十九
「離婚届は受理されたってさ」
三杉の声は弾んでいた。
真理亜との親交は続いている。なんでも「四十五の男の『お古』に無理に関わる必要なんてない」と自分を卑下する真理亜に、三杉は「捨てられたのは野口の方だ。あんたは野口を捨てて、千尋にやったんだ」と男前な台詞を吐いたとかなんとか。
腐っても牧師である。望はほんの少しだけ三杉を見直した。そのままお付き合いにまで発展してくれれば言うことなしなのだが、それは上手くいき過ぎだろう。三杉には他に想い人がいるようだし。
牧師勉強会が終わった解放感からか、三杉は腕を上に大きく伸ばした。
「お前この後、暇?」
「豆腐買わないといけないから忙しい」
「そこのコンビニで買えよ」
希が納得しない。本日の晩御飯に相応しい豆腐を調達するよう指令が降っているのだ。
「今日はすき焼きなんだ。和牛の」
「マジで!?」
ふふん、と望は鼻を鳴らした。すき焼きの肉と言えば豚肉が暗黙の了解となっている牧師家庭ではありえない贅沢だった。
「誕生日でもねえのに、どうしたんだ?」
「臨時収入」
武蔵浦和教会の口座に無名で百万円の振り込みがあったのだ。手違いでなければ、思い当たる節は一つ。尊だ。本人に確認したらあっさりと白状した。毎週ご馳走になっている礼のつもりだったらしい。その殊勝な心掛けは大したものだが、できればもう少し気を利かせてほしかった。
何故、牧師の個人口座ではなく、教会の口座を指定した。使えないではないか。
牧師はあくまでも雇われている身なのでいくら教会に金が入っても毎月の謝儀、つまり給料に影響はない。理由を問えば、尊はしれっと「嫌がらせです。あなたに渡すより、教会にお捧げしたほうがご利益ありそうでしたし」と答えた。呪われてしまえ。
とはいえ、降ってわいた大金に武蔵浦和教会の信徒は大喜びだ。百万円の使い道は今度の小会で話し合う予定になっている。教会の看板の修理、新しいコピー機の購入、壊れている給湯器の買い替えなど、使い道はいくらでもあった。
湧き上がる教会員達の傍ら、ここ数日は毎朝海苔と醤油だけでご飯を食べている望はひっそりと涙した。そんなひもじい的場姉妹をさすがの尊も見かねて、高級な和牛肉を持ってきたのだ。その場で望は神の祝福を尊のために祈ったことは言うまでもない。
「俺、今晩は特に予定ないんだけど」
「そうか。じゃあネット三昧だな。がんばれ」
「最近、肉食ってねえ」
「奇遇だな。私もだよ」
そそくさと高級百貨店に向かおうとした望の肩を、三杉は掴んだ。
「俺達は同期だ。分かち合おう」
「断る。今から一人分増やすのは面倒だ」
「希さんに確認だけでもしてくれよ!」
泣きそうな顔をした三杉を、望は心底煩わしいと思った。ダメもとで確認だけはしてやろうかとジャケットをさぐる。教会の受付台にそれらしきものを見つけ、手に取った。起動させた瞬間、自分のスマホは鞄の中に入れたままだったということを思いだした。これはおそらく三杉のスマホだろう。
「ごめん、みす――」
視界に入った画面。望はスマホを落としそうになった。雑踏の中で見覚えのある青年が横を向いて歩いていた。何故尊の横顔が三杉のスマホでメールや電話を待ち受けているのだろう。明らかに隠し撮りした画像だ。いつぞやの三杉の告白が蘇った。
――相手にもされてない上に……歓迎されないだろうな、牧師だから。
三杉はよくスマホを眺めてはため息をついていた。今日だって、休憩時間にも複数回目撃した。またゲームでもやっているとばかり思って気にも留めていなかった。
一目惚れ。相手にもされていない。つまり相手は三杉の存在すら知らないということではないのか。
痛々しい恋ポエム。やたらと使用されていた「本当」だの「ナチュラル」という単語。牧師だから、歓迎されない。それはそうだ。いくら自由恋愛とはいえ、同性同士は諸手を挙げて歓迎されないだろう。教会は古い慣習がいまだにはびこっているから。
手中のスマホが消えた。ものすごい勢いでスマホをひったくった三杉は、蒼白になっていた。脂汗さえ浮かべつつ動揺するその様は、何よりも雄弁に望の推理を肯定していた。
「…………みた?」
汝、偽証してはならない。
望は散々迷った末にゆっくりと首を縦に振った。途端、三杉は脱兎のごとく逃げ出した。その後ろ姿を望は見送ることしかできなかった。