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清くも正しくも美しくもない  作者: 東方博
四話 サロメの接吻
64/146

十八

 依頼を果たしました。つきましてはお約束通り、お会いいたします。

 尊からのメールを読んで、千尋の口は大きな弧を描いた。

 勝った。これであの女は野口と別れる。もっと若くて美しい男に乗り換えるのだと言って、野口を捨てるのだ。それが仕組まれたものだとも知らないで。

 幸せ絶頂になった所で、尊と自分が関係していることを明かしてやろう。どれだけあの女は傷つくだろう。もしかしたらそのまま自殺してくれるかもしれない。想像しただけで千尋は笑い出しそうになった。

 先日と同じホテルを予約した。個室で二人っきり。

 一週間ぶりに相まみえた尊は、いつになく妖艶な雰囲気を纏っていた。情事の名残を感じさせる、憂いを滲ませた眼差し。それでいて熱を帯びた切れ長の目。着崩したシャツから覗く、白い肌。浮き出た鎖骨。一度でも触れたらどこまでも堕ちてゆく底知れぬ魅惑を感じさせた。

 魔性の青年とは、このことを言うのだろう。

 千尋は無意識のうちに唾液を飲み込んだ。凄絶な色気にあてられたのだろうか。身体が熱くなった。尊の一挙手一投足に目を奪われる。髪をかきあげる、すらりとした長い指。細いが引き締まった腕。その指で、真理亜に触れたのだろうか。その腕で、真理亜を抱いたのだろうか。私以外の女を――

「ご心配なく」尊は婉然と微笑んだ「真理亜さんとは寝ておりません」

 浅ましい嫉妬を見透かされた屈辱も、興奮を駆り立てる燃料にしかならなかった。喉が急速に乾いていくのを感じた。

「今週中に離婚届を提出するそうです。今住んでいるアパートも引き払って、実家に帰るとのことでした」

 尊は薄手のジャケットから取り出したスマホを操作して、千尋に見せた。

 離婚届の写真データ。たしかに真理亜の名前と判が押してあった。証人欄には「三杉印真抜恵流」という冗談のような名と「的場望」とくだんの牧師の名がしっかり書かれていた。あとは野口が署名と捺印すれば完成。

 あの二人は別れる。野口は解放されるのだ。ついに、自分はあの女に勝ったのだ。

「そう、ご苦労様」

 勝利の愉悦を圧倒的な情欲が呑み込んだ。今は真理亜も野口もどうでもよかった。この青年が欲しい。ただ、目の前の青年を犯したかった。

 蠱惑的な白いうなじにかぶりつきたい衝動が湧き上がる。堪らなくなって千尋は尊に抱きついた。が、尊はひらりと千尋をかわした。

「では、私はこれで失礼いたします」

 千尋は耳を疑った。

「約束はあくまでも依頼達成後にお会いすることですから。成功報酬の百万は、今月中にこちらの口座に振り込んでおいてください」

 尊はメモをテーブルに置いた。口座番号と口座名が書いてあった。千尋は唇をわななかせた。

「恥をかかせるつもり!?」

「相手が男性でしたら、そうですね。女性とは勝手が違いますから。私も我が身が惜しいので容赦はいたしません」

 千尋は愕然とした。

 何故わかった。化粧から振る舞いまで気を配った。体の線がはっきりでないよう着物で装っていたのに。

「どうして」

「強いて言えば骨格と声。あとは企業秘密です」

 尊は魅惑的な笑みを浮かべた。教える気は毛頭無いらしい。

 おそらく直感。自分と同じように、この青年もまた千尋から独特の気配を感じ取ったのだろう。千尋はその場に崩れ落ちた。

「あなたなら、私のことを理解してくれると思ったのに」

 一目見た瞬間にわかった。

 同族だと思った。穢れたものと蔑まれる者。謂れもなく、自分ではどうしようもないことのせいで――だというのにひどい裏切りだ。

「絶対に負けないという気概には感服しますが、他力本願なのはいただけません」

 他にどんな手段があっただろう。年齢、性別、世間体。どれをとっても自分に勝ち目はなかった。唯一の拠り所は野口の愛。それすらも移ろいやすく、たしかなものではなかった。

 千尋は置かれたメモを握り潰した。尊の心変わりの原因を知った。馬鹿にしている。金のためと割り切っていたくせにあっさりと趣旨替えした青年が憎らしかった。

「……受け入れられるとでも思っているの?」

 嘲弄に千尋は口を歪ませた。

「教えてあげるわ。絶対にあなたは受け入れられやしない。あなたは一生、誰かに理解されることも愛されることもなく、たった一人で生きていくのよ」

 傷つけばいい。絶望するがいい。憎悪を込めて背中に向けて言葉を投げつけると、尊はゆっくりと振り返った。千尋は絶句した。

「そうでしょうね」

 尊は呟いた。端正な顔に浮かぶのは、紛れもない絶望だった。

「あなたのおっしゃる通り、私は心から誰かに愛されることはないのでしょう――それどころか、きっと一生私を否定し続ける。正義感が強くて、頑固な方ですから」

 遠い、届かないものを想う尊の眼差しは、壮絶なまでに美しく澄んでいた。絶対に手に入らないとわかっているからこその純粋さであり、哀しさだった。

 掛ける言葉を失った千尋に、尊は去り際に告げた。

「預言者ヨハネに恋をしたサロメは、どうしたかご存知ですか?」

 一目見た瞬間から恋に落ちたサロメは、ひたすらにヨハネに愛を請う。が、神の使者であるヨハネは、穢れた女の娘であるサロメを決して受け入れなかった。愛を拒まれたサロメはかえって燃え上がり、必ずヨハネの唇に接吻をすると誓った。

「彼女はヨハネの首を刎ねて盆に乗せて、ようやく本懐をとげたそうですよ」


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