六
「それで引き受けちゃったんだ」
向こう側から姉の声。望は扉に背中を預けて天井を仰いだ。
「気になることもあったからね」
電灯に透かすように調査報告書を掲げる。
木下直也。27歳。都内の物流会社に勤めるサラリーマン。残業で帰りはいつも遅いが、週末は友人と飲んだりとそれなりに充実した生活を送っているようだ。
婚約破棄をしたのだから事後処理に追われているかと思いきや、そうでもないらしい。動向を見た限りでは至って普通で、結婚式前ともさほど変わっていないように思える。
「どうして結婚式でドタキャンしたと思う?」
「他に女がいるんでしょ」
姉妹なだけあって考えは一致していた。男が自分から言い出す『誠実』ほど疑わしいものはない。
「でも式の最中で言い出すことはないと思うんだ」
「それが『気になること』?」
「正確には『気になること』の一つだね。もっと言い出す機会はいくらでもあったはずだ。どうして結婚式当日に公衆の面前で婚約破棄を宣言したのか」
結婚は文字通り一生を左右するものだ。周囲もその心づもりで参列している。それをひっくり返すのは相当の覚悟が必要なはず。望の記憶にある直也はそれほど気概のある人物には見えなかった。
なるほどね、と姉は納得した。
「気になることだらけなのは同感だけど……いいの?」
「大丈夫だよ。破局は確定しているから、さすがに殺人事件には発展しないって」
「そういう意味じゃなくて。来週の説教、まだできていないんでしょ?」
望は報告書を下ろした。
「レビ記だったよね? 望ちゃんの苦手な箇所じゃない。間に合うの?」
間に合うわけがない。レビ記と民数記は聖書から削除すべしと陰口を叩くほど嫌いな箇所だ。神学校でもずいぶんと牧師にいじめられた。
「そのことでご相談がありまして」
「いや」即答だった「説教のゴーストライターはしません」
「そこをなんとか」
「駄目。無理」
取りつく島もない。なんて冷たい。それでも血を分けた姉なのだろうか。
「妹がこんなに頼んでいるのに?少しは考えてくれてもいいんじゃないかな」
「残念ながら、ドア越しだとあなたが殊勝な態度で頭を下げているのか、それとも腰に手を当てて踏ん反り返っているのか、判断がつかないもので」
監視カメラもないのに何故わかる。望は腰に当てていた手を下ろした。閉ざされた扉に向き直り「なにとぞお願いします」と頭を下げた。