがに見て見ぬ振りをして帰れるほど薄情でもなかった。
「病院、行くぞ」
いつから自分は異能者の面倒を見る役になったのだろう。問いかけても誰も答えてはくれなかった。