八
蒔田健三は本日も有給を取る羽目に陥っていた。
動悸、息切れ、そして目眩と倦怠感が酷い。とてもではないが仕事ができる体調ではなかった。
「おのれぇ……」
自宅の布団の中で蒔田はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
なんたる不覚。いや、そもそもあの牧師がおかしい。農家じゃあるまいし高圧電流なんて仕掛けるか普通。なんて非常識な奴なんだ。自分はただ、盗撮用カメラを仕掛けようとしただけなのに……っ!
ふと蒔田はこの非常事態に気づいた。
今日は水曜日ではないか。自分がここで伏している間に、あの青年が的場牧師の毒牙に掛かっているかもしれないのだ。なんということだ。
蒔田の脳内で件の青年が後ろ手に椅子に縛りつけられていた。そのワイシャツのボタンが上から一つずつ外され、白い肌と浮き出た鎖骨が露わになる――いかん、なんていやらしい!
使命感と執念で蒔田は布団から跳ね起きた。着替えもそこそこに外へと出て、武蔵浦和教会に向かう。昼過ぎとはいえ油断はできない。一刻も早く青年を魔の手から救出せねば。勇んで教会まで行った蒔田だったが、集会案内の看板前の所で望の姿を見かけ、慌てて路地に身を潜めた。
牧師館から現れたのは要注意人物・的場望牧師だった。唐草模様の風呂敷を片手にどこぞへとお出かけの模様。迷わず蒔田はその後を追跡した。
入り組んだ住宅街をすいすいと進んだ先にあったのは、見るからにひなびたアパートだった。今時洗濯機が外廊下に置かれており、オートロックもない。
階段の老朽化も進んでいるようだ。派手な音を立てて望は二階へと昇る。二階にある三部屋の内の一室――西側の部屋の扉をノックする。インターホンもないらしい。
蒔田は息を呑んだ。扉を開けて現れたのは件の青年だった。
「的場牧師?」
望は不満げな顔で軽く頭を下げ、包みを差し出した。
「これ、姉ちゃんから」
「希さんから?」
「北海道から送られてきたアスパラ。おすそ分けだって」
戸惑う青年に半ば強引に唐草模様の風呂敷を握らせ、望は「じゃ、そういうことで」と踵を返し――かけた足が止まった。
「あんた、熱でもあるの?」
「人間は恒温動物ですから、あって当然でしょう」
「そういう意味じゃなくて」
言いかけて、望は周囲を見渡した。同様に青年もまた、ちらりと視線を横に流した。蒔田は慌てて自転車置き場の陰に身を隠す。
「……中で話した方がよさそうですね」
次いで扉が閉まる音。蒔田が顔を上げた時すでに、青年の姿はおろか、望の姿も消えていた。青年の部屋に入ったらしい。
(な、な、な……っ!)
蒔田は絶句した。決定的瞬間だ。
自分が危惧した通りではないか。やはり的場牧師はあの青年にただならぬ想いを抱いている。しかし、まさか、アスパラを口実に部屋に押し入るとは! 挙句、こんな昼下がりから情事にふけこもうとは、一体どういう了見をしているのだろう。
この場に第三者がいれば「いや、全く情事を匂わせてないし、百歩譲ってもあれは招かれて入室しているだろ」と突っ込みが入るところだが、残念ながら真っ昼間のアパート専用の駐輪場には誰もいなかった。
(許さん! 許さんぞぉ……っ!)
蒔田の脳内ではかの青年が欲望の餌食になっていた。居ても立っても居られなくなった蒔田は猛然とアパートの階段を駆け上がった。今さらながら足音を忍ばせて、青年宅の前へ。ドアに耳を当てても中の様子は聞こえない。
残るは――蒔田の視線が下へとむけられる。ドアポスト。古典的な手だが、こんなボロアパートならばおそらく部屋の中が丸見えだろう。
かくして、蒔田はその場にしゃがみ込み、ドアポストの中を覗き込んだのだった。