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清くも正しくも美しくもない  作者: 東方博
四話 サロメの接吻
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二十

 溶き卵スタンバイ。卓上コンロのボンベ満タン。白菜も白滝も長ネギも高級焼き豆腐も、和牛と共に仲良く鍋の中でくつくつと煮えている。

「三杉さんは来ないんだ」

 希が醤油で味の微調整をしながら呑気に言った。

「なんか都合が悪かったみたいだよ」

 昼間の一件は忘れてやることにした。どうせ会うこともないだろう。たぶん、きっと。全く根拠がないのだが、望は目をつぶることにした。今は、この贅沢にひたりたい。

「そろそろ食べ頃よ」

「いただきまーす」と、望がいよいよ和牛肉に箸を伸ばそうとしたところでインターホン。図ったとしか思えないくらい絶好のタイミングだ。居留守を決め込みたかった。自分が牧師であることを恨めしく思いながら、望は牧師館用玄関へ。

「新聞も宗教も間に合ってますので」

 予想に反して来訪者は新聞の営業でも新興宗教の信者でも、ついでに言うと宅配業者でもなかった。

「こんばんは、的場牧師」

 水曜日でもないのに現れたのは尊だった。

「金なら返さんぞ。あと肉も」

「まさか。そんなさもしい根性はしていません」

 若干、嘲られているような気がしないでもないが、望はそれ以上突っ込むのをやめた。百万円と和牛に罪はない。

「すき焼きのデザートにいかがかと思いまして、お届けに上がりました」

 片手に収まるくらいの小さい紙袋を受け取った。開けるとほのかに優しく甘い香りがした。ミニサイズの黄色いタルトが綺麗に並べて納められている。

「あれ? もしかして『ミッキー』のタルト?」

「やはりご存知でしたか」

 練馬区田柄にある、知る人ぞ知るケーキ屋のタルトだ。峰崎教会に行く時は必ず寄って買っている。一番の売りはふわふわのチーズケーキなのだが、望はもっぱらこの小さいスイートポテトのタルトを好んで食べている。

「どうも、ご丁寧に」

 待てよ。望は何かひっかかるものを覚えた。峰崎教会のそば。つまり三杉の生息範囲。そのケーキを尊が買ってきた。

「つかぬことを伺いますが」望は背中に嫌な汗が伝うのを感じた「もしかして今、田柄に住んでんの?」

「はい。この『ミッキー』のすぐそばにアパートがありまして。駅からも近いので大変住みやすいです」

「ちなみに今後引っ越す予定は?」

「まだ転居先は決まってませんが、来週には引っ越そうかと」

 気に入っていたんですけどね、と尊は少しだけ残念そうだった。しかし慣れているようでもあった。当然だ。二十年近くもあのはた迷惑なタラント<異能>と付き合っているのだから。

「ここ数週間、ポストに怪文書が投函されるようになりましてね。私もうかつでした。知らないうちに素顔を晒してしまったのでしょう」

「…………そうですか」

 いや、それポエム。切ない思いを綴ったポエムです、とは言えなかった。

「それが何か?」

「いいえ、なんでもありません」

「埼玉県内に引っ越す予定ですので、引き続きよろしくお願いしますね」

 何をどうよろしくお願いすればいいのかわからなかったが、今はそんなことよりも尊には一刻も早く練馬区から退去してほしかった。同僚がストーカー規制法違反で捕まる姿は見たくない。

「では、失礼いたします。お邪魔しました」

 踵を返した尊を慌てて引き止めた。

「良かったら、食べていかない?」

「よろしいのでしょうか」

「姉ちゃんに頼んでみるよ」

 尊は瞳に笑みを滲ませた。端正な顔にかすかに安堵の色が浮かぶのを望は見逃さなかった。お土産を片手に一度引っ込む。リビングに戻る途中、望は堪えきれずに吹き出してしまった。喉を鳴らして忍び笑う。

 わかりやすい奴だ。異能者が聞いて呆れる。拒まれることを恐れている様は子どもと大して変わらないではないか。

 とはいえ望も鬼ではない。紙袋の中のミニタルトが三つあることについては指摘しないだけの優しさは持ち合わせていた。

「姉ちゃん、永野が来てるんだけど」

「あら、ちょうど良かったわ」

 希は表情を輝かせた。

「一緒に――」

 食べましょう、と言いかけて希は固まった。

 今夜は鍋物であることをようやく思い出したようだ。希の目がわかりやすく泳ぎ出す。

「じゃ、じゃあ私は小鍋でいただくねっ」

「カセットコンロは一つしかないよ」

 立ち上がった状態で硬直。深刻な顔で希はうつむいた。

「せっかくだから三人で食べようよ」

「……コンロが爆発」

「しないよ。火気には気をつけてる」

「自転車が突っ込んでくるかも」

「ここは二階です。空飛ばないと無理」

「毒殺」

「もう姉ちゃん食べてんじゃん。毒入ってたら手遅れだよ。あきらめて最後の晩餐しよう」

「強盗が」

「まだ言うか」望は癖っ毛をかきあげた「こんな貧乏教会から何を奪おうっていうんだ。この前の百万円? 欲しけりゃくれてやるよ」

 でも、と希は煮え切らない。しかし嫌がってはいない。困っているだけ、迷っているだけなのだ。

「何でも来たきゃ来いよ。全部私が解決してみせる」

 今までそうだったように、これからも、ずっと。

 望が挑発的に言い放つと、希は泣き笑いのような顔をした。とても神に選ばれた特別な存在には見えない。抱きしめたくなるほど可愛らしく、幼い表情だった。


これにて完結です。

お付き合いくださり、ありがとうございます。

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