十七
三杉が待ち合わせの喫茶店に到着した時、すでに真理亜は席に座っていた。
約束の時間まであと十分はあるのに。律儀な性格なようだ。ぼんやりとしていた真理亜だったが三杉の姿を認めると、慌てて立ち上がった。
「先日は大変失礼いたしました」
折り目正しく礼をして謝罪。三杉は可能な限り柔和に赦し、真理亜を席に座らせた。
「何かあったのですか」
「いいえ、何も」真理亜は取り繕うように微笑んだ「お忙しい折にわざわざご足労いただきありがとうございます」
「牧師家庭出身同士、親睦を深められないかと思いまして」
「三杉さんは牧師なんですってね。父から聞いたわ」
真理亜はほんの少し皮肉を滲ませて呟いた。
「よく牧師になろうと思いましたね」
ほめ言葉ではなかった。むしろその逆だ。あっさりと父親の言いなりになった三杉を軽蔑している。
怒りは湧いてこなかった。たしかに自分は、父親に屈したのだ。
「実は高校二年の時に父親に呼び出されましてね。深刻な顔で何を言い出すのかと思いきや『実は、今までお前を育ててきたのは牧師にするためだったんだ』と告白されたんです。大学四年間は好きなことをさせてやるから卒業したら神学校に行けって」
「それだけで神学校に?」
「ええ、まあ、仕方のないことです。経済的に自立できる状況じゃなかったので。それでもなんとか時間を稼ごうと二年留年しましたが、大学を卒業してしまったので仕方なく神学校行きましたよ。で、半年も経たない内に逃げ出しました」
興味をそそられたのか真理亜は身を乗り出した。
「それで?」
「一般企業に就職して、一年近く働いていたんですけど、ある日突然、会社の寮に親父が現れて『神学校に行くぞ』って何事もなかったみたいに言ってきました。冗談じゃない。こっちはもう就職して働いているんだし、今さら神学校に戻ったところで牧師になる気なんてさらさらないって、言い返して親父を置いて職場に行きました。追いかけてこなかったし、仕事が終わって寮に戻ったら親父の姿はなかったのであきらめたのかと思って安心しました。でも――」
父は、あきらめていなかったのだ。
「翌朝、また親父が寮にやってきたんです。おまけに、昨日と同じように『神学校行くぞ』って真面目な顔で言うんです」
真理亜の顔から笑みが消えた。微かに浮かんでいた軽蔑の色も、今は見えない。
「断って仕事に行きました。そしたらその次の日も、親父はやってきて『神学校に行くぞ』って……あれはもう意地の張り合いというか、一種の洗脳ですね。『神学校行くぞ』『嫌だ』『牧師になるんだ』『だが断る』って感じの応酬を来る日も来る日も延々と繰り返して――結局、俺が折れました」
あきらめて牧師になった。側から見たらそうだろう。
事実、三杉は平凡なサラリーマンであることをあきらめたのだ。しかし、父親から逃れることをあきらめて牧師になったのかといえば、それは少し違う。
「俺には、毎日誰かの所に押しかけて、断られて、それでも通い続けてでもやりたいことはなかった。自分にとってそこまでする価値のあることをやっていなかったし、今後もやるとは思えなかった。だから、神学校に戻った。親父みたいに牧師になれば、もしかしたら見つかるかもしれないと思った――今のところ、見つかっていないけど」
目を伏せた真理亜に三杉は訊ねた。
「あんたは?」
「え?」
「俺は今、どうして牧師なんぞ地味で儲からない仕事をやっているのかを言った。そんなにご立派な動機じゃないが、胸を張って答えられる。あんたはどうなんだ」
真理亜は両手を組んだ。落ち着きなく擦り合わせる。
「あんたはどうして野口茂と結婚したんだ。何のために、妻であることに固執するんだ」
「それは、」
「父親の言いなりになれと言うつもりはない。あんたの人生だ。あんたの好きに生きたらいい。だからこそ、誰かに反発するために生きるなんて馬鹿げてる。自分が納得できるだけの理由があるべきだ」
口を噤んだ真理亜を三杉は真正面から見据えた。
「あんたは何のために野口茂と夫婦になったんだ」
唯一にしてもっとも簡単な答えは『愛』だ。しかし、そんな単純な答えすら出てこないのであれば、その結婚は本質を見失っている――神が引き合わせたものではないのだ。